「みらちゃん…こんな時間にまた歩いて会社から帰ってきたの?」
 

「もー、今日はそんな遅くないだろ、葉月は心配し過ぎ。」

「まーた始まった…飯温め終わるまでに終わらせろよ…」

年の瀬も迫った12月中旬。
今日は週末の金曜日。時刻は夜10時になるところ。
職場からやってきた実嵐は葉月から何度言われたか分からない苦言を呈されていた。

仕事が不規則な実嵐は、なかなか葉月と会える時間が作れないときは、
ふらっと空いている日に風丘宅にやってきては二人で過ごし、

翌朝風丘宅から仕事に行く、という過ごし方を元々よくしていた。
仁絵が葉月と同居を始めてしばらくは『お家デート』が嫌いなんて言ってさすがに遠慮していた実嵐だったが、

1年半も経った頃には構わず押しかけるようになり、
仁絵は仁絵で最初は気を遣って夜須斗や洲矢の家に泊めてもらっていたが、
あまりにもタイミングが読めず唐突なこともあるので、

途中からは適当に付き合って頃合いを見計らって自室に引っ込む程度で済ませてしまうようになった。

そして今日も今日とて昨晩「土曜日休みになったから金曜夜に行くね!」と
唐突に連絡してきた実嵐が予告通りやってきたのだが、来るまでの過程が問題なのだ。

実嵐は新聞記者をしているのだが、この10月で勤務先のビルが移動になり、
以前の風丘宅から車で15分という距離が、徒歩15分という、歩いて歩けない距離になった。
そのため、これまでは必ず職場にタクシーを呼ぶか葉月の迎えを呼んでいた実嵐が、

最近は歩いて風丘宅にやってくるようになったのだ。
夕方くらいならいざ知らず、それが大体夜10時を回るいわゆる深夜帯なものだから、
さすがの葉月も注意するのだが、当の実嵐は聞く耳持たずだ。

「大体、職場にタクシー呼んでる時間で歩いて帰れるし、タクシー代もかからなくてすむんだし、いいだろ?」

「みらちゃん、お仕事終わるの遅くて

今日みたいに俺が迎えにいけることが多いんだから呼んで、って言ってるじゃない。
車出す手間考えてくれるなら歩いて行くし。」

「そんな葉月にわざわざ来てもらう方がタクシーより嫌だよ。
っていうか、職場からここまで街灯多い道歩いてるし、
そもそも女の1人歩きが危ないって言いたいんだろうけど、

こんなパンツスーツ着た男みたいな女誰も狙わないから。」

実嵐の物言いに、葉月は眉間にしわを寄せ、はぁっとため息をついた。

「みらちゃんほんとに分かってないよね…埒があかない。決めた。」

「な、なんだよっ…」

ずいっと眼前に迫ってきた葉月に、実嵐が一歩後ずさる。
葉月は実嵐の耳元に口を寄せると、低い声でささやいた。

「次、夜10時以降に一人で歩いて帰ってきたら…
もう絶対そんなことしないって思えるように、ここ、に覚え込ませてあげるから。」

そう言うと、実嵐のお尻をパンツスーツ越しに軽くパシンッと叩くと、
「仁絵君、俺お風呂入るねー」とキッチンで実嵐の食事を準備している仁絵に声をかけ、風呂場に向かう。

「っ…んのっ変態っ!!!」

風呂場へ向かう葉月の背中に向かって実嵐が叫ぶと、

はーぁ、とまたため息をつきつつ、葉月が振り向いた。

「忠告したよ。…本気だから。守れよ、実嵐。」

「っ…」

振り向き様の葉月の念押しにも、実嵐は頷かずそっぽを向いて

仁絵が食事を並べてくれているであろうダイニングに向かった。
 

 

 

