桜井市茶臼山古墳。
全長約207m、後円部径約110mの大型前方後円墳で、2009年には60年ぶりに桜井茶臼山古墳の再調査が行われることとなり、南北6.75m、幅1.27m、高さ1.6mの水銀朱が塗られた巨大な石室が露わになりました。この時の現場説明会には私も足を運んでいて、取り除かれた数枚の天井石や壁面には朱色がよく残っていたのを見て、感動していたことが思い出されます。この時は副葬品については、盗掘によって破壊され荒らされていたため多くの銅鏡の破片と玉製品などが見つかっているとはわかっていましたが、埋葬位置や数量などはわかっていませんでした。その後の調査によって銅鏡は少なくとも11種81面にもおよぶことがわかりました。種類の特定できない破片もあり、実際には100面以上の銅鏡が副葬されていたことは確実視されています。これまで一つの古墳から出土した数量としては別格で最多の面数になります。桜井茶臼山古墳より全長、円径ともに大規模で未盗掘の可能性が高い箸墓や西殿塚の石室は一体どうなっているのか益々興味が湧いてきます。また、出土した銅鏡の破片の内訳も非常に特異なもので、「三角縁神獣鏡」が26面、「内行花文鏡」9面、「方格規矩四神鏡」2面などが検出されましたが、「画文帯神獣鏡」が、環状乳、同向式など合わせて16面も検出されていることです。「画文帯神獣鏡」が複数出土すること自体がごく稀なもので、広陵町新山古墳や兵庫西求女塚古墳などで2~3面程度見つかっているにすぎません。「画文帯神獣鏡」の重要性を考えると、これだけでも桜井茶臼山古墳の被葬者の地位の高さがうかがえます。「三角縁神獣鏡」はわかっているものだけで、正始元年銘の第1段階から第3段階のものまで含んでいて、傾向的には椿井大塚山古墳と似ています。築造年代は3世紀中ごろから4世紀初頭と見られていますが、「三角縁神獣鏡」がすべて桜井茶臼山古墳に副葬されたもので、破片の調査が正確なものとすると4世紀初頭と考えるのが妥当ではないでしょうか。築造年代よりも大きな疑問が残るのは、被葬者像と、なぜ銅鏡が粉々に砕かれていたかということで、被葬者像については後述するとして、粉々に砕かれた銅鏡をどう捉えるか考えてみます。盗掘によって荒らされたといいますが、石室の隅々まで、どの破片も細かく砕かれていること、少し踏んだくらいで砕けるような強度ではないことなどから、石室内に踏み入った際に砕かれたものではなく、故意的に砕いたとしか考えられません。盗掘に入った者がこのような行為を行う意図が見出せないんですよね。そもそもこれほどの大量の銅鏡が完形で遺っていたのであれば、持ち帰ったと考える方が自然ですよね。そうすると副葬時から砕かれていたということが考えられるのですが、これはこれで何故貴重な銅鏡をわざわざ砕かなければなかったのかという疑問が残ります。これについては被葬者が破損した銅鏡を集め、リサイクルし国産の銅鏡製作を担う人物であったと樋口氏が論じられていましたが、銅鏡の破片の多くは組み合わせていくことが可能で、多種多様な種類の破片ではないことから信憑性に欠けます。一つだけ可能性を示すものとしては何らかの儀式のために砕かれていたとするもので、後述する後円部墳頂の特異な方形区画で特別な儀式が執り行われていて、この儀式に関係するものだったのかもしれません。
壁面の石積みは垂直に積み上げられています。黒塚古墳のような斜めに積み上げる合掌タイプのものと違い、大きな天井石が必要になります。より、発展した石室と言えますね。桜井茶臼山古墳では、重量1.5tの巨石を12個を架け渡しています。当然、強固なものになりますが、労力も多く必要とします。
後円部の墳頂では方形の区画が以前から見つかっていて、南北11.7m、東西9.2mの方形壇で、辺からは木材を燃やしていたと思われる炭が見つかっており、やはり、この壇上で何らかの儀式が行われていたことがうかがわれます。桜井茶臼山古墳の墳丘からは、当時の古墳から多く出土している円筒埴輪が全くなく、代わりに2009年、方形壇を取り囲むように南北13.8m、東西11.3mの丸太垣の痕跡が見つかっています。また、この時丸太垣に沿って安置されていたと思われる二重口縁壺も同時に出土していて、この二重口縁壺は橿原考古博物館で展示されています。
桜井市メスリ山古墳。
桜井茶臼山古墳から南西に約1.6kmに位置する桜井メスリ山古墳は全長約224m、後円部径約128mの主室と副室の二つの竪穴式石室をもつ大型前方後円墳です。主室の構造は全長約8.1m、幅約1.3m、高さ約1.8mで、床は木棺を据える粘土床があり、痕跡から木棺は幅約80cm、長さ7.5m以上あったことがわかっています。壁は板石を垂直に小口積みし、8枚の天井石を覆っている。これに対し副室は全長約6m、幅約72cmで、棺を納めた痕跡はなく、壁は自然の塊石を用いた合掌式の構築になっています。主室は盗掘をうけていますが、銅鏡片3個、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、鍬形石片、石釧片など石製品を中心とした遺物が出土しています。銅鏡片は内行花文鏡が2面、神獣鏡が1面であったことがわかっています。古墳規模からして多くの銅鏡が埋葬されていたことは容易に想像できますが、残念ながらごく少量の破片が遺っていたにすぎません。