小さく報道さていますが、

「米国の債務が16日の国債発行をもって上限に達する」
「米国は8月2日頃までは債務不履行に陥らずにすむ」

というニュースが出ています。

分かりやすく言うと、「アメリカが8月2日までには破たんしてしまう」ということです。
⇒ http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-21128620110516

今から出来ることは少ないかも知れませんが、株式を持っている人は、早めに売却した方が良いかも知れません。
今、「ソース」という本を読んでいます。マイク・マクマナス著です。自己啓発本の中では、ベストセラーとなっているものです。

この本でも「ワクワク」が基本となっています。この点は、バシャールと同じです。

この本の中で、人生の目的は人により「Do」と「have」と「be」があると言っています。「~したい」「~が欲しい」「~でありたい」と・・・

この中で、最も本質的なものが「be」であり「~でありたい」という事だと言っています。(私には、そう読めました)

私の趣味の一つにゴルフがあります。それですので、「ゴルフがしたい」「新しいクラブが欲しい」という欲求はあります。そこを満たしたとしても「上手いゴルファーでありたい」という望みは保証されるわけではありません。

たとえ「ゴルフが出来」「良いクラブもって」いたとしても、「スイングが悪いゴルファーであったなら、意味はない」と思っています。逆に言えば「スイングが良ければ、他はどうでもいい」が私のゴルフにおける願望です。

良いスイングを身につけるために、色々なゴルフ理論を勉強したり、練習場に行ったりしています。それは紛れもなく私の「ワクワク」です。

ただ、「ワクワク」を感じないのに「勉強したり」「練習したり」する人がいます。ゴルフでは少ないでしょうか、「資格の取得」を目標にしている人にありがちなのが、「ワクワクしないのに、資格のために勉強する・○○作成の練習をする」ということだと思います。

資格を取得することにより、「ワクワクする」ことを「仕事」に出来るのであれば良いのですが、「昇進のために」とか「人から認められたいから」とかを動機に「資格取得」を目指す方も少なからずいると思います。

それらの動機は、結局は「自己顕示欲」に過ぎないと思います。自己顕示欲とは「他者が自分を認めてくれることにより自己の欲求を満足させる」ということであり、「他者の『あなたを認める』という判断」がない限り、「満足することはない」のです。

そのようなものを自分の「目標」とか「動機」にすべきではないと思います。

人の価値判断から自由になったところで、「自己満足する」ことを「ワクワクの根本」に置くべきだと思います。

私がクラッシック音楽が好きです。以前はデスメタルとかも聴いていましたが、今は聴いていません。最近好きになったのは、モーツァルトとブルックナーです。モーツァルトは「聴くと頭が良くなるから」といって、子どもに聴かせる人がいますが、「えっ、それってへんじゃない!?」と思います。

音楽は、「気持ちよくなる」から聴くのであり、「頭が良くなるため」に聴くものではないはずです。例えば、「モーツァルトが嫌い」な子どもに「頭が良くなるから」といって「モーツァルトを聴かせる」ことは、その子の「幸せ」を度外視してまで、「高学歴を目指す」ことと同様です。

人生においても同様な事が言えると思います。「社長になるため」「高収入を得るため」「○○士になるため」に私たちは生きているのではないはずです。それらを条件として「どうあるか」を問うのが「人生」だと思います。

今回の震災や原発事故の真相は分かりません。どの情報が本当だとしても「不安を煽る」ものが多いような気がします。しかし、「不安になる」のは「be」の部分であり、自分で決められるところです。

真相を知ろうという態度は必要かも知れませんが、それにより「怒り」や「怖れ」を「be」として体験するのは、適切ではないと思います。2012年にアセンションがあるかどうかについても同様なことが言えると思います。

アセンションがあるのか・どのような変化するのか、についてあまり気を使う必要はないと思います。ただ、自分が「どうあるか」ということのみを気にすべきだと思います。
以前書いた記事を再掲します。

人工地震等で、ユダヤ金融資本がネット上で叩かれていますが、ユダヤ教自体がそもそも「如何なものか」という宗教だと思います。ただ、「ユダヤ教徒を差別しましょう!」というメッセージではなく、「ユダヤ教徒ももっと寛大になれないですか?」ということを言いたいのです。

ユダヤ教の教典は旧約聖書ですが、旧約聖書自体「ろくなものではない」と思います。マシュー君からのメッセージでも言われているように「燔祭としてのイサク」の話があります。これは完全なる「捏造」だとマシュー君は言っていますが、正常な人間ならば「この話はおかしいのでは?」と思うはずです。

聖書に詳しくない方もいらっしゃると思うので簡単に述べますと、「アブラハムが信仰を証しする為に、息子を生け贄として捧げる」という話です。まさに刃が息子イサクに刺さろうとするとき、神が「おまえの信仰を認める」といって二人を助けるというお話です。

そもそも、愛なる神が信仰を確認するために、息子を捧げ物として要求するでしょうか?もし、要求するならそれは「神」ではなく「悪魔」と呼ぶべきものでしょう。旧約聖書は、悪魔がこの世の神として君臨するために、人類に示したものだと思います。

よって、そのような信仰を維持することは人類にとって「マイナス」です。そのため、ユダヤ教徒には「改宗」して欲しいと思います。だた、改宗するといっても「何教に改宗するか」が問題です。

一般的に、ユダヤ教徒からキリスト教徒への改宗という話はよくありますが、キリスト教もろくなものでは在りません。イエスの教えは真実だと思いますが、「何がイエスの教えであるか」を認識するのは非常に困難です。

キリスト教徒は「聖書が真実」だと思っていますが、聖書は田川健三が言うように「捏造」です。イエスの教えを説いたものではありません。ローマ帝国が国を治めるためにキリスト教を利用することを考え、そのために「聖書を意図的に編纂」した結果です。

例えば三位一体ですが、これとてニケーア公会議にて決定された内容です。真実が会議で決定されたのです。あり得ない話でしょ?

狂信的なクリスチャンにこのことを話したら、「その頃から異端がはびこっていたため、会議で決定した」と宣っていましたが、そのころはまだまだ「異端は何か」をはっきりさせられるほど、「本家」もはっきりしていなかったのです。仏教のように様々な宗派があり、福音書も多数存在していたのです。

聖人が説いたものは同一だと思いますが、それを理解しようとした弟子が不十分であったため、真実は正確には伝わっていないのです。

そんな事さえ知らずに、「聖書が真実」と信じ切っているキリスト教徒は「盲信」です。知性を身につけて欲しいです。

ですから、ユダヤ教徒もキリスト教徒に改宗するのでは「意味はない」のです。キリスト教徒も改宗する必要があるのです。

では、何教に改宗するのが良いのでしょうか?

私が思うに、「科学を伴った形而上学に改宗」するのが良いと思います。「学」への改宗ですので、「信仰を捨てる」と言ってもいいかもしれません。とりあえず既存の宗教は「改善」する必要があると思います。

求めるべき宗教は、アニミズム的な「神道」と、一切衆生悉有仏性を説く「仏教」を融合したものに、「科学的な考察」(量子力学と宇宙論)を組み合わせたものが良いと思います。これがアセンション時代の宗教と言えるでしょう。