「うわ、終わった…」

時刻は朝9時3分。

自室のベッドの上で開いた携帯の画面に表示された時計を見て、夜須斗は天を仰いだ。
 

 

 

今日は夜須斗の内部進学のための追加課題、保健室の大掃除の実施日。
集合時間は朝9時。つまりは既に遅刻決定。

「始まる前から終わってるし…」

別に夜須斗だってさすがにこんな大事な日、最初から寝坊するつもりだったわけじゃない。
イヤイヤながらもある程度は真面目にこなして、合格点をもらうつもりだった。
だったのだが…。

「あいつのせいじゃん…。」

ただ、昨夜、今日監督役を務める雲居から

「明日は絶対遅刻したからアカンで」

「考査に遅れたら終わりやからな」

「アラームかけたか? あるんやったら目覚ましもダブルでかけろや」

「寝坊せんように今日は早目に寝とけ」
と、しつこいくらいに送られてくる過保護なメッセージに、

そんなに信用されてないのか、と少しカチンときてしまって。
くだらない反抗心とプライドから、

わざと濃いめのブラックコーヒーを飲んで深夜に放送されている面白くもないB級映画をボーッと見て、
それから携帯の電源を落として眠りについた。

「って…俺のせいか。」

思い返せばあまりにも子供っぽすぎる反抗の仕方に、

自虐的な笑みをこぼしながら、夜須斗はのそりとベッドから起き上がった。
ハッと目が覚めて電源を入れた携帯画面に表示されたのが冒頭の時刻。

そして次いで目に入ったのが既に3件も入っている着信履歴。

「ヤッバ…」

そうこうしている内にまた携帯に着信が入る。
出られるわけがない。出れば開口一番怒鳴りつけられ延々と説教されるだろうし、
その後素直に学校に行こうものなら最後、地獄を見ることは火を見るよりも明らかだ。

…だが、行かなければ内部進学の未来はなくなる。

「…もういいか。」

こういう時、自分の性格は残念だと自分で思う。プライドが高い上に、執着できないのだ。いろいろなことに。
学業だって、部活だって、出来るようになりたい、上手くなりたいという情熱は全くといって湧かなかった。
勉強は人より出来たけれど、それだってそれを欲して努力した結果では全くない。

出来なければ面倒ごとが増えるだけ。勉強が出来れば教師に口うるさく言われる場面が減るから、

頑張らない範囲で「勉強出来る奴」のラインをキープしていただけだ。

だからこそ「意欲/関心」が常に最低ランク。だって意欲も関心もまるでないのだから当たり前だ。
部活だって中学は強制入部だから入らされただけで、

ある程度参加してるのはサボりすぎれば風丘に文字通り痛い目に遭わされるから。
 

そうしていい加減に生活してきたツケがこれだ。

客観的に見れば今日ほど肝心な日はないだろう、というところですらいい加減さが露呈して、
しかも何とか取り返そうと頑張る気も起きない。

必死になっている自分の図を想像するとたまらなくプライドが刺激されてしまう。
発端が浅はかな反抗心だったのがまた情けない。

「…面倒くさい。」

雲居は夜須斗の家を知っている。このまま着信を無視し続ければ絶対に乗り込んでくる。
それこそ更に面倒くさい。この状況下で、あいつと二人きりになりたくない。
夜須斗は手早く身支度を済ませると、財布と携帯等最低限の荷物を持って家を出た。
両親は仕事、祖父は仲間と手合わせする、と朝っぱらから少し遠くの道場に出掛けている。
何処に行くか誰にも聞かれないし、雲居が押しかけてもとりあえず家に誰もいない状況になるのは好都合だった。



「諸々なんて説明するかな…」

ボーッと歩きながら、夜須斗は頭を悩ませていた。
そもそも内部進学についての現状を夜須斗は家族の誰にも言っていない。
惣一たちだって、さすがに土曜日一日学校に行って保健室の掃除をするだけの課題をクリアできないだなんて思っていないだろう。

