翌日。
今日は土曜日だから朝から一日コース。
ボランティア最終日だが、ここへ来て仁絵は落ち着かずソワソワしていた。
原因はもちろん昨日のあおいの一件。
告げ口の趣味はないと言ったものの、いざ始まってそのページになったときのことを思うと朝から胃が痛い。
今日の読み聞かせは霧山が昼の運動の時間の前、仁絵が夕方のお迎え時間前だ。
最後の挨拶もあるから、と園側がこの時間にしてくれていた。
もういっそのこと早く始まって欲しい、こんなことになるならペンを探しに何て行かなきゃ良かった、と
見当違いの後悔をしながら、仁絵はチラチラと時計を見ながらどこか上の空で
朝イチ子どもたちのリクエストに応えながら童謡の伴奏を弾いていた。
「はい、皆さん。それでは午前中の読み聞かせの時間ですから読み聞かせルームに移動してくださいねー」
時間になり、霧山が教室にやってきた。
何やら園の先生と話があるから、と仁絵を残して朝から外していたのだ。
読み聞かせルームに移動しながら、ちらっとあおいを横目で見ると、さして気にしない風で堂々と友達と歩いている。
ある意味大物だな…と、自分だけヒヤヒヤしてることが少し馬鹿らしく思いながら、
仁絵はやはり心配が隠せず、歩きながら子どもたちのお喋りに生返事するのだった。
読み聞かせルームに着いて、いつものように子どもたちが霧山を囲むように座る。
そして霧山が昨日予告した本を取り出して読み始める…のがいつもの流れだったのだが。
「さて、皆さんごめんなさい、昨日予告したご本なんですけど、
先生読む練習しようと思って持って帰ったら、お家に忘れちゃったんです。」
「…え?」
子どもたちは霧山せんせーも忘れ物するんだねー、などと無邪気に笑ったが、仁絵は思わずポカンと口を開けてしまった。
そんなはずはない。霧山は読み聞かせに選ぶ本は完璧に下読みして、吟味した上で決めていることを
この数日間で仁絵は十分分かっている。
予告までした本を前日に今更持って帰って下読みするなんて考えられない。
だからこそ、あおいのあの落書きは当日始まるまで見つからないだろうと気が気でなかったのだ。
だが、ということは…。仁絵がまたちらっとあおいを見ると、焦るどころか悔しそうに霧山を睨んでいる。
仁絵はせめてもの救いの手のつもりで、そんな顔をしたらバレるぞ、と心の中で忠告した。…全く届かなかったのだが。
予定の本を変えて、つつがなく読み聞かせの時間は終わった。
本の感想を言い合う子どもたちに囲まれながら読み聞かせルームを出て行く霧山の後ろ姿を目で追いながら、
仁絵はどうしたものかと思案していた。
霧山があの本の惨状を知っていて急遽本を変更したのは目に見えている。だが、どこまで突き止めているかは分からない。
事実を今からでも伝えに行くべきか…仁絵が葛藤していると、突然ドンと腰の辺りに衝撃が走った。
「った、…あおい…」
振り返ると、衝撃の正体は体当たりしてきたあおいだった。
明らかにお怒りの表情だ。
「ひとえにーちゃんの嘘つきっ」
「…は?」
「言わないって、やくそくしたのにぃっ」
拗ねた顔でさっきの霧山に向けたのと同じように自分をにらみつけてくる。
だがこれはとんだ濡れ衣だ。
「…俺は言ってねぇよ。」
仁絵が否定するも、あおいは聞く耳を持たない。
「うそうそうそうそ! だってひとえにーちゃんしか知らないじゃんっ」
ヒートアップしたあおいは無我夢中で叫んでいる。
「ひとえにーちゃんの裏切りものぉっ バカバカバカぁっ」
「あ゛あ゛?」
「ひっ…」
(ヤベっ…)
言いたい放題に言われ、本当に言ってない仁絵からしたら些か心外だった。
無意識にガンを飛ばしてしまったようで、固まったあおいを見て我に返る。
仁絵の表情が元に戻ると、あおいもまた調子を取り戻す。
「ひとえにーちゃん嫌いーっ もう一緒に遊んであげないっ」
「いや、おい、ちょっ…」
遊んでもらっていたのか俺は、とあおいの認識に少々驚いて間が空いてしまった。
その瞬間あおいは上履きを片方脱いで仁絵に投げつけてきた。
避け損ねて肩に当たる。園児の力とはいえ思いっきり投げているから多少は痛い。
