木津川市椿井大塚山古墳。
前方部と後円部にJRの奈良線が縦断していたり、前方部は宅地になっていたり、少し変わった古墳です。この経緯については、以前にはなこさんのブログに詳しく書かれているので読んでみてください。
椿井大塚山古墳事件・上 椿井大塚山古墳事件・中 椿井大塚山古墳事件・下
椿井大塚山古墳も先日の黒塚古墳と同様に大量の銅鏡が出土・・・いや回収されたことで知られています。1953年に当時の国鉄の法面改良工事の際に、竪穴式の石室が見つかり、緊急の調査が行われることになりました。全長約180mの前方後円墳ということがわかり、「三角縁神獣鏡」が32面以上、「内行花文鏡」が2面、「方格規矩四神鏡」が1面、「画文帯神獣鏡」が1面、他にも多くの刀剣、銅鏃などが見つかっています。「三角縁神獣鏡」は黒塚古墳と同様に第1段階、第2段階のものが多いですが、黒塚古墳と異なるのは第3段階のものが一部含まれていることです。また、石室は直立式割石積竪穴式石室で、黒塚古墳のように合掌式のものではなく、壁は垂直で天井も板石を架け渡し、粘土で被覆しています。床面には割竹木棺が安置され、壁面などとともに水銀朱が塗られています。これらのことから、黒塚古墳よりやや遅れて築造されたのではないかと考えられます。他の副葬品などからも4世紀初期から、遅くとも4世紀中ごろまでに築造されたものだと思われます。ただ、前回に黒塚古墳の築造年代を遡らせたので、椿井大塚山古墳も何か遡らせる要素がないか探してみると、墳頂部で出土した二重口縁壺が布留式古相のものということがわかり、これと三角縁神獣鏡の編年を踏まえて4世紀初期。300年代くらいまでは遡ることはできるかと思います。あと問題は何故、南山城地域に古墳時代前期前半の大規模前方後円墳が築造されたかということで、後円部の直径がわからないので、全長での比較になりますが、180m級というとこの時代のものとしては、箸墓、桜井茶臼山、メスリ山、西殿塚古墳に次ぐ規模になります。他の古墳時代前期前半のものは天理市の南部から桜井市にかけての、いわゆる大和・柳本・纏向古墳群に小規模古墳も含めて、この地域に集中していますが、南山城地域にはこの椿井大塚山古墳しか存在していないんですね。突如この地域に出現した大型前方後円墳は、単純にこの地域を治めていた首長墓とは考えにくいです。首長墓としては、椿井大塚より後に築造される天上山古墳、御霊山古墳、平尾城山古墳など小規模な古墳が形成されていて、その後椿井地区の墳墓は断絶し、西山城・北山城地域に移行していきます。さらにこれらの古墳の規模は全長100m未満の小規模なもので、明らかに椿井大塚山古墳とは規模が違い、一連の首長墓系譜と関連付けるのは難しいと思います。こういったことから元々この地域に拠点を置いていなかった一族で、全くの別系譜の首長墓ということも考えられます。では、何故この地に築造することになったのでしょうか、例えば奈良時代になると古代道路の整備が行われ、古代山陽道、東海道などが整備され、南山城周辺を通っていたことがわかっています。その礎となる道路は当然この時代にもあったものと思われます。東西からの道路が合流し、道路交通の要所であるとともにヤマト地方に入る玄関口であったと位置付けることは可能です。その玄関口に大型前方後円墳を築造するということは、中央政治勢力の権威を誇示するものであり、被葬者像はこの地域の道路、木津川の水運などの交通網を掌握していた中央政治勢力の重要人物であったとは考えられないでしょうか。
山城町(現木津川市)の図書館アスピアやましろでは、椿井大塚山古墳出土の銅鏡のレプリカが展示されています。実物の一部は京都大学総合博物館で見ることができます。
上下ともに椿井大塚山古墳出土の天王日月銘三角縁獣文帯四神四獣鏡ですが、製作段階は上の二面が鈕b式、乳ⅰ式で表現③のN群の第3段階、下の二面が鈕a式、乳ⅰ式で表現⑤のF2群の第2段階のものになります。こうやって写真撮ってきて編年法に当てはめていくのが楽しくて仕方ないです。
後円部は整備されていることもあり、古墳があるということがよくわかります。
前方部です。明らかに周囲より高くなっていました。これ以上何も言いませんが・・・
<椿井大塚山古墳アクセス> 車:国道24号線から府道70号線に入りますが、付近に駐車場はありませんので、JR棚倉駅近くの山城図書館アスピア山城の駐車場を利用します。
電車:JR奈良線棚倉駅より徒歩約10分。