しかし、これが健全?な盗掘をうけた石室の形跡だと思います。一方、副室のほうは盗掘をうけておらず、こちらは鉄製槍先、鉄剣など鉄製武器や工具を中心とした多くの遺物が納められていました。また、墳頂では埋葬施設の直上に築かれた方形壇を取り囲む形で直径50cm~1mにも及ぶ大型の円筒埴輪、高杯形埴輪などの埴輪列が二重に巡り、墳頂縁辺にも円筒埴輪列が巡っていたことが確認されています。この施設は桜井茶臼山古墳の丸太垣根と類似していて、丸太垣根から埴輪列に置き換えたものとして共通性を見出すことができます。さらに墳形においても、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳ともに前方部がほぼ長方形の柄鏡形といわれるものであることも共通しています。オオヤマト古墳群では大小古墳群の殆どが前方部が開く撥型のものであることも付け加えておきます。築造年代は桜井茶臼山古墳より、副室をもつなど石室の構造が発展しており、桜井茶臼山古墳より遅れて築造されたと考えられ、4世紀中葉ごろのものと思われます。
3世紀の中葉に箸墓古墳が造営されて以降、4世紀中葉にかけて奈良盆地東南部の北部から南部一帯に邪馬台国、初期ヤマト政権の王墓が営まれていくことになります。この王墓を定義付けするならば、他の古墳を圧倒する墳丘規模をもつことが条件となり、具体的な数値は全長200m以上であることが一つの基準となります。当該年代でこの条件に当てはまるものとしては、大和古墳群では西殿塚古墳、柳本古墳群では行燈山古墳、渋谷向山古墳、巻向古墳群では箸墓古墳そして、分類としては鳥見山古墳群として区分される桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳が挙げられます。一般的にはこれらの古墳群を全て含めて邪馬台国、初期ヤマト政権王墓と考えられています。一方で、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は王墓から除外するという考えもあります。多くの研究者は前者の説を支持しており、これが主流になっています。その根拠として桜井茶臼山古墳の副葬遺物、メスリ山古墳の規模などは王墓以外に考えられないこと。そして各古墳の造営年代の順序を古いものから、箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山古墳→行燈山古墳→渋谷向山古墳の順とし、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を外すと3世紀末から4世紀前半の王墓が他に当たはまるものがなく欠落することになるというものです。しかし、私は桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を外したほうが、邪馬台国から初期ヤマト政権への移り変わりが単純化して理解しやすくなると感じています。具体的に言うと、まず箸墓古墳は当然、卑弥呼の墓であることは間違いないので、次の西殿塚古墳は卑弥呼の後継者である台与の墓であると考えられます。西殿塚古墳の前方部と後円部にはぞれぞれ方形壇があるとみられていて、政治を執り行う者と祭祀を執り行う者の二者が埋葬されている可能性があることからも台与の墓という確立は非常に高いです。そして、二基の古墳を外して、次を行燈山古墳とします。行燈山古墳は第十代崇神天皇陵と治定されていて、書紀の文献に見られる「山辺道之上陵」は、行燈山古墳であることはほぼ間違いなさそうです。崇神天皇以前の九代は俗にいう欠史八代と神武天皇なので、実在していた天皇ではないと考えられています。崇神天皇はハツクニシラス王とも呼ばれ、ヤマト王権最初の王とも考えられているんですね。そうすると、邪馬台国の時代は二代目の台与の代で終焉を迎え、崇神天皇の代にヤマト政権が成立し、史実のとおりに古墳も営まれていたことになります。欠落の問題は各古墳の造営年代誤差で埋めることもできるかと思います。また、行燈山古墳の十代崇神天皇と渋谷向山古墳の十二代景行天皇の間には十一代垂仁天皇が在位しており、その陵墓は菅原伏見陵に葬られたとあり、次期ヤマト政権王墓が集中している佐紀古墳群にあたります。この地域に求めることも可能ではないでしょうか。(ただ4世紀中ごろまで遡れる古墳が現在のところ存在していません)もう一つ、鳥見山古墳群はオオヤマト古墳群とは初瀬川(大和川)を挟んでいて、地理的には別の地区だと考えられ、古墳群とまとめられていますが、二基の古墳を除いては5世紀以降の古墳群で占められており、オオヤマト古墳群のように大小同時期の古墳群があるわけではないので、完全に独立した古墳だと言えます。ただ、ヤマト王権とは違った系譜だとすれば、これほどの大規模古墳は一体誰の古墳だったのかというのが大きな問題になります。最も可能性があるのは阿部氏の祖先、オホビコ、タケヌナカハワケを被葬者とする説でしょうか、ただし皇子クラスの墓が200mを超えてしまうと、大王墓の基準が崩れてしまうことになります。いずれにせよ、オオヤマト古墳群や佐紀古墳群の学術調査が許可されない限りはどの説も憶測にしかすぎませんね。








