自分にとってイヤなことは、他人にしてはいけない・・・いわゆる人間関係の基本として、大勢の人たちが小さい頃から言い聞かされて育ってきているが、現実には、イヤがることを組織化なり徒党を組むなりして正当化して、正義の処分、処理として美化出来た人、人たちが、心の傷や失望感に苦しみ続ける人、人たちを踏み台、犠牲にして、権勢、欲望、快楽など思い通りのものを手に入れているような気がする。

洗脳でもされたのかと思うような信念や純粋さをもって、責め苦を導く行為を神聖な懲罰とでも認識しているのかと思うような拒否、疎外に何度も遭うことになったが、みんながイヤなものは、同じようにイヤなんだ・・。みんなが要らないと言うものは、同じように要らないんだ・・、という基本法則とでも言えるようなことが認めてもらえない。犯人を作れば、真犯人はお咎め無しという人権蹂躙を、被害を受けている側がなんとかすることはできないのだろうか・・。

いわゆる意図的に削除されたり、あるいは陰謀にはまって喪失してしまったりするかたちで、大きく人生が歪んでしまうと、それを仕組んだ側の人たちの方が、なぜか満足のいく、手に入れたいものが手に入る人生を送ることが出来、歪められた方は、その逆の結果ばかりを、しかもそれがあたかも正しい処分であるかのような周囲の納得評価付きで強いられる運命にはまっていってしまう。どうしてそうなってしまうのか、いつも思い悩む。思い悩む側は、大部分の人が、正しい処分だ、評価だと思っている状況であっても、なんでそんなに自信持って、歪めた側を支持するんだと思ってしまう。

9月11日は、アメリカでの航空機激突テロと、日本の東日本大震災(3.11)の被災者への

追悼、哀悼の気持ちを捧げる人たちや、そういう人たちによる追悼行事が各地で行われ、

その様子が報道されていた。

そうした災害で命を落としたり、傷ついて苦しんでいる人たちのことを深く思いやる人たちの姿が、

報道などで映し出されているのを見ると、そういう災害の無かった、ごく普通の生活の中で、

好き嫌いや縄張り意識、組織的疎外、派閥意識、学閥意識などにより、はみ出したり、望んで

いないところへ追い込まれたり、不当な格差のために疲弊したりしている状態にあることに対して

は、美しい思いやりの気持ちは向けられることはないんだろうか、と苦しまされる立場ばかりの

人間としては、思ってしまう。戦争時の傷害、殺害は何の罪にも問われない、とでもいう理屈に

むなしく丸腰で抵抗し続けている忍耐や努力に疲れているせいなのか、輝かしく、まぶしいぐらい

の神々しさを持った、災害犠牲者への気持ちの、ごくわずかなカケラを分け与えてくれれば、

救われるのに、まともな生活が出来るのに、とふてくされるように思ってしまう。