とにかくこれ以上暴れられてはかなわない。
仁絵が取り押さえようともう片方の上履きも脱ごうとしているあおいに駆け寄ろうとした時だった。
「あぁ、ちょうどいい。2人とも揃ってますね。」
「…げ。」
いつの間にか戻ってきた霧山が読み聞かせルームの出入口に立っていた。
「お話があるので一緒に来てください。」
「…分かった。」
その瞬間全てを悟った仁絵が、重い口を開いて返事をしたのとは裏腹に、あおいは仁絵に目もくれず駆け出した。
「…ぼく、お外に運動行ってくる!」
仁絵があおいに近づくのをやめた隙に、あおいは霧山の横をすり抜けて出て行こうとした。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「私がお話ししたいのは『あおいくんと』仁絵くんですよ。」
霧山にあっさり捕まり、あおいは抱き上げられてしまった。
「さぁ、行きましょう。」
仁絵は重い足取りで2人の後を追いながら、
この期に及んでやだー、はなしてー、と暴れたい放題のあおいに、命知らずも大概にしろ…と、呆れるしかなかった。
(いや、なんでこんないかにもなところで…)
連れて来られたのは遊戯室の隣の室内遊具などが仕舞われている倉庫。
電気をつけても薄暗く、狭く、雰囲気だけで小さな子なら怖がりそうな部屋だ。
部屋に入った瞬間、あおいも少し表情がこわばったような気がした。
「さて、あおいくん。」
霧山はスポンジ製の低い子供用跳び箱に腰掛けると、あおいの片方の手を握って自分の前に立たせた。
仁絵は何も指示を受けなかったので、とりあえずドア付近に立って様子を見る。
「このご本に見覚えはありますか?」
そうして霧山が後ろ手で取りだしたのは、本当は今日読み聞かせするはずだった、霧山曰く「家に忘れてきた」はずの本。
「…せんせーお家に忘れてきたって言ってたじゃん。うそつき。」
あおいはぷいと横を向いて拗ねたように言い捨てる。
しかし、霧山は全く怯まずに続けた。
「えぇ、それについては先生が嘘つきですね。でも…」
霧山は握ったあおいの手を離すと、ページをめくって落書きされた例のページを見せつけた。
「これじゃあこのご本もう読めないでしょう?
なんでこのご本がこうなってしまったのか、あおいくん何か知っていますか?」
「…知らない。」
あおいはちらっとページを見ると、また目をそらす。
霧山は繰り返した。
「本当に、あおいくんは何も知りませんか?」
「っ…やっぱりっ…」
霧山の全てを知っているような口ぶりを感じ取ったのか、あおいは癇癪を起こしてしまった。
「やっぱりひとえにーちゃんが言いつけたんだろっ!!」
「だから俺は言ってねぇって…」
この雰囲気で自分に水を向けるのはやめてくれ…と、仁絵は眉をひそめて否定する。
すると、霧山が即座にその疑惑を否定してくれた。
「仁絵くんからは何も聞いてませんよ。」
「じゃあなんでぼくのせいなのっ せんせー見てなかったじゃんっ」
あおいがそれならと霧山に噛みつくと、霧山はさも当然という風にしれっとこんなことを言い出した。
「私は悪い子の心は何でもお見通しなんです。どれだけ悪い子だったか見えるんですよ。」
「そんなのうそだっ」
「嘘じゃありません。あおいくん、昨日と今日いっぱい悪い子だったでしょう。」
「そんなことないっ」
「そうですか? 私に叱られてふてくされて、ご本に落書きしたでしょう。しかもボールペンで。
ボールペンなんてあおいくん持ってないですよね。
使っていいお道具箱にも入ってない。どこから取ってきたんでしょうねぇ。」
「う…」
「それで、悪いことしたのを仁絵くんに見られて、黙ってて、なんて悪いお約束をしましたね。
そして仁絵くんは約束守ってくれたのにすぐに疑って、バカ、なんて汚い言葉を使って上履きを投げて。」
「な、なんでっ…」
(隠れて見てたな…)
落書きはどうしてバレたのか大体想像はつくが、数分前のそのやりとりを見てもいないのにこんな事細かに言い当てられるはずがない。
仁絵からすればのぞき見されていたのだと推測できるが、
