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chante de tertium non datur

Lecteur, c'est peut-être la haine que tu veux que j'invoque dans le commencement de cet ouvrage ?

戦後の55年体制を終わらした細川政権(1993~1994)以来、それ以前には実現しなかった与党野党の交代が何度か行われた。そして2009年(もう三年前になるのだな)にニュースによれば16年ぶりに政権交代が実質的な意味で(それは日本において非自民政権の誕生を指す)生じた。僕は特別興奮も期待もしなかったが、ニュースのコメンテーターや政治学者という芸能人はずいぶんとはしゃいでいたのはよく憶えている。では今人々が民主党政権とそこに関係して感じていることは何だろうか。意外に長く政権が続いているなとか、迷走しているなとかであろうか。そうした感想もあるだろう。しかし最も一般的で深刻な感想は与党野党が変わっても(日本の)政治は何も変わらないという類のものではなかろうか。現代政治はイデオロギーの違いに基づくというよりも、与党野党という政治権力上の位置関係によって政策の違いを生み出している。それまで野党の地位にいた政党が与党、政権をとることは自動的に政策の変更をそれがどういうものであれ、生み出すとされ、多くの場合その変更はそうした地位変動を生じさせた(とされる)有権者の意志を反映しているのであるから、肯定的な価値を持つ。僕は現在の民主党政権には辟易しているが、では自民党やそのフランチャイズからなる野党が政権を取って政治的な改善を期待できるかと言えば、それはできないし、多くの人もそう思っているだろう。それが橋下などというミニ小泉への期待に繋がっているのだ。ここで注意して欲しいのは橋下は野党ではないということだ。連中は選挙を通じて国政上の権力配置に場を与えられたわけではない。つまり与党野党の区別の外、極端に言えば公的な政治システムの外にいる非正統な勢力なのである(何と言っても橋下自身が大阪市長であって国政に関与する権限を持っていない)。これは既存の政治を構造付けていた野党/与党コードの有効性の喪失と言えるだろう。同様の傾向は例えばギリシアやアイルランドに見ることができよう。与党/野党コードは本質的には時間に基づく区別である。政治が時間の推移(制度的には定期的な選挙によって)とともに変化することをそれは予期している。しかし日本の政治はもはや時間と共に劣化することは予期できても、政治的決定によって変化する、それも社会的に肯定的な方向へと進むことは予期できない。少なくとも政治システムの枠内では。そこで登場するのが、時間に対置されるところの空間コード、橋下のそれで言えば中央/地方の区別であり、クライアントポリティックスの文脈で言えば国民/非国民もしくは国内/国外という区別であろう。その社会において彼が何者であるかが重要であり、彼が何をするかは大して重要ではない。何をしようとそれは彼の属性において解釈されるからである。よいユダヤ人は死んだユダヤ人のみだというわけだ。いやな傾向だと僕は思う。