TsKyhigh...coversation with myself...

TsKyhigh...coversation with myself...

日々感じたことを書き連ねます。
主に頭の整理のために物書きをします。
何気なく書いた文章がどこかで誰かの役に立つことを願って。。。

Amebaでブログを始めよう!
近所に行きつけのラーメン屋がある。
近所に行きつけのバーがある。
そこで出される一杯は、なんていうか、重量感がある。
たった一杯なのに。
人生が一杯に込められてる気がする。
覚悟が一杯に込められてる気がする。
僕はその一杯を血肉とする。文字通り。
20年、30年...その一杯が背負う年月を考える由もない。
その長い年月に対して、その一杯との時間は短い。
しかし、その一杯が語るものは多い。
人生の糧となる一杯。文字通り。
覚悟を受け止める時、人は絶句する。
その覚悟に答えれる唯一の方法。
貫くこと。
姿勢。覚悟。生き様。
色んな言葉で語られるそういったものを。
貫くこと。
言葉少なに。

昨日はSteve Jobsの命日。
Stay hungry, Stay foolish.
これからも自分なりのhungry,foolishを貫きたい。
俺の革命は水面下で着実に進める。
Think Globally,Act Locally.

この時代も捨てたもんじゃない。
乾杯。
Twitterで最近の勉強の経歴みたいなのを大まかに振り返っていたら、内容が膨らんでいたので。

友達としゃべってると、よく話が脱線する僕。そしてあるとき、「あれ?この話って、話始めたときの内容からだいぶずれてるよな」って思うことが少なくない。

これは誰にもある経験だと思うけど。

そんなことが自分の勉強にも起こりやすいのは前から気づいていたので、めんどくさがらず、どこで、どういう理由で自分が脱線したのかをまとめてみようと思った。

一本の線のように書いているが、頭の中の知識はそのように保管はされてはないはず。ある時こうやって俯瞰的に見て、学んできた内容の位置付けを確認して、その個々の内容を新たに有機的な体系とすべく、本来は時間軸に沿って直線上に学ばれてきたことが、相互にどんな意義があったのか(もちろん、現段階では情報不足だが)、一度とらえ直したかった。

そんなわけで出来上がった文章。
Twitterのひとつの呟きが、自分の頭の中の大規模な整理に繋がるとは思ってなかった。

こういうときは一気に書ききらないと、アイディアは無意識の海に沈んでしまうので書き上げた。

推敲が雑なので、不備があると思われるが、悪しからず。

いつものメモ書きとしてのTwitterの使い方を、相似拡大したと思ってくれれいいかと思います。

ちなみにTwitterアカウントは
@tskyhigh
です。こちらもよかったらどうぞ。

Android携帯から

英語の勉強+哲学の勉強
→英文法(∵より緻密な文法体系を求めて。英語という枠組みではなく、言語という一段階高い次元での文法の模索。理想言語や人口言語への興味の現れ)

→論考(∵真理関数の言葉に惹かれて。英文法の勉強から出てきた次なる興味の答えになるのではという思いから。)

→論理学(∵記号と言語の関係性に惹かれて。論考に出てきた様々な記号を理解したくて。)

→数学ガール第三巻(∵論考や論理学の理解に役立つかと思って。今、自分がやってることは言語or哲学だと思っていたら、数学との関連もあるのか、という感動から。)

→ゲーテルの不完全性定理(∵数学を数学する、の言葉に惹かれて。微積や線形台数といったいわゆる数学ではなく、その根底にある部分を扱おうとしてる学問分野の存在を知ったことと、それが言語、哲学と大きな関わりを持っていたこと。)

さて、僕の興味関心は、次に僕をどこへつれていくのか。

今はまだわからないが、上のような読書が読書を呼ぶ、繋がりをもった勉強をこれからもしてきたいと思った。

勉強が脱線していくのは悪いことではないと思う。脱線は義務じゃないし、楽しいから脱線するんだ。

脱線をより楽しむためには、予備知識や基礎知識の存在が欠かせない。これには雑学も大いに役立つ。

いずれにせよ、広い範囲を勉強の対象としつつも、自分に役立つ知識、自分の血肉になる知識は「脱線勉強」によって得られるのでは、という仮説が得られたので、楽しむ傍らの副業として、この仮説の証明ができたらいいなと思う。

