学校の2学期というものは、とかく行事が多い。
惣一たちの学校もご多分に漏れず、9月は体育祭、10月は球技大会と立て続け。
そして、11月の今月は…文化祭だった。
根っからの体育会系の惣一やつばめは今までよりテンション低めだったが、
なんだかんだ「人生最後の合唱コンクール!」と意気込んでいる。
惣一たちの学校は中高一貫校だが、クラス対抗の合唱コンクールは中学でしか行われないのだ。
そして、誰よりも真剣にこの文化祭…中でも合唱コンクールに取り組んでいる人物がいた。
「今日はここで練習してんの? 洲矢。」
音楽室のピアノに向かい、何度も何度も繰り返し同じ曲を弾いているのは洲矢だった。
洲矢は、D組の伴奏者に選ばれている。
ふと現れた仁絵に話しかけられ、洲矢は鍵盤から顔を上げた。
仁絵は、風丘に頼まれた雑用を風丘の個人部屋である元音楽準備室で片付けていたところ、
音楽室から漏れ聞こえる聞き覚えのある曲に、気になって訪れたのだ。
「ひーくん! うん。だって、もうあと1週間しかないんだよ?
ピアノは、とにかく弾きこむのも大事なんだから。1日も無駄にできないよ。」
「いや、まぁ、そうだろうけど。別に音楽室で練習する必要ねーだろってこと。
おまえんち立派なピアノあんじゃん。」
仁絵に指摘されると、洲矢はあー…と少し気まずそうにする。
「今日は…お家帰れないから。」
「は…?」
仁絵は洲矢の返答に一瞬不思議そうな顔をしたが、
壁に掛かっているカレンダーの曜日を見て合点がいった。
「なんだサボりかよ…」
今日は水曜日。
中学1年の時の騒動から洲矢のピアノのレッスンは一時なくなったが、
中学2年の半ば頃から毎週水曜日、洲矢は自宅で有名な先生からのピアノのレッスンを再開していた。
週1に減ったこともあり、今度の先生とは比較的相性もいいのか
通常時ならレッスンで思い悩むことはなくなっていたが…。
「しょうがないのっ 帰ったらレッスンに時間とられちゃうし、
そもそもレッスンの曲全然練習してないからレッスンやっても弾けなくてきっと怒られるし…」
「ピアノの家庭教師に頼めばいいだろ。しばらく合唱曲の伴奏の練習やりたいって。」
「ダメだよ…ピアノのコンクールの方もまた1ヶ月後くらいにあるから、
先生はそっちの方やりたいと思うし…」
「ばあやさんにはなんて言ったわけ?」
「委員会で急な会議が入っちゃったからって。」
「ナチュラルに嘘かまわしたわけね。やるじゃん。」
「――――っだってぇ…」
からかわれてくしゃっと顔を歪めた洲矢に、仁絵はフッと笑ってピアノのそばのスツールに腰掛けた。
「んな顔すんなよ。俺はおまえのそういう割と見境なく突っ走るとこ嫌いじゃねぇし。
サボりについては、そもそも俺はとやかく言える奴じゃねーしな。」
ポンッと肩を叩かれ、洲矢の顔に笑顔が戻る。
「ひーくん…ありがとうっ」
「つーか、さっき聴いてたけどほぼほぼ完璧じゃん。そんな必死に練習しなくても…」
「ダメだよっ うちのクラスまだ合唱コンクールで勝てたことないし…
ひーくんがせっかく譲ってくれた大役だし…」
「いや、俺は譲ったっていうか逃げただけだから(笑)」
D組は、1年・2年と圧倒的にピアノのうまい洲矢が連続で合唱コンクールの伴奏を務めていた。
しかし、流石に3年連続は…となって、同じくらいピアノが弾ける仁絵に白羽の矢が立とうとしてるのを、
仁絵が「せっかく最後なんだから最後まで洲矢でいいだろ」と言って、今年も洲矢でいくことになったのだ。
仁絵としては、ただでさえヤンキーで目立つのに、
目立たなくてもいいところで自主的に目立ってどうする、という思いで回避しただけなのだが、
洲矢はなぜか「譲ってくれた」と甚く感謝し、俄然張り切っているのだ。
「伴奏が完璧だからって優勝につながるわけじゃないけど、
少しでもミスって足を引っ張っちゃうことは絶対あっちゃいけないことだから。」
真剣に鍵盤を見つめる洲矢に、仁絵はフッと息をついた。
「あんまり気負いすぎんなよ?
伴奏なんて止まらなきゃいい、ぐらいの気持ちでやればいいんじゃねーの。」
「もーっ それじゃダメなのっ」
「へいへい(苦笑)」
いつになく真剣な洲矢に仁絵は少し苦笑いしながら、
練習を再開した洲矢の奏でる音色に耳を傾けるのだった。
結果として。
ことはそう上手くはいかなかった。
「あー、もう悔しい! 今年も3位かー」
「ま、うちのクラスには音楽の才能はなかったってことでしょ。なんせ筋肉馬鹿ばっかりだからね。」
「おい夜須斗! そこでなんで俺を見るんだよ!」
「まーまー、みんなベスト尽くしたんだからいいじゃない。」
「さすが委員長、いいこと言うーっ」
D組の結果は5クラス中3位。昨年と同じ順位だった。
残念だねー、と口々に言い合うクラスメイトの輪から少し外れて、俯いているのが1人…。
「おい。」
仁絵に声をかけられ、ハッと顔を上げる。
「お前のせいじゃねぇよ。気にしすぎだ。」
「っ…!!」
ボソッと呟くように言われた仁絵からの言葉に、
洲矢は顔を紅潮させ、また下を向いて合唱コンクールが行われた講堂を出て行ってしまった。
大したミスタッチではなかった。それこそ、ピアノを多少やってないとわからないくらいの。
しかし洲矢自身はそのミスタッチに動揺したか更にその後に続く3音の和音が1音鳴らなかった。
だがそれだって、鳴らなかったのだから不協和音になって曲に影響を及ぼすよりよっぽどいい。
総じて、洲矢はピアノ上級者としてしっかりまとめ上げていた。
そもそも、冷静に考えれば伴奏のミスタッチの1つや2つで合唱コンクールの順位が変わるなんてそんなこと現実的にあり得ない。
それは洲矢自身だって「伴奏が完璧だからって優勝には繋がらない」と言っていたとおり理解できていたはずだ。
だが、演奏後の思い詰めた表情から、今はとてもそんな客観視できている様子はうかがえなかった。
だから仁絵は、「少し落ち着け」という意味も込めて声をかけた。
そして洲矢が出て行っても、それで頭が冷えればいいだろうと追いかけずに見送ったのだった。
文化祭の日は帰りの会などもなく流れ解散だから、
その後洲矢が現れなくても問題になることはない。
風丘も忙しくて合唱コンクールの結果発表後「みんなお疲れ様―」と少し顔を出したくらいで
それ以来戻ってこず、洲矢不在は指摘されなかった。
流石に惣一や夜須斗たちは気が付いたが、
「徹夜でピアノ練習してたのが、気ィ抜けたせいか具合悪くなったから先帰るってさ。」と
仁絵が最もらしい理由を取り繕ってごまかした。
洲矢が夜遅くまで練習していたことは知っていた3人にとってその話は信憑性が高く、誰も疑うことはなかった。
しかし、仁絵の、しばらく頭を冷やせば落ち着くだろう…、という考えは甘かった。
洲矢は、のめり込むととことん、の人間だということはわかっていたが、計りきれていなかった。
それは、文化祭翌日の土曜の昼過ぎに、風丘宅にかかってきた1本の電話で発覚する。
プルルルル プルルルル
「ごめん、仁絵君出てくれるー?」
風丘に促され、仁絵が電話を取ると、電話口から聞き覚えのある声がした。
「はい、風丘…」
“あら、その声は仁絵さん?”
「えーっと…洲矢んとこの…ばあやさん?」
仁絵の声に、嬉しそうな声が返ってくる。が、その内容がちょっと問題だった。
“はいはい、そうです。仁絵さんならちょうどよかった。
楽しいお泊まりの最中にごめんなさいね。
洲矢さんに、そろそろお帰りにならないとレッスンの時間に間に合いませんよ、と伝えてくださる?”
「…は?」
“え?”
思わず聞き返してしまった仁絵。
2人の間に妙な間が流れるが、瞬時に状況をくみ取った仁絵が慌てて答えた。
「あ、あー…えと、すみません、
実は、ちょっと学校のことで洲矢が風丘…担任に相談しているのが長引いてて。
あ、別にそんな深刻な雰囲気ではないんですけど…
もし可能であれば、レッスンの日にち、ずらしてもらえると…」
“あらまぁ、そうなんですか。洲矢さん、最近お忙しいみたいで…委員会も活発で。
わかりました。先生には日を改めて調整してもらうように連絡しますので
洲矢さんにも先生とのお話が終わったらそう伝えておいてください。“
「え、えぇ。伝えます。はい、失礼します…
ガチャッ
あの馬鹿!」
仁絵は部屋に戻って財布と携帯を持つと、風丘に「ちょっとコンビニ行ってくる」と言って
ナチュラルに家を出た後、猛スピードで駆け出した。
ばあやの口からは「楽しいお泊まり」なんて言葉が出ていた。
ということは、洲矢は少なくとも昨日の夜から今まで家にいなかったということだ。
だが、仁絵がいる風丘宅には一度たりとも来ていない。
走りながら洲矢の携帯に電話をかけたが、コールが鳴り続けるだけ。
「ったく…どうせあそこだろ。」
とってくれない電話を切ると、仁絵はある場所に向かって更に足を速めた。
「…お前ほんとここ好きな。」
「…。」
仁絵が洲矢を見つけたのは星ヶ原神社。
1年の時のプチ家出騒動でも洲矢が居着いていた場所で、
その後も洲矢は考え事をする時によく立ち寄っていて、
騒動後に転校してきた仁絵も洲矢が行く場所といえば、で一番に思いつくほどの場所になっていた。
「一晩中こんなとこにいたのかよ。風邪引くだろ。」
「…コート着てるし、カイロいっぱい買ったから平気。」
「ばあやさんからうちに電話があった。今日レッスンだったって。
先週のサボった分の調整か? とりあえず適当にごまかして再調整してもらうように頼んだ。」
「…ピアノ、弾きたくない。見たくない。」
洲矢らしからぬ素っ気ない返事に、仁絵はまだ引きずってんのかよ、とため息をつく。
「あのなぁ、お前も『伴奏完璧にしたからって優勝につながるわけじゃない』って言ってたろ。
だから分かってると思って敢えて言わなかったけど、
あの程度のミスタッチで順位が変動するわけねぇだろ。
あれは合唱コンクールで、あくまでメインは合唱。
そりゃ伴奏だって完璧に弾けるに超したことはないだろうけど…」
「…わかってるよ、そんなこと…っ いちいち言われなくたって!」
仁絵の言葉にいらついたか、洲矢が珍しく食ってかかってきた。
仁絵はさらに荒立てないように落ち着いたトーンのまま返した。
「…わかってるんなら頭冷やして切り替えろよ。ほら、送ってやるからとりあえず…」
パシンッ
「!」
洲矢に向かって伸ばした手。しかしそれは振り払われた。
「ひーくんは当事者じゃないから簡単に切り替えられるんだろうけど、僕は違うもん…っ
こんな…こんなになるなら最初から僕じゃなくてひーくんが伴奏やればよかったのに…」
「おい洲矢…」
洲矢の言葉に仁絵の声が低くなる。しかし、洲矢は気づかずにまくし立てた。
「ひーくんだって思ってるくせに!
こんなめんどくさい奴に弾かせるんなら俺が弾けばよかったってっ…
僕に伴奏譲ったの失敗だったって!」
「あ゛あ゛?」
「ひっ…」
仁絵に凄まれ、思わず洲矢が息をのんだ。
恐る恐る仁絵の方を見ると、冷たい目で洲矢の方を睨んでいる。
何度か見てきた表情だが、この視線が自分に向けられたことはほとんどなくて、
洲矢はさっきまでの勢いはどこへやら固まってしまった。
「黙ってりゃ好き放題言いやがって… 今まで散々フォローしてやったけどもう知らねー」
そう言うと、仁絵は携帯を取り出すと、どこかへかけた。
なんとなく察した洲矢が後ずさりしようとしたが、腕をつかまれ「逃げんな」とまた凄まれ、動けなくなってしまった。
そして、相手が出たのか仁絵が口を開いた。
「…あー、風丘。まぁ、詳しいことは後で説明するけど…今から洲矢、うちに連れていくから…」
続く言葉は、とても仁絵の普段の洲矢への接し方からは想像のつかないものだった。
「みっちりケツ叩いて泣かせて。じゃ、今から行くわ」
とんでもないことを言い放ってあっさり電話を切った仁絵。
そして掴んだ洲矢の腕を引っ張りずんずん歩き出した。
腕を捕まれている洲矢は振りほどこうとするが力で仁絵に敵うはずがない。
「やっ…ひーくんっ…」
思わずいつもの調子ですがるように仁絵の名を呼んだが、返ってきた言葉は冷たかった。
「今更甘えた声出すんじゃねーよ。あぁ、1つ言っとくけど。」
洲矢は数分前までの自分の行動・言動を後悔した。
「風丘は再犯には厳しいから。せいぜい覚悟しとくんだな。」
柳宮寺仁絵という人物は、味方だと心強いが、怒らせるとどれだけ怖いか、洲矢はわかっていなかった。