あおいはそこまでの考えが及ばないのか全部知られてしまっているショックで固まってしまった。
「だって、だって…」
「それに悪いことしたって分かったときにすぐにごめんなさいも言えない。
困りましたねぇ、今のあおいくんはとっても悪い子で。
悪い子のままじゃあずーっとこのお部屋から出られませんよ?」
「いいもんっ ぼく反省室怖くないもんっ」
(あー、ここ元々そういう部屋なわけね。)
用具の出し入れなんて普段先生たちしかしないだろうから、もっぱらここは悪いことをした子が叱られる部屋なのだろう。
あおいの表情がこわばったのも納得がいく。
「でも私はあおいくんがこのお部屋からずーっと出られないと困ります。
お父さんやお母さんやお友達や先生とずーっと会えなくてあおいくんはいいんですか?」
「それは…やだ…」
霧山の言葉に、その状況を想像したのかあおいは分かりやすく意気消沈する。
その様子を見て霧山はすかさず畳み掛けた。
「それじゃあ良い子になりましょう。良い子になったら出られますよ。」
「…うー…わかったぁ…」
(おぉ…)
子どもというのは単純なものだ。霧山の誘導も巧みだが、こうもあっさり状況が変わったことに仁絵は感服した。
「何分お座りすればいいの…?」
あおいの問いに、罰は正座か何かか?と仁絵が暢気に構えていると、霧山が突然爆弾を落とした。
「いいえ、あおいくんは今日とっても悪い子でしたから、お座りしているだけでは良い子になれませんよ。」
「えっ…」
「おいおい、まさか…」
あおいの戸惑い様からするとこの部屋で罰と言えば良い子で座って反省する、ということなのだろう。
しかし、霧山が今日はそれではダメだと言っている。
嫌すぎる心当たりが1つ浮かんで、仁絵は外れてくれと念じたが、それはすぐに打ち砕かれた。
「あおいくんの今日のお仕置きはお尻ペンペン10回です。園長先生とお話して決めました。」
「おしりっ…!?」
あおいが元々大きな目をさらに見開いて硬直している。
外れて欲しかった心当たりが的中してしまって仁絵が2人から目を背けようとすると、
仁絵君、と霧山から厳しい声で呼ばれた。
「あおいくんが良い子になるのをちゃんと見なさい。」
「う…」
「返事は?」
圧がいつも以上にすごい。
しかもあおいの前で、自分がみっともなく駄々をこねるわけにもいかず、仁絵は項垂れて返事をした。
「はい…。」
「さて、あおいくん。お仕置きです。」
「やぁっ…」
霧山はあっさりあおいを膝の上に乗せると、履いていたズボンとパンツを下ろしてしまった。
「やー、怖いぃぃっ」
「っ…」
居たたまれない。しかし、見ていろと言われた手前目をそらすわけにもいかない。
あおいは初めてのお仕置きへの恐怖で、羞恥心はあまり感じていないようだが、自分があおいの立場になって考えてみればそれでも、だ。
自分が黙っていなければ違う結果になっていたのだろうかと思うと、それが仁絵にとっては辛くてたまらなかった。
パチィンッ パチィンッ
「!?!? やぁぁぁっ いたいぃぃぃぃっ」
始まった途端、火のついたようにあおいが泣き出した。
ほんのりピンクに色づいているから、手加減されているとはいえ初めてでこの年齢の子にしたら相当な痛みだろう。
「こんなに痛くて怖いお仕置きを受けなきゃ良い子になれないくらい今日のあおいくんは悪い子だったんですよ。
反省できますか?」
パチィンッ パチィンッ
「やぁぁぁんっ できるぅぅぅぅっ」
パチィンッ パチィンッ
「もうしないぃっ ごめんなさぁぁぃっ」
(すげ…)
あっさり自分から「ごめんなさい」。純真無垢な子どもの真っ直ぐさに、仁絵は感動すら覚えた。
そしてこんなに真っ直ぐな子だからこそ、あの時自分が違うアプローチをすれば、あおいを良い方向に導けたかもしれない、
それを試みるべきだったと後悔が募る。
「うん、良い子になってきましたね。あと少し。」
パチィンッ パチィンッ
「いたぃぃっ ごめんなさいぃぃっ」
パチィンッ
「ふぇぇぇぇんっ」
「最後です。」
パチィィンッ
「あぁぁぁぁぁんっ」
「はい、おしまいです。よく頑張りました。」