2012.3.12 Monday
(去年は僕も後期日程でした。)
阪大学食 宙 からの投稿
2012年02月28日(火) 53 tweets

話を聞いてもらうのってありがたい。嬉しい!
posted at 04:01:38

俺も話を聞いてあげれてるかな?そうだといいけど。ほんとに聞くって能動的だな~。
posted at 04:02:50

よし、今から友人に借りた本を読み始めよう。帰省してる間になるべく多くのページに目を通せたらいいんだけど。。。読みたい本が一杯w!
posted at 04:04:01

友人に借りた本を読み始めて、いきなり著者がウィトゲンシュタインの用語を導入した。もう1ページ読んだところで、「…、これって論考を読まないことには作者と同じ土俵に立てないじゃんww」ということに気付き、論考を読み進めることにした。
posted at 05:44:20

もちろん論考を解釈しきれるとは思ってないが、幸い岩波文庫の論考の訳者と友人が貸してくれた本の作者が一緒なので、その点には多いに救われそう。
posted at 05:46:02

早いところ論考を読み終えて、成熟期間に入りたい。
posted at 05:46:41

思考の核を作っていく作業。それが専門を持つってこと?それだと俺はやっぱり言語に行き着くし、そこと隣接する分野で、その中でも関心のある分野から順に渡り歩き、Coreを固めたい。
posted at 05:50:18

でも、「今俺はCoreを固めるために言語と違う領域を歩いてるんだ」と自分を客観的に見ながら何かを学んでいるとき、間違いなくそれは不十分であるらしいと経験的に感じる。
posted at 05:53:14

「自分の今やっていることが全てで絶対だ」位の感覚から、以前そう思っていた何かとの相違点、類似点etc...を発見した時に感じる、激しい動揺や自己否定に似た感覚を体験しないと真の意味での成長や発展はないんじゃないだろうか。
posted at 05:56:44

だから、どっぷり浸かってみる。やり過ぎなくらいやってみる。動揺MAX。自己否定MAX。自分の信じてる何かを、自分が限界だと思うところまでやってみる。そこで感じる何かがパラダイムチェンジを生む。
posted at 06:00:06

すると、動揺MAX→安定MAX、自己否定MAX→自己肯定MAXに変化する。パラダイムチェンジってそういうこと。成長するためにはだから自分を客観的に見てはいけない。主観的でなけりゃいけない。そう思う。
posted at 06:01:15

でも、真の意味での客観的なんてあり得ない。みんな「自分は客観的な立場から見ている」と主観的に思ってる。だからみんなすでに主観的。この文も主観的に書いてる。
posted at 06:02:51

それは「普通」の構造と似てる。俺は普通だ、って言う時、その人の普通は、恣意的に決めた普通であり、他の人の普通とは違うかもしれない。普通=恣意的な基準。だから「普通さ~、…じゃね?」は恣意的、主観的。これを口にしなくても無意識に自分で普通の「領域」を作りながら生きてる。
posted at 06:10:56

本を読んだあとに、こうやって書きまくるのは、自分で問いを立て、新しく学んだことを適用し、どれくらい解決できるかを確認する、いわば演習量を自分で増やす作業をしてるってこと。この事は今回の一連のツイートを書きながらひらめいた。
posted at 06:13:43

書く。書く。正しいと信じて書く。新たな概念を消化して書く。さっき書いたことを昇華しながら書く。書く。
posted at 06:16:28

書いたそばから何を書いたか忘れてる。前に書いたことに囚われていない。頭に浮かんでは消える考えを書くいてる。流れにのり、ひとつのことに執着しないで書いている。全体像は意識してない。140字をひとつの単位とし、その一単位にできるだけ注ぎ込む。
posted at 06:22:26