「合わせる顔ねぇな…」

星ヶ原高は、内部進学できなかった者に外部受験生に混じって受験する資格は与えられない。

それは、内部進学考査を通過できなかった時点で入学できる資質はないと見なされるからだ、と
これはどちらかというと努力しなければならない惣一とつばめに発破をかける意味で風丘が放った一言だが、

それに今追い詰められている。

「あぁ…もう…」

内部進学自体に執着はない。別に、普通に外部受験すれば1つや2つ適当な高校に受かるくらいはなんとかなるだろう。
ただ1つ執着があるとすれば、「今いる仲間と同じ学校に行く」、ということだ。
惣一、つばめ、洲矢、仁絵はもちろん、何だかんだ上手くやってきたクラスメイト、

そして今まで自分が見てきた中で初めてちょっと面白い教師だと思った風丘。
普通の中学だったら卒業で手放さなければならないそれらが、星ヶ原中高ならあと3年手元に残せる。その環境だけは。

「惜しいよなぁ…」

でもそれを素直に誰かに言うのはつまらないプライドが邪魔をして。
夜須斗の呟きは誰に聞かれることもなく空気に溶けて消えていった。



結局小一時間ふらふら彷徨った末、夜須斗は学校にたどり着いていた。
道中雲居に出くわさなかったのは奇跡に近い。
しかしそのまま保健室に行く気にはなれず、

夜須斗は土曜日でただでさえ人気のない裏庭の芝生の上、更に人目につかない茂みの陰に寝転んだ。

「どうするつもりなんだか、俺は…。」

学校に来たはいいが、自分がどうしたかったのか、自分でもよく分からない。
雲居に許してくれ、チャンスをくれ、と泣きつくのか?

…そんなことがプライドもなく出来るなら朝の時点で遅刻確定していても登校していた。
じゃあ綺麗さっぱり諦めて、切り替えて外部受験しますと宣言するのか?

…そのつもりならわざわざ学校に来ないで、今も一定に鳴り続ける携帯をとればいい話だ。

「…」

♪♪♪~~~♪♪~~~♪

取ればいいだろう。取れば終わる。朝から一人で勝手に繰り広げたこの茶番劇。くだらない葛藤。…諸々全てが、終わる。

取って一言言うだけだ。取れば…
見つめる画面には朝から何度となく着信履歴で見た名前。
着信メロディは好きな音楽のはずなのに耳障りで家を出る前に切ってしまったから耳に入るのは断続的なバイブ音だけ。
無視するならバイブも切ればいいものを、自分の行動が中途半端でそれすら未練がましくて自分で自分がよく分からない。
そうこうしている内にバイブ音が止んだ。手に伝わる震えがなくなって、何となく空しさに襲われる。

「なーにやってんだか…」

先ほどからの幾度とない呟きと同じく空気に溶ける…はずだったが、今回は違った。

「ほんまに何やってんねん。」

「…っ!」

耳に入ったその声に、夜須斗は咄嗟に身を起こして逃げを打とうとした。逃げてどうするつもりだったかなんて分からない。
だがこの状況でおとなしくこの人物と正対できるほど夜須斗とて肝が据わってない。

こういうときのこいつは苦手だ。とにかく距離を取りたかった。身も、心も。
しかし、結果としてそれは叶わなかった。

「つっ…」

「何逃げようとしてるん? おんどれ朝からどういうつもりや。」

気づけば芝生の上に逆戻りしていた。雲居に押し倒され、上からのしかかられている。なんだこの状況は。
体勢を俯瞰的に見れば酷く滑稽で、なのに目の前の雲居からは痛いくらいの怒気が伝わってきて、

