「つられる」についてもう一度考えてみる | 耳トレtsingmoo青木肇のブログ

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完全音感(絶対音感&相対音感)指導。聴音、ジャズピアノ、ジャズボーカル、スキャット、アカペラベース、英語発音指導。アカペラバンドクリニック。
ピアノ、アカペラ、合唱、リコーダー、カリンバアレンジなど。

青木肇tsingmoo@yahoo.co.jp

正直「つられる」に関しては分からないことがまだ多いかなと思います。

合唱などで他のパートを歌ってしまうなどが「つられる」でしょうが、楽器演奏者だったら間違えて他のパートを演奏するというのは読み間違えしなければ有り得ない現象でしょう。

楽器演奏者に「つられる」が有り得ないのは、手などの手順と音名の意識なしで演奏することがほぼ不可能だからというのはあるのではないかと思います。

歌の場合、そのパートの音取りが「その高さを歌う」までの段階だと出す音を作る意識が楽器演奏者に比べて曖昧すぎるかもしれません。

私自身はそもそも音名を文字通り100%意識していないと歌いづらく、歌詞があってもピッチそのもの、音名、その調での度数、和音内の度数を意識したうえで補助的(というかほぼ自動的にですが)鍵盤意識も残しています。
完全に楽器演奏者の意識で歌っているわけです。
「つられる」のは意識的に他のパートを歌わない限り不可能ですが、それは「つられる」ではないですね。

「つられる」と少し関連する現象としては、「他のパートがないと上手く歌えない」というのがあります。
この場合、つられることはありませんが、自己パートの音意識としては弱いところがあるのかもしれません。
どんなヘンテコなパートでもピアノなどでそのパートを弾くのと違いはありません。

何種類かの音意識を同時に持つことで「つられる」は回避できる、つられること自体が不可能になるのではないか、と思います。