字を余らす時は、その文字数で必要十分と考えているから。
posted at 06:23:30

マジ眠い。
posted at 06:23:44

例えば一個前の呟きも、今の気持ちの必要十分である。
posted at 06:24:13

さっきの「マジ眠い」は例文であって、逆highな感覚が正直なところ。でも消灯すれば爆睡で、夕方まで起きない気がする。時間を無駄にしてる気もするけど、それも「今読みたい」を優先したから。
posted at 06:26:35

「現在(いま)を優先する」ことができる。それは「現在(いま)」の特権。
posted at 06:27:39

このまま10時まで起きて、友人を見送ってから寝るのも一手かな。俺にそんなことができるのか?
posted at 06:28:27

ツイートをしまくって眠気を覚ますこと。この連続ツイートはそのために行われてたのかもしれないという逆説。というより、今を基準に出来上がったstory?
posted at 06:29:58

電池がなくなるまでツイートし続けてみる。という野望を思い付いた。
posted at 06:30:44

信長の野望に比べたら、どうせちっぽけです。
posted at 06:31:06

句読点以外の記号を使わずに文章に立体感を生み出したい。
posted at 06:31:44

言葉も記号じゃない?っていうツッコミは、現在間違いなくノータッチエース(リターン不可)が取れるサーブ(一言)です。
posted at 06:33:39

緩急をつける。ってのは色んなスポーツで言われることなんだろうけど、俺はテニスを基準に考えてしまうので、スライスショット=緩急をつけるための表現って考えちゃう。
posted at 06:35:14

マジ眠いagain。
posted at 06:35:28

例えばこんな感じがさっき言ったスライスショット。
posted at 06:36:08

お堅い文章を読んだあとに一人称を「俺」にする事への抵抗感。ナニコレ?
posted at 06:36:56

けどさっきからそれに抗って、俺を使い続ける俺。
posted at 06:37:22

一人称がいつ変わるか、僕←には分からないです。
posted at 06:37:55

一人称を変える瞬間、自分の中のギアが一つ変わる気がする。大袈裟に言えば人格が変わる。
posted at 06:38:49

「俺」で書き出した文章は、それに引きずられて「俺」以降に登場する言葉を決定する。「俺の女になれ」と「僕と付き合ってください」は求めていることは同じでも、受けとる側の感覚は違う。命令と依頼。一人称の変化の威力の大きさ。
posted at 06:42:23

一人称の選択は敬語と同じ力をもつ。
posted at 06:43:19

それじゃあ、一人称を伏せればいいのか?それは二通りに解釈し得る。最高級の無私の表れor普遍の押し付け。
posted at 06:45:16

さっきから主体が登場しない文章が並ぶ。無私に徹して自分の文章の責任を減らそうと頑張っているが、主観的な意見の普遍化であり、その押し付けなのかもしれない。
posted at 06:47:33

と考えて真っ青。
posted at 06:48:07

いや、嘘。書いてる時点で責任は少なからず発生してるよね。主体を明示しなくても文章が書けてしまう日本語の性質に帰着しよう。
posted at 06:49:35

主体を明示しなくても文章が通じる日本語の性質ゆえに日本人は責任を回避したがるのか、それとも日本人がそういう性格だから、言葉をそのように使うのか。どっちが鶏、どっちが卵?
posted at 06:50:55

個人的には前者の立場。でもどのように日本語ができたか、つまり言語の生成過程を考えようとすると、さっきの前者の理論だと、最初から日本語という言葉が実在したことになる。それだとなぜ日本人が日本語をしゃべるか分からなくなる。まるでたくさんの言語から日本語を選んだかのような答えだ。
posted at 06:54:21

後者の考えだと、日本人という範疇の人間は、何らかの影響(環境etc)で日本人と呼ばれるための性質を手に入れたがために、日本語を喋り始めたということになる。けどこれだと「日本人」という言葉は、「日本語をしゃべる民族」という日本人最大の性質を後天的に得たというおかしな構造になる。
posted at 06:57:58

いや、おかしくないのか?
posted at 06:58:08

で、もう七時。寝ようかな。限界だ。見送りたいよ~。これは間違いなくインターホンが目覚ましか。。。
posted at 06:58:57

インターホンは数回押してください(泣)(汗)ごめんなさい。。
posted at 07:05:35

寝る寝る寝るね。
posted at 07:05:51