「もーっなんで!! ほんと大げさ!! 葉月は私の彼氏であって保護者じゃないだろっ」

「彼氏だから言うんだろ…」

「なに、なんか文句あんの!!」

「文句なんて言ってねーだろ、つーか黙って食えよ。」

仁絵の用意した食事を掻き込みながら、実嵐は仁絵に愚痴をこぼす。

「大体私をかわいいとかいう特殊性癖は葉月くらいなんだから! 
過保護なんだよあいつは…」

とんでもない物言いに、思わず仁絵がブフッと吹き出す。

「性癖って…もうちょい言葉選べよ…ってか…そうか?」

「一丁前に中学生のガキが気遣うなよ。社内でも男女って言われてんだから」

「ふーん…」

そんなか?と内心首をかしげつつ、これ以上言うとまた面倒になる、と
ここのところ実嵐が来る度に葉月の隙を見ては実嵐に愚痴を聞かされている仁絵は口をつぐんだ。

「あ、そういえば」

仁絵が黙ったことでしばしの沈黙の後、実嵐は思い出したように口を開いた。

「24日、次の日と連チャン休刊日で当直も外れてまさかの休みが取れたからさ。
23日の夜またこっち来るから。」

実嵐に言われ、仁絵は24日…と自分の予定を頭の中で思い返す。

「あぁ、安心しろよ。24日はちゃんと出掛けるから。

洲矢の家でクリスマスパーティーだかなんだかで。」

「恩着せがましく言ってくるのがむかつくな。」

「えーっと、23日?… あ。」

実嵐のじとっとした目線を気にもとめず、

仁絵はリビングの壁に掛けられた葉月と仁絵の予定が書き込まれたカレンダーを見る。
23日の欄の書き込みを見て、実嵐に言う。

「せっかくだけど、この日、風丘帰ってくるの夜中だぞ。
大学のサークルの先輩だかの結婚式に呼ばれちまって朝から沖縄で、

戻りで乗るの夜9時前発の最終便だっつってたから。」

実嵐が残念がると思った仁絵だったが、実嵐の反応は違った。

「マジで!? やった、じゃあその日は帰り方でうるさく言われない!」

「論点そこかよ…」

呆れ顔の仁絵に、実嵐が更に言い募る。

「仁絵、私が歩いてきても黙ってろよ!」

「はぁ? 俺は風丘に聞かれたら…」

言うからな、と言おうとする仁絵に、実嵐はむっとすると、突然ニヤッと笑って聞こえよがしに言った。

「あー、そういえば、最近光矢たちに仁絵の家での様子聞かれるんだよなー。
この前朝ご飯食べる気しないって駄々こねて葉月に泣かされてた時の話でもしてやろうかなー。」

「ってめぇ…」

思い出したくもない出来事を掘り返され、仁絵が実嵐を睨む。

「ふふんっ♪」

「あー、もう分かったよ!」

勝ち誇ったような実嵐の笑みを見て、結局仁絵が折れた。
すると、実嵐がうれしそうにやった、と飛び跳ねる。

「ありがと仁絵っ」

実嵐に抱きつかれ、今度は仁絵が飛び跳ねて慌てて実嵐を引き剥がす。

「うぁっ、おい、絶対それ風丘の前でやるなよ!!」

必死の形相に実嵐が意味が分からない、と首をかしげる。

「はー? 葉月だって仁絵のことぎゅってしてるから別にいいだろー?」

「…あんたそれマジで言ってるとしたら心の底から風丘気の毒だわ…」

「なんだよそれー」

つれない奴ー、とすねる実嵐を見て仁絵は呆れる。
葉月と実嵐が一緒に過ごしているのを見たのはこの1年弱。
機会としてそう多くはないが、

それでも葉月が実嵐に対する独占欲をわりと強く持っていることはビシビシ伝わってきているというのに。
当の本人はそれに全く気づいていないようで、
そりゃ、ああ度々ため息つきたくもなるよな…と仁絵は密かに葉月に同情するのだった。
 

 

 

 

 

迎えた23日朝。

沖縄行きの朝イチの便に乗る葉月を見送るため、仁絵は一度起きようとしたが、
葉月に「せっかくのお休みで、しかも朝弱いのに無理しなくていいよー」と言われ、お言葉に甘えさせてもらった。

10時過ぎに仁絵がノロノロ起き出してリビングに行くと、机の上に葉月の書き置きがあった。

『今日は1日いないけどごめんね。みらちゃんのことよろしく。葉月』

そしてLINEにはかつて一方的に登録された実嵐からのメッセージ。

『今日はよろしく! 夕飯はクリームシチューがいいな! 

たぶんいつもと同じ10時ぐらいだから! 葉月にはくれぐれも内密にっ』

「はは…」

バレたら俺もただじゃすまないな…と仁絵は乾いた笑いをこぼしつつ、

クリームシチューの材料を確認しにキッチンに向かった。
 

 

 

 

 

「…マジで来ねぇじゃん。」

時刻は11時10分。
 

とっくにクリームシチューは出来上がり、規定時間以上ばっちり煮込まれている。
10時半を過ぎた頃、遅くなったから先にお風呂に入るとか言い出すかもしれないから、一応湯も張った。
なんで担任の彼女なんかのためにこんなことをしてるんだ、とふと思う瞬間もあったものの、だ。
しかし、ここまで準備してやったのに当の本人は一向に現れない。
風呂はもう追い炊きしないとならないだろうが、そんなことはもはや問題ではない。