そのアンバランスさに非常に居心地が悪かった。

「…ちょっと。何やってんの、変態。どいてよ。俺にこっちのシュミないんだけど。」

「そんなこと聞いてへんやろ。質問に答え。」

「これが生徒に質問する体勢?」

「答えたらとりあえずはどいたる。」

「…」

「はよ答え言うとるやろ!! 何でこんなことになっとんねん!」

口を噤む夜須斗に、雲居が真っ直ぐに怒鳴ってきた。
あぁ、だからこいつは苦手だと思う。

プライドだけは無駄に高くて、のらりくらりと執着ないフリをして生活してきた自分にとっては、

その格好を保ったまま相対するのがキツいのだ。引っ張られてしまいそうで。

「別に…っただ寝坊しただけっ…」

顔を背けて吐き捨てる。あまりにも顔をそらしすぎて芝生が口に入って気持ち悪いが、雲居の瞳を見るよりはいい。
が、それすら雲居は許してくれなかった。はぁ、とため息をついたかと思えば、顎を無理矢理掴まれ、正面を向かされる。

「せやったら『寝坊しましたごめんなさい』言うておとなしく叱られに来ればよかった話やろ!」

「…あんたが考査に遅れたら終わりって言ったんじゃん。
終わってんのにわざわざ叱られるためだけに行くなんてバカみたいでしょ。」

「…それで着信もメールも全無視、家から逃亡か? 人がどれだけ心配した思てんねん!」

「頼んでないよそんなこと。あんたただの監督役だし。昨日のメールといい、押しつけがましいんだけど。」

視線がふらふら彷徨う。目を合わせたくない。雲居の真っ直ぐな目が痛い。

「夜須斗ぉ……さっきから何無理して憎まれ口叩いてるん。」

雲居が呆れたような、低い声音で言い放つ。

無理して、というのがまた何か心をざわつかせて、

顔は動かせないけれど、それでもいてもたってもいられなくて、夜須斗は視線だけをどうにかそらそうとした。

「っ…何それ意味わかんない。」

「…質問変えるで。」

「早くどいて。さっきの質問答えたじゃん。」

「質問1つとは言うてへんやろ。」

 

いけしゃあしゃあと言い放つ雲居に、夜須斗は心の中で舌打ちする。

「…変態な上に横暴かよ。」

「お前、惣一たちと同じ学校行きたないん? はーくん担任のクラスになりたないん?」

「っ…」

核心を突く質問。
そんなド直球に聞かれて、俺が素直に答えられると思っているのか。

だったらこいつは俺のことを何も分かっていない。
胸を無遠慮に抉られた気がした。

瞬間、むかついて、むかついて、渾身の力を込めて夜須斗はのしかかっている雲居を突き飛ばした。

「行きたいなりたいって言えば叶えてくれるわけ!? もう手遅れだろ!!!」

突き飛ばされた雲居は、はぁーと何度目か分からないため息をついて、やっとか、と呟いた。

「最初からそれくらい言えや。変に達観した態度とるから俺に怒鳴られるんやで。」

「それはあんたが短気なだけ…ってか何。今更…」

「今日は急患が入って考査は明日に延期や。」

「…は?」

「教頭と学年主任にはそう報告して、保健室の使用許可追加で明日ももらっといたわ。

朝来ぇへんかった時点でどうせお前のことやからプライド邪魔してすぐには尻尾掴ませへんやろ思ったしな。」

「何余計なお世話…」

「内部進学したいんやろ? 俺の機転に感謝せぇ。」

「そんなこと一言も…っ っていうか誰に感謝しろだって?」

一見普段の雲居の調子に戻ってきたようで、夜須斗も普段の調子で今度は心の底から憎まれ口を叩いた。
眉間に皺を寄せて睨んでやったら、雲居はおーおー、今のうちにせいぜいそんな顔しとけ、と余裕をかましてくる。

「…さ、急患の治療するで。」

 

唐突な言葉に、夜須斗が目を見開く。それは嘘も方便というやつではなかったのか。

「は…何それ、急患ってマジなの?」

 

夜須斗が聞き返すと、雲居はいたって真面目に言い切った。

「おぉ、マジやで。自分の願望一ミリも素直に言えない困った症状が出とる。
自分で自分を破滅に追い込むエベレスト級の高さのプライドへし折る治療を今すぐせんとなぁ。」

あぁ、ここでこそ逃げを打つべきだった、と夜須斗はいつの間にか雲居にがっしり掴まれた己の右腕を見つめて唇を噛んだ。