8月18日(月)
突如として、奥多摩の穏やかな山に行くことを思いたった。
なるべく体への負担が少ないように、
行程が短く、標高差が小さいような、手ごろな山を探す。
ガイドブックに載っていた、高水三山の縦走路に決定する。
標高差553m、行程3時間55分とある。
体力、技術ともに☆ひとつだ。
『初心者にも手軽なコース』、と太鼓判が押してある。
ほとんど、トレーニングもせずにいきなり厳しいところへは行けない。
現状では、これくらいの手ごろ感で充分であることは
判断できた。
朝、7時に起床した。
行程が短いので、それほど早く登り始めなくてもいいのだ。
駅までの途中のコンビニで、食料と飲料を調達した。
おにぎりとお茶と水だ。
昨夜の最低気温は22℃と、それまでの熱帯夜とはうってかわって
過ごしやすい夜だった。
しかし、熱帯夜だろうが涼しい初秋の晩だろうが
睡眠の深さや長さには、まったく影響はないのだった。
10:00頃
青梅線軍畑駅に到着。
晴れ渡った空に、積雲が少し多めにあった。
この夏に多発している、ゲリラ豪雨や落雷を考えると
早めの行動が肝心だった。低山といえども侮れない。
無人駅の踏み切りを渡って、舗装道路を北に進路を取る。
旧鎌倉街道ということだ。戦の際に、武者が鎌倉を目指した路。
頭上では、強烈な日差しと、それを遮る雲による日陰が
交互に繰り返されていた。
山道はまだまだ先だったが、汗が雪解け水のように
アスファルトの表面に、いくつもの点による線を描いた。
点が一直線上に無数に集まっても、線にはならない、
と、かのレオナルド・ダ・ヴィンチが言っていた、気がした。
今日は縦走なので、この道を引き返してくるわけではない。
帰り道の目印を残して行く必要はないのだが、
点の線は、延々と背後に残り、たちまち蒸発して消え失せた。
やがて、舗装道路と分かれて、例によってお決まりの
奥多摩や奥武蔵特有の山道の風景に包まれていった。
風通しが悪くなる分だけ、放熱も妨げられる。
いつも、歩き始めは汗が吹き出してくるのだった。
地面を見ると、奥多摩の樹林帯でよく見かける
恐ろしく足の細長い蜘蛛が、
貴族的な特権意識を周囲に感じさせながら
すたすたと歩いていた。
季節の違いか、山塊の違いかは定かではないが、
ここのは胴体が赤くなかった。
彼らは、決してこちらと視線を合わせることなく、
そそくさと立ち去って行く。
帽子くらい取ってもよさそうなものを。
あまりにも全員がそういう態度なので、終いには
なぜか疎外感を覚えることとなった。
しばらく行くと、お寺のお堂が見えてきて、
そこを巻いてさらに登ると、高水山の山頂に到着した。
11:30頃
山頂では、一人の紳士が三脚に望遠で
はるか眼下に望める街の様子を狙っていた。
遠くに、旧西武ドームの銀屋根が、白く輝いていた。
山頂付近で休んでいると、突然バキバキと大きな音がして、
高木の枝が2mくらいのところから折れて地面にどさっと落ちた。
誰かの仕業か、それとも自然の偶然のなせる業か。
蝉が消費者のようにやかましいほど鳴いていた。
いつも、聞いている声に比べると
キーが幾分高かった。
途中の登り道で、いくつか地面に落ちてじたばたしていた
羽の透明な小ぶりの蝉だろうか。
11:40頃
出発。次の山を目指す。
なだらかなアップダウンが続く。
12:20頃
二つ目の山、岩茸石山に到着。
北方の奥武蔵方面の山並みが見えた。
昨年行った、棒ノ嶺が尾根伝いに近い。
山頂で昼食のおにぎりを食べた。
棒ノ嶺方面から、四十代と思われる男性登山者が
通過していった。それ以外は、誰もいなかった。
夏休みのハイシーズンとはいえ、平日なら
このあたりの山でも、ほとんど誰も見かけないらしい。
じっくりと地図を眺め、この先の行程を確かめた。
と、遠くで雷が1回鳴った。
急がねば。
12:45頃
出発。第三の山へ向かう。
ここもいくつかのアップダウンを繰り返す。
13:35頃
惣岳山到着。読み方が分からない。
山頂に大き目の祠があった。
ここは恐ろしく、静かだった。
これまで盛んに鳴いていた蝉や鳥が、しんと静まり返っていた。
対局を見つめているような、緊張感があった。
その中で、ただひとり、アブだけはブンブンと羽音をたてて
忙しそうにやって来て、去っていった。
君たちはいつもそうだ。
また静まり返った。
試みに、おならをしてみたが、何の変化もなかった。
実験は失敗だった。
13:45頃
出発。後は降りるのみだ。降られる前に先を急ごう。
降りた先には、ゆずの湯という温泉があるらしい。
途中で看板が出ていたのだ。
ひとっ風呂浴びて、冷えたビールといきたいものだ。
14:40頃
沢井方面への分岐着。
古傷の左膝が痛み出した。
下りでこれが出ると、厄介だった。
トレーニング不足を後悔しても始まらない。
だましだまし、降りるのみだった。
ここの樹林帯の下りは、カナカナの独壇場だった。
ここまで、一言も声を聞かなかったのが、
なぜここでは、彼らしか鳴いていないのか不思議だった。
ヒグラシは「終わりが近い」という記号だと思う。
今日の山歩きも夏休みも、もう終わりが近いと
彼らは告げているのだ。
14:55頃
車道に出る、が、下り勾配がきつい。
まだ、左膝が痛む。
左斜め前方に向かって、よちよち歩きしかできなかった。
それは、往年のアホのさかたの歩きだった。
途中で、御岳方面と沢井方面の分岐に到着した。
直感より、理性による判断を優先して左の道を選んだ。
つまり、沢の井酒造もあるし、沢井方面のほうがいいだろうと。
15:30
見事に裏切られた。
温泉も反対方向。
沢の井酒造のガーデンも定休日。
食事ができるお店もなかった。
何とか発見した酒屋のおばちゃんから、
吟醸酒と缶ビールを購入した。
16:00頃
無人の駅前広場のベンチで、缶ビールを飲み下した。
しばらく休憩すると、膝の痛みもほとんどなくなり、
駅の階段もすいすいと昇降できた。
しばらく、駅で電車を待ち、奥多摩発青梅行きの電車に
乗り込んだ。
結構、混雑していた。
このあたりでは、ドアの開閉は、自らの意思により
ボタンを押して行うのだ。
この時間だと、夕方のラッシュの前に帰れそうだった。
さて、今回は最期に思わぬ痛みに見舞われてしまった。
けがや病気の痛みと共存していくことが、
今後、いつの日か必要になってくるだろう。
今日はその時に備えた、予行演習だといえるのかもしれない。
青梅駅で東京行きの電車に乗り換える時に、
どうしても座りたいがために、小走りにホームを横切りつつ
そんなようなことが、頭に浮かんでいた。
帰りの電車で、持ってきたレオナルド・ダ・ヴィンチの本の中で、
彼が点と線について、何をどう言っていたかを探していた。