『今どこ? 遅れるなら言えよ。』

と送った15分前のLINEは未だに既読がついていない。

「おいおい…」

さすがに心配になってきて、仁絵の心がざわつく。
自分が何も言わずに帰らず連絡を無視し続けた時、風丘にもこんな思いをさせてしまったのか、と

思わぬところでダメージを食らいながら、
仁絵は今まで一度もかけたことのない実嵐の携帯電話番号を電話帳から呼び出し、電話をかける。
しかし、結果は

『お掛けになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為、繋がりません』

というむなしいアナウンス。

「あー、もう!!!」

なんで自分がこんな思いをしないといけないのか。
心配といらつきで心が更にざわつく中、仁絵は頭を巡らせる。
探しに行こうにも職場と風丘宅の道程のどこかにいるなんて保証はないし、

当てもない中行くには時間がなさ過ぎる。
時計を見ると、そうこうしている内に時刻は11時半だ。

葉月の乗った便が空港に着くのが11時頃と言っていた。
書き置きで「実嵐をよろしく」と言っていたものの、どう考えたって葉月はとんで帰ってくるに決まっている。
そうなると、時間的に今仁絵が探しに出てしまうと、
実嵐は帰っておらず、仁絵も家にいない中葉月が帰ってくるという最悪のパターンに陥るリスクがある。
そんなことになったら…と、想像しただけで身震いがする。
顔を青くした仁絵の耳に、すぐに気づけるようにとオンにしたLINEの通知音が聞こえる。

ソファの上に放り投げていたスマホを奪取して画面を見ると、
ポップアップで表示されていたのは返ってきてほしい人からの返信ではなかった。

『遅くなってごめんねー。今空港の駐車場出るから、あと30分くらいかな。
みらちゃんもういる?』

最悪だ。なんて返そう…と仁絵は頭を抱えた。
あと30分で帰ってきてしまう、ということと、実嵐のことを聞かれたことと。
仁絵は数分は思案して、恐る恐る入力する。

『おつかれ。了解。仕事長引いてるらしくてまだ帰ってない。』

必要最低限の嘘。仁絵は意を決して送信ボタンを押した。
葉月には「今夜実嵐が来る」ということだけで、何時頃、等というのは伝わっていない。
ここでまさか10時頃帰ってくると言っていたが未だ帰っておらず連絡もつかない、と
正直に言えば葉月が脇目も振らず車をかっ飛ばして事故りかねない。
これでよかったのだ、と仁絵は自分に言い聞かせ、

どうか葉月が帰ってくるまでに実嵐が帰ってくるかせめて連絡を返してくれることを祈るしかなかった。
 

 

 

 

 

「やば。スマホの充電切れそう…ま、もうすぐ帰るだけだしいっか。」

10時頃。

オフィスで何気なく手に取ったスマホの電池残量は、5%を表示していた。
昨日寝る前に充電するのを忘れてフル充電できなかった上に
昼休みに昼寝のお供にヒーリングミュージックを流し続けたのが原因か、と反省しつつ、
もう仕事も終わりだし、と実嵐は気にせずスマホをバッグに突っ込む。
デスクのノートパソコンの電源を落とし、閉じて、さぁ、帰ろうと立ち上がろうとしたとき。

「おー、空城、帰りがけに悪ぃ! 1本記事校正してってくんねーか?」

少し年上の先輩記者に呼び止められてしまった。

「はいー? 私今帰ろうとしてんの分かりません?」

さすがに嫌そうな顔をする実嵐だが、先輩記者は押しが強い。

「ちょっとしたコラム記事だから! あと30分だけ時間くれ、な?」

懇願され、実嵐はため息をついて、先輩記者に差し出されたゲラを受け取った。
実嵐は一瞬、仁絵に連絡を入れておこうかと思ったが、
30分だけだし、スマホの電池やばいしいっか、と思って、そのまま机に向かってしまった。
これが、実嵐の予定が狂う始まりだった。
 

 

 

「やっば、なんだかんだ1時間弱捕まっちゃった…しかも電池切れるしっ」

大概「あと30分だけ」などと言われた時は本当に30分で済むわけがなかったのだ。
オフィスを出たのは11時になろうとする頃。
しかも、さすがに仁絵に連絡入れないとやばいと思ってスマホを取り出せば、いつの間にやら電池が切れていた。
実は、昼休みに見ていた動画再生アプリがバックグラウンドで再生されっぱなしで、

