久々に大学の道場に顔を出すことができました。
とはいえこの文化祭シーズン、部活もオフの時期で、自主練しかなかったのでみんなに教えられたわけではないのですが。
主に教えることになった後輩には、やはり技を体感してもらうのが一番かと思い、基本的な技を一巡かけてみたり、いろいろ技に対する考え方を語ったり、楽しい時間を過ごせました。
ただ、もう少し「後輩に技をかけてもらって、改善点を提示することで、実質的な成長を図る」ということもするべきだったかなと。
これは反省ですね。
話は変わりますが、後輩に「幹部の資質ってなんですか?」と聞かれた時にはどきっとしました。
この質問、意識が高いからそういう疑問を常々持っているのか、それともたとえば現在の幹部に対する不満的なものをもっていて、それゆえに出てきてしまった疑問なのか。ちょっと気になりましたが、どちらにせよいろいろなことに疑問を持ち自分なりの答えを持っておくのはいいことです。
自分なりに納得のいく答えを携えて、ゆくゆくはいい幹部になってもらえたらいいなと願うのみです。
本日は松戸市の合同練習会に行ってきました。参加もこれで3回目となります。
今年も初段の部で指導をさせていただき、下段返、送小手、巻小手を教えてきました。
下段返は攻者の動きと対応させ、タイミングのあった体捌きをすることで、攻撃を外し虚をつくこと。
送小手は、相手が転びやすいように誘導するような心構えや方法を。
巻小手は、良くある失敗を紹介した上で、失敗しない方法を幾つか提示するとともに、相手の力が強くてそもそも初動すらも思うように出来ない場合をモデルケースとして、運動神経の逆用を用いた対処法の紹介など、すこし難し目な話をしてきました。
どこまで吸収してもらえたかはわからないですが、人によっては想像以上に、目に見えて上達もしてくれ嬉しい限りです。
久々の更新です。
最近練習と言う練習は出来てないんですが、雑感的なものを。
肩関節とか、股関節とか、武道を行う上で重要な役割を持つ関節があります。
時に応じて、関節を分離したかのように使うこともあるし、固めた感じにして他の部位と一体化させたかのように使うこともあるし。奥の深さは際限ない。
ふと思ったんですが、相手と振れている掛け手や持ち手、それらも関節のようにとらえてはどうか。
今まで「力がどのように伝わるか」という視点で見てきた部位ではありますが、もういっそ、自分と相手をつなぐ関節のように、もう少し言えば自分と相手の体をまとめて一つのように見るように、そんな視点が技をまた一段階成長させるのではなかろうか。
そんなことを思ったので、備忘として残しておこうと思いました。効果のほどはまだ謎ですが。
最近練習と言う練習は出来てないんですが、雑感的なものを。
肩関節とか、股関節とか、武道を行う上で重要な役割を持つ関節があります。
時に応じて、関節を分離したかのように使うこともあるし、固めた感じにして他の部位と一体化させたかのように使うこともあるし。奥の深さは際限ない。
ふと思ったんですが、相手と振れている掛け手や持ち手、それらも関節のようにとらえてはどうか。
今まで「力がどのように伝わるか」という視点で見てきた部位ではありますが、もういっそ、自分と相手をつなぐ関節のように、もう少し言えば自分と相手の体をまとめて一つのように見るように、そんな視点が技をまた一段階成長させるのではなかろうか。
そんなことを思ったので、備忘として残しておこうと思いました。効果のほどはまだ謎ですが。
とあるブログを発見しました。中々辛辣に少林寺拳法の事を書いてらっしゃる。
僕個人としても今の少林寺拳法について両手ばなしで賛同してるわけではないので、そのブログの内容を見ても別に怒る気にもならないし、むしろ一部正確性を欠く記述以外については概ね理解できます。
ただ、そのブログを読むといろいろ考えさせられる。
申し訳ないけど言ってることがたまにぶれてたりとか、少林寺拳法に対する誤解や過度な期待をしてしまって、それが得られないことによる不満なだけじゃないかと思う部分もありはしますけど、今の少林寺拳法が単純に「看板に偽りあり」という状態になりつつある(なっている?)という点については同意せざるを得ない。
本部がー、と言ってても話が大きくなって空中戦になりますので、わが身に置き換えて、喫緊の課題みたいなことを考えると、道場の後輩が求めるものを与えられる状態になっているのだろうか。
そもそも後輩はなぜ少林寺拳法を始めたんだろう。それも実はよくわからないや。
また、「求めるものを与える」というスタンスでいいのかどうかも悩ましい。
だって「喧嘩で強くなりたい!」っていうやつにそれだけ与えてそれでいいかと言ったらたぶんそうじゃない。
かといって「喧嘩の強さは本当の強さじゃないんだよ」っていって乱取りを全く教えないのも違う。
なんなんだろうね。正直「少林寺拳士としての在るべき姿」が若干大風呂敷広げすぎてね?と言いたくなりたくもなる状況です。
少林寺拳士としては・・・
・強くなくてはいけない(でも単純な強さだけじゃない)
・今のご時世、演武もできなきゃはずかしいよね。
・選手を作るようなのはダメだっていう教えもあったよね。
・術科もできない指導者なんてダメだよね
・でも技術屋さんとか言われちゃだめだよね。
・乱捕り的な強さも必要。だって力のない正義って無力なんだもんね。
・リーダーシップを発揮し、行動力と正義感がなければならない
(既存の拳士が真にリーダーシップ・行動力・正義感を備えていたら本部をつぶしてるんじゃないか?っていう話はまた別の話)
・仏教伝来なんで、仏教系の知識もないといけない。
・少林寺拳法独自の教え(金剛禅)も理解しないと経ないよね
・作務とかもしないと
・礼儀作法も身についてないといけない。
・後輩には礼儀作法も学ばせないといけない。
・上下関係を学ばせるとかいいながらも、和気藹々と互いに尊重し合わないとね。
・技術も思想も少林寺拳法だけじゃだめだ。他武道とか他の思想も知ってなきゃ
・情熱を持って修行および指導にあたらないと!
・でも道場で熱を入れ過ぎると精神修行がなってない的なこと言われるよね。
あげればきりないですね。
他にも、「開祖がこういった」的な話もあるし、大学から見た道院は練習量しょぼすぎて動作がのろすぎてみるに堪えないとか、道院から見た大学は技術の基本もなってなくて単に大きく動いてるだけだ、みたいなお互いにお互いを見下し合ってる感もあるし。
僕の嫌いな「それは少林寺拳法ではない!」という意見は上記のような様々な観点(しかも一見相対する観点もあるなかで)一部を取ってきて、それを理由に人の行動にケチをつけることです。
要はキルケゴールと逆なことを言いますが、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」なのかなと。
僕自身はそれでいいけど、後輩指導に当たってはどうあるべきなんだろう。最近それが悩ましい。
少なくとも限られた時間の中で、上記の項目をすべて満足させるような、多くの物を、高い質でバランスよくするのはまず不可能だ。なので現実を見据えた取捨選択が必要になる(もちろん恒久的に何かを捨てるんじゃなくて、その場の指導に当たっては、だけど)。取捨選択のキーになるものは後輩の求めるもの、もしくはこちらの与えたいもの(少林寺拳法として目指すべき姿)だろう。
求めるものを明示してくれればそれにこたえるけど、そもそも何を求めるのかわからないし聞いても的を得ない(もっと聞きこめって話もありますが)
目指すべき姿はやはり複雑で「これです」と言えるものでもないし、「こういう練習をすればいいよね」っていう話でもない。
まぁ字面で何を言ってても見えてくる答えