ヘーゲルは幼なじみ同士の結婚を忌むべきものとして、他方で全く知らない者同士の結婚を理想的なものとしている。というのは良く知り合っている者同士では互いについて、そしてひいては自分自身についての反省(客観化)が出来ないからである。何が特殊な性格で普遍的な性格なのか、何が特殊な地域的価値とされ普遍的価値とされるかを知る契機を生み出さないために幼なじみ同士の婚姻は人格の発展、完成へと向かわず、逆に彼らから社会性(ヘーゲルの場合には人倫)を失わせることになる。つまり内輪でのみ通用する意識が再生産されるわけだ。その内輪が社会的価値ヒエラルキーの上位に位置するものであれば良いが、例えば家族や友人同士で演劇やクラシックのコンサートに行くなど(こうした趣味は所得の高さと有意に相関している)、そうではなくカラオケ、麻雀や高校生くらいの年齢で就業するのが当然と言ったものである場合は経済的なそれだけでなく、文化的貧困が再生産されることになる。ましてやその内輪がある種の共同体的性格を持っていれば尚更だ。貧しくとも笑顔があればよいという価値転換を装う自己欺瞞(これは貧困と社会的不平等を受容させるための論理に過ぎない)と生活を支えるだけの力をやっかいなことにそれは持っているからだ。これでは社会を変化させるだけの力は生じようがない。こうして考えれば、貧困層において恋愛というコミュニケーションがなぜこれほどまでに見いだされるか、そしてその低年齢化が生じるのかがよく分かる。彼らにおける恋愛はいってしまえば動物的なもの、快不快によって、感情の揺れ動きによって規定されている。そこにはそうした関係を通じて自己を客体化し、自己を再認識する過程はない。別にこれは彼らに通俗的な意味で自分がないということではない。彼らも相手に合わせて趣味や服装の系統くらいは変える(そしてこれらの変化は彼らにとって自分の気持ちを自らと相手に伝えるために重要なサインなのだ)。しかし、価値や文化の境界は越えない。つまり自己を根本から変えるという苦行はしない。それは面倒なのだ。そしてそうした層の男は同じ階層の女と、女はごくまれに上層の(年齢や社会的地位の)マージナルな男と、しかし多くの場合同じ階層の男と結ばれることになる。女性は若いことが一つの社会的価値であるので元々それ自身において社会的価値を持たない男よりは上昇の機会はあることはあるが、文化資本や社会資本を多く持つ男性(要は社会的上層)は物事を時間軸において考えるので、年月と共に減価償却される若さの価値ははっきり言って高くない。つまり若い、見た目がよいだけの相手には本気にならないということだ。そして結局貧困は再生産されるのである。そして貧しさの中の感情は時に美しいとされるから救いがない。