たとえばあなたの子どもがいるとして。あるいはきょうだいでも、両親でも、大切な誰かでもかまわない。その人が一生懸命に勉強してそれでも思うような結果が出なかったとする。
そのときあなたは言うだろうか。「お前はダメだ。もうやめてしまえ」と。
いやたぶん違う。きっとこう言うはずだ。「お前ならやれる。できることは全部協力するからもう一度一緒に頑張ろう」と。
それが家族であり、愛する人に向けたあたたかなまなざしというものだ。
僕はそう信じている。
でもふと、こうも思う。
もしそれが「自分の愛するサッカーチーム」だったら――どうだろうか。
チームが低迷し勝てない日々が続いたとき。
人はすぐに文句を言う。あいつが悪い、誰々はもういらない。やめちまえ、と。
それは愛だろうか?
努力しても報われず、悔しさに歯を食いしばっている彼らに対して僕たちは何を差し出せるのか。
もしそのチームが自分の子どもだったとしたら。どんなに不器用でも、転んでも、前を向いて立ち上がろうとしている姿を僕たちは見ているはずだ。
だからこそサポートする。声を枯らして応援する。
誰よりも遠く離れたアウェイの地で風の中に叫ぶ人たちがいる。
声が届くかどうかなんてわからない。でもそれでも叫ぶんだ。「愛してる」と。
その声はきっと誰かの心の奥に小さな火を灯している。
僕はそういうサポーターでありたい。
苦しいからこそ応援したい。
怒りをぶつけるより祈りのようなエールを届けたい。
文句を言うだけの人よりも静かに、でも確かに支える人間でありたい。
週末には、また試合がある。
僕は全力で応援するつもりだ。
我が子を見つめるときと同じような眼差しで、ただひたすらに信じて支えたい。
なぜなら、それが――僕の愛のかたちだから。