「ごめんなさい、せんせぇごめんなさぁっ…」
泣きじゃくりながら抱きつくあおいを、霧山がよしよし、とあやす。
なかなかお目にかかれない光景に、仁絵が固まっていると、
あおいが突然身をよじって霧山に抱かれたまま仁絵の方を向いた。
「ひとえにーちゃっ…ごめんねっ…ばかとかきらいとかっ…うそだからっ…」
「あおい…」
仁絵が歩いて近づくと、あおいが手を伸ばしてきた。霧山があおいを離すと、
あおいはお尻を出したままなりふり構わず仁絵に抱きつく。
「ごめんなさっ…ごめんなさいぃ…」
「分かってるよ、大丈夫だから。イライラして言っただけだってことくらい分かってる。」
「でもひとえにーちゃ、ちょっと怒ったぁ…」
あおいに痛い所を突かれ、仁絵は気まずく目線が泳ぐ。
あの時は感情をむき出しにするあおいに引っ張られてしまって、今思えば一瞬とはいえ恥ずかしい。
「あー、あれは…俺もあおいと一緒。つい、な。もう怒ってねぇから。んなに泣くなよ。」
仁絵があおいの頭を撫でると、あおいは涙でいつも以上にキラキラ光る目を仁絵に向ける。
「ほんとにっ…ほんとに僕のこと怒ってない?」
「もう良い子になったんだろ? ならいいだろ。」
「…うんっ」
ようやく泣き止んで赤い目のままながら笑顔を見せたあおい。
そんなあおいを見て、仁絵は意を決して口を開いた。
「あー、あとあおい。俺も…ごめん。」
仁絵の突然の謝罪に、あおいは目を見開いてきょとんとしている。
「なんでひとえにーちゃんがごめんするの…?」
「あおいと悪い約束しただろ。悪い約束だって俺も分かってたから、そんな約束はダメだって断って、
落書きしたこと霧山…先生に一緒に謝りに行けばよかった。
そうしたら、あおいもこんなに…10回も叩かれなくても済んだと思う。」
「んー…」
何となくは言われてることが分かるのか、あおいは口を結んで聞いている。
「俺のが兄ちゃんなんだから、ちゃんとあおいにどうしたらいいか教えなきゃいけなかった。ごめん。」
仁絵の謝罪に、あおいはんー、と考え込んでこう結論づけた。
「…ひとえにーちゃんもちょっぴり悪い子だったってこと?」
「あー、まぁ…そう…かな。」
なんかそういう言い方されると恥ずかしい…と、仁絵が赤面しつつ否定できずにいると、あおいが純粋さでとどめを刺してきた。
「『ごめん』じゃなくて、『ごめんなさい』って言うと良い子になれるって先生が言ってたよー」
「う…」
だからあおいは自分からあんなに素直に言ったのか。良い子になりたい一心で。すばらしい教育の賜だ。
あおいからしたら最高のアドバイスをしてあげているのだろう。こうなってしまったら仁絵ももう後には引けない。
「あおい…あー…うー…」
「ひとえにーちゃん?」
よっぽど難しい顔をしているのだろう。あおいが心配そうに顔を覗き込んできて余計言いづらい。
もう、腹を括るしかない。
「ごめん…なさい。」
「フフッ」
その瞬間、耐えられなかったのか霧山が小さく吹き出した。
こんな時に笑うな、と仁絵が言外に睨めば、霧山は失礼、と手を上げて応える。
あおいといえば、これでひとえにーちゃんも良い子だねっと上機嫌だ。
そんなあおいに、霧山は落書きしてしまった本を手渡した。
「あおいくん。それじゃあ、最後にこのご本を園長先生に渡してごめんなさいしてきましょうか。
これは保育園のご本で、園長先生が買ってくれたものですから。」
「うん…園長先生も怒ってる…?」
不安げなあおいの頭を撫でて、霧山は優しく諭した。
「ちゃんとごめんなさいして、良い子になったあおいくんを見せれば大丈夫ですよ。
さぁ、行ってらっしゃい。」
「…うんっ 行ってきますっ」
あおいは決意を込めた目をして、絵本を抱いて倉庫を出て行った。
「…さて。」
「はぁ…」
あおいが出て行って、残された仁絵。
霧山が口を開き、切り出される内容が何となく分かる仁絵はため息をついた。
「もう良い子になれたようですから、ケジメだけつけましょう。あおいくんと同じ、
『10回』か『全部下ろして膝の上』か、どちらが良いですか?」
「10回。」
即答した仁絵に霧山がわざとらしく顔をしかめる。