それが電池を食っていたのだが、
昼休み終了と共にサイレントマナーに戻したため音も流れず実嵐は気づかなかったのだった。
 

こうなればとにかく早く帰るしかない。
実嵐はそうして、いつも通る人通りも街灯も多い開けた大通りではなく、

近道になる脇道に入り、流石に全力疾走は悪目立ちする、と早足で歩いた。
そこは、スナックやパブ等小さなお店がポツンポツンとあるような通り。
祝日夜という日柄に加え、

少ないサラリーマンたちもちょうど2軒目、3軒目と腰を落ち着かせた頃合いか、人通りはあまりなかった。
しかし、歩きやすくて好都合、などと実嵐が思っていられたのは通りに入ってほんの数分のことだった。

「よぉ、姉ちゃん。そんなに急いでどこ行くんだよ。」
「せっかくの祝日夜にんなせかせかしてねぇで俺らと飲もうぜー」

「…急いでるの分かってんだったら通せよ。」

実嵐の前に現れたのはもう相当出来上がっている50代くらいの男性二人だった。
身なりからしてサラリーマンではないだろう。

浮浪者、とまではいかないが身なりは言っちゃ悪いがあまり綺麗ではない。
狭い通りに2人で立ち塞がれて、躱すことはできない。
場所はパブやスナックが点在していた箇所から少し離れていて、
消えかけの街灯が20mくらい離れたところにあるだけで、暗く2人以外に人の姿は見えない。
実嵐があからさまな嫌悪感を示すと、2人はムッとして言った。

「んだよつれねーなぁ」
「こんな時間に女1人で寂しく歩いてる姉ちゃんの相手してやろうって言ってんだろォ?」

「余計なお世話だ! あんたたちみたいなジジィに相手してもらわなくたって…」

「んだよ、彼氏持ちかよ。」
「でもこんな時間に迎えにも来ねぇで彼女1人で歩かせてる彼氏なんてろくな男じゃねぇなァ?」

「なっ、おい、ちょっと!!」

突然手首を掴まれ引き寄せられ、流石の実嵐も狼狽える。
助けを呼ぼうにも人通りはないし、スマホは電池切れ。

「姉ちゃんいい女なんだからそんな気遣いもできねェ男なんて放っておいて

違う出会いの場に行こうぜー 俺らとよぉ」

「ヒッ…やっ…」

そして、実嵐が手首をつかんでいる男に気をとられている間に

もう1人の男に背後をとられ、尻をなで回された。
あまりのことに実嵐は悲鳴すら出せず、ただただ嫌悪感で鳥肌が立つ。

「へへっ…いい尻してるじゃねーかァ。」

「や、やめっ…」

「ズボン履いてるからって油断してただろー? 
姉ちゃんみてーな警戒心のない子には男はオオカミだってことを身をもって勉強してもらわねーとなァ…」

「や、やだっ…はづっ…」

尻を撫でている手はそのままに、男の顔が近づいて酒臭い息が顔にかかり、手が胸元に伸びてきて
実嵐の瞳から涙がこぼれ落ちそうになったその時だった。

「それは俺がたーっぷり教えてあげることになってんだから、あんたたちはすっこんでろよ。」

「っ…!! はづき!!」

声を聞いた瞬間に実嵐が声を上げる。
そして、涙目でぼやけた視界に写ったのは、確かに実嵐が無意識に呼ぼうとした人で。

「あァ? 誰だぁ兄ちゃん…」
「悪ぃけど俺らは取り込みちゅ…グハッ」

近づいてきた葉月を睨む2人だが、葉月はお構いなく
まず未だ実嵐の尻に手を添えていた男の手を掴んで鳩尾を殴った。

「すっこんでろって言ったんだけど。あんたもいつまで汚い手で触ってんだよ。」

「っ…ぐぁぁっ いてぇっ 折れるぅっ うぁっ」

そしてもう1人の男の、実嵐の手を掴んでいる腕を握り、ぎゅっと握りしめる。
痛みに呻いた男は思わず実嵐の手を離し、その隙を突いて葉月は実嵐を抱き寄せると男を突き飛ばし尻餅をつかせた。

「はづ…き…」

葉月の腕の中で放心状態の実嵐が、恐る恐る見上げると、

恋人の絶対零度の瞳と目が合って、一気に現実に引き戻された。

「全く…覚悟できてるんだよねぇ。実嵐。」

実嵐は、先ほどとは全く違う意味で鳥肌が立つのを確かに感じたのだった。