「思考は現実化する」アインシュタインが唱えた、思考が物質に変わる法則とはこのことだと思う。

 最近、物への執着を捨てることで楽になれることに気付いたばかりだけれど、何もその物とは目に見える物だけではない。

 仏の教えにある正見とは読んで字の如く「正しく見る」である。何が正しいか否か、誰が決めるでもない、自分自身だ。また、目に見える物でもない。

心の中にある目で物事を判断する能力を意味している。これは即ち“こころ”ではないだろうか。数年前にフランス人が洋服を数着しか所有していない理由を解いた本がベストセラーになった。何故フランス人は洋服を沢山持っていないのか、どうしてこの本が売れたのか、本を手に取った読者が腑に落ちたからだろう。

 ハイブランドな物、限定品、貴重な物を手にしたら幸福になれるとは決して思わない。寧ろ維持費がかかるのではないか。

 会社の代表者や公務員も決して裕福とは思ったことは一度もない。彼らには彼らなりの苦悩がある。責任もある。人様のことを案じられるほど裕福な世の中ではないのだ。宗教活動やボランティア活動をされている方々は人様の世話をすることで生き甲斐を得られる。無償の愛だ。医療従事者は仕事だから、そこにアガペーとなる精神があるか問いかけるまでもないが、真の心はいつだって目には見えないところにあって判断基準が置かれている。 

人からいくら馬鹿にされようが本人からしてみれば余計な一言に過ぎないし、却ってその一言が相手にエネルギーを与えてしまうことにもなる。なにくそと思うか右から左に流すか人それぞれ違う。

 例えばこの動画を見て何も感じない人もいるかもしれない。それはそれでいいと思う。

「高い物を買うことで人間として認められるから高い物を買うんだ」という意見を持っている人も少なからずいると思う。でも、待って欲しい。誰が認めるんですか?高い買い物をしたら一人前なんですか。結局は幸せ不幸せは自分で決め込むことであって、そこに他人が入り込む余地はないと思う。 

100人の味方がいたら、100人の敵もいるかもしれない。これではイーブンになってしまう。だから、判断基準を人に任せてはいけないし、人と比べてはいけない。本当に無意味なことだ。かく言う僕は今日まで散々言われてきたことがある。

 「君は話せるからいいじゃないか。中には意思疎通もできない人もいる」「君は見た目がいい。黙っていればモテるだろう。俺を見てみなよ。これでもダイエットしてるんだから」

 枚挙に遑がない話になってしまう。人の数だけ問題がある。人の数だけ悩みがあるものだ。問題や悩みを持った者同士が議論したところで埒など開かないだろう。