セクハラとかパワハラの対策法って、なぜか真面目に取り組もうと思っている人の希望や人生を破壊するばかりに乱用されるように気軽に使い込まれるばかりで、ほんとに危険な人物とか厄介な人物は網の外ばっかりだよな~(T_T)・・・。

人生というものは、よく自分の人生だから・・と言われ、また自分の人生ある以上は責任があるのは自分だ・・と、それに積み上げるかのように言われる。

しかし、やはり人生も好循環の中にある人はそれが当てはまるのだろうが、悪循環から抜け出せないのは必ずしも努力不足、能力不足だけが原因とは思えない。悪循環と言うぐらいなので、自分がそこにあって欲しい、居て欲しい、出来てほしい、つながって欲しい・・・・というようなものが、抜け落ちている、そこには無い、更に不運な場合は破壊されている・・・だから本当は、そこになければならない、ほんの2、3の要因だけが原因で、自分がかつて望んでいた人生を歩んでいる別の人物が送っている人生とは似ても似つかない人生を送ることになっているのではないか、と思うのだが、悲しいかな「人生は一度きり」という運命によって、ほんの僅かな要因を入れ替えた人生を見ることは出来ない。

最近、コンピューターの進歩が著しいが、別の人生を送り直すことは不可能であっても、それをコンピューターグラフィックスで描かれたシュミレーションの世界では見ることが出来るようになるのであろうか。いや、それが可能になったとしても、悪循環にとりつかれた人生を歩んでいる人たちにとっては、単に現実に見えている好循環人生の人間が見えるだけで、何の効果もないことでしかないことになるだけなのかもしれない。なぜか新しい技術とか新しい人間関係とかも、そんなように既に好循環人生を歩んでいる人たちが、今歩んでいる人生がいかに幸せですばらしいものであるのかを教えたり、見せたり、作ったりするばかりで、悪循環人生の人たちの救いにはならないように思える。悪循環をもたらした要因によって、ぽっかり空いた空洞・傷・哀しみが、詰将棋の終末に向かう一手一手を呼び込むかのように好循環人生を歩む人たちが、救済される必要がある悪循環人生を歩む人たちを追い込み、苦しめ、苛んでいく・・。その行為は苦しんでいる側にとっては、まったく不可解で理解し難いにもかかわらず、不思議なことに周囲の大多数の人たちには、

正しい裁きを行なっているように賞賛、賛同される。それによって苦境に晒される者が生きていくのに大事な精神的支えや精神的な意欲までも削ぎ落としてしまうのである・・・(T_T)・・。

悲しい運命で、残された僅かな可能性を求めて努力しようとしていても、それすら間違っているかのような過酷な芽の摘み取りをするのが、大きく十分な活躍スペースも人も得ている、得ることになった人になるのは、なぜなんだろうか・・・と再びの大ダメージにもがく心で思ってしまう(T_T)。

そして、これもなぜか、明らかに苦しみ、悲しみを加算することなのに、そういう人が抱え込んでいる大勢の人たちは、正しいことをしているかのように支持し、追い込まれて孤独に苦しむ人間を正義の名のもとに処刑するのである。

左遷をする・・、あくまで左遷が出来る側の人間が正しいのであって、左遷されて苦しむ人間は、努力が足りないとかいう理由までつけて、歩めるはずだった人生を失った責任を巧妙に押しつける・・・これも同じような悲劇で、どうしてそうなるのかをまじめに考えて、もがき苦しんでいるのは、誰にも認めてもらえない被害者となってしまった、左遷された人だけだ。