「可愛げありませんねぇ。何で10回かも言ってないのに。」
「その体勢なら何でだって10発のがいいわ…」
「フフッ、まぁいいでしょう。私の言いたかったことも全部自分で分かっていましたし、
ごめんなさいも言えましたし。手早く終わらせましょうか。
はい、服はそのままでいいですから、ここに手をついて。」
先ほどの絵本同様どこからともなく取り出した1m物差しでさっきまで霧山が座っていた跳び箱を指し示された。
物差しなんてこの倉庫にある意味が分からないし、あおいに使うはずもないから
最初からこれは自分に使うつもりで用意していたのだろう。
服もそのままでいいと言ってくれているし、こうなったら早く終わりたい。
仁絵は素直に跳び箱に手をついた。そして物差しがピタピタと当てられる。
しかしその当てられた場所に、嫌な汗が流れた。その時。
ピシィンッピシィンッピシィンッピシィンッピシィンッ
ピシィンッピシィンッピシィンッピシィンッピシィンッ
「~~~~~~っっっっあ゛ぁっ」
「はい、おしまいです。」
「こんのっ…鬼畜っ…」
「おや、そんなこと言う悪い子はもう10回ですか?」
「あー、もうごめんなさいごめんなさい、もういいだろっ」
霧山の不穏な言葉に仁絵はやけになってあおい曰く「良い子になれる」言葉を叫んだ。
10回全てお尻の下、足の付け根。しかも右左交互ではなく5回ずつ連続。
容赦ない痛みに泣きはしなかったものの視界が揺れたのはもう不可抗力だ。
跳び箱に突っ伏して痛みが治まるのを待っていると、あぁ、そうだ、と霧山がふと思い出したように言ってきた。
「考査の結果、満点で出しておきましたから。
私は嘘つきになりたくないので、ちゃんと最後の読み聞かせ完璧にこなしてくださいね。」
「はぁっ!?!?」
まだ考査は終わってない。最後の読み聞かせはこれからだ。今日のレポートだって書いていない。
意味が分からず仁絵が霧山を見上げると、当の本人はしれっとしている。
「いやー、学校側から最終結果は明日までにって言われてたんですけどね。
園側と調整が済んで、貴方に日程渡してからそれを言われたものですから。
学校側に出してある日程では昨日で終わってることになってます。
実際に縮めてあげようかとも思いましたけど、
思ったより貴方子どもと相性良いですし、楽しそうだったのでまぁいいかと思いまして。
まぁ…まさか最後にこんな一悶着あるのは予想外でしたが、
最終的にはこのおかげで良い経験を積んでくれましたし結果オーライでしたね。」
「なんだよそれ…」
よかったよかった、と微笑みながら霧山が未だ跳び箱に突っ伏したままの仁絵の横に座り込む。
「どうでしたか、読み聞かせボランティア。」
「まぁ…悪くなかったよ。」
霧山の問いに、仁絵は穏やかに答えた。
それを聞いて、霧山は嬉しそうに目を細め頷くと、さて、と立ち上がった。
「ではご飯を食べて、最後の大仕事頑張ってきてください。」
「大仕事…? あぁ…だったらこんな意地悪い叩き方しなきゃ…」
仁絵が叩かれたところに手をやると、霧山は一瞬目を丸くして、それから仁絵の言いたいことを理解したのか吹き出した。
「え? あぁ、フフッ、まぁそれもそうでしょうけど…」
「…? なんだよ…?」
「フフ、まぁまぁ、始まれば分かりますよ。」
「…気持ち悪ぃな。」
汲み取れない仁絵が首をかしげるが、霧山はそれ以上説明してはくれなかった。
「仁絵君。」
「卒業決定おめでとうございます。」
「…どーも。」
サラリと贈られた祝福の言葉に、それは今言うことじゃねーだろと仁絵は照れ隠しで心の中で突っ込むのだった。
霧山が「大仕事」と言ったのは、痛むお尻(というか付け根)を庇いながら読み聞かせをすることではなく、
今日が最後と挨拶した後、全く離してくれない子どもたちを宥め賺すことだったと仁絵が気付くのは、数時間後のこと。
こうして、追加考査の4人も含め、風丘担任の3年D組は希望者全員揃って晴れて高校進学を決める。
ほとんど顔ぶれは変わらないとはいえ、1つの節目を迎え、また新たな生活が幕開けるのだった。
《第一部 おわり》