高知はお酒で客(観光客)をもてなす風土があるらしく、近所のアーケードには居酒屋や飲み屋のテナントが多く陣取っている。

医者立ち会いのもと、酒を一気飲みするイベントも毎年行われている。それも夜空の下で見ず知らずの人と酒を飲み交わすのだ。 

僕は生まれ育ちは兵庫で、子供の頃は夏休みや年末年始を利用してよく親の帰省に同行していたが、やはり兵庫と比べて包み隠さない、良くも悪くも遠慮しない人が多いなといざ移住してみて改めて感じる。いわば世話焼き好きな人が多いのだろう。

逆に言えば都会は地方からの上京してきた人が多いせいか、人との関わりが希薄な気がする。

 そこで心の重荷をそっと降ろしてくれる手段としてお酒が用いられる。僕も緊張や不安、不眠を緩和させる為にお酒に頼っていた。

仕事上、つけておくから店に来いと言われたら断れない。「大丈夫」と今は覚悟できていても、店に入るとそうはいかない。正常心や判断力を見失う。適度な量を守れなくなる。

 一度大きな失態を冒したが為に店では飲みにくくなった。一度でも人生において病院のベッドで目を覚まし、排泄もできず、女性の看護師に尿道に管を入れられるような羞恥は二度と味わいたくない危機感もある。

 もともとフェミニストを気取っている性がアルコールへの抑止力と繋がっているのかもしれないが、今はお酒を飲みたいと思わない。

 新型コロナでインターネットを使ったオンライン飲み会が芸能界でも流行っているそうで、インターネットのイの字も知らないおっさんたちからすれば何が楽しいんだと理解に苦しむ。

このまま、お酒の楽しみ方も変わってしまうのだと思う。この自粛ムードが長引けば長引くほど人々は様々なウイルスに気をつけるようになるだろうし、健康管理や体力低下防止の為の運動を心がける人も増えていくと思う。
 

昔の人はこのような逆境を怪我の功名と言ったものだ。

 中国には「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」ということわざがある。

簡単に言えば、人間の人生には予期せぬ事が起こることだが、このことわざを掻い摘むと、ある昔、貧しい暮らしをしていたら、今度は飼っていた馬が逃げてしまった。しばらくすると飼っていた馬が一頭の馬と一緒に帰ってきた。
そんなとき、徴兵を命じられるが、今度は落馬してしまい怪我を負い、徴兵を特別免れるという波乱な経緯からできたことわざのようだ。
 

馬がいなくなり途方に暮れくれていたところ、馬が増えたかと思えば今度は落馬して怪我を負う。これだけでも面白いのだが、その後も戦争への強制参加を押し付けられ絶望するが、怪我をしているという理由で免れる・・・。

人生、生きていたらいつ何が起きるかわからないといったことを一言で言い表したものだ。

僕の場合、あの失敗から得られたことによりお酒に対する警戒心を持つようになり、肉体的に飲むことはできても、心理的には過去の失敗を恐れて飲めない、という肉体と精神の間で矛盾し合った感情が生じた結果、恥をかきたくない思いが強すぎて、お酒への渇望がない。

断酒して1ヶ月以上は経っている。平日でも朝から缶チューハイを飲んでいた。

特に好意を抱いていた女性が勤めている病院に搬送されたことが大きなトラウマになっているのだと思うと、決して片思いも悪くないのだなと感じたりする。

例えば、片思いから得られる感情や言い表せない思いを、どうにか言葉に例えようとして感性が育まれたりする。

 肉体は衰えることはあっても、心はいつだって変形自在なのだと思う。  

「今日は象、明日はライオン」ってな具合に心はいつだって自由だ

"Elephants today, lions tomorrow," In this way the mind is always free.

Lyric Kazutoshi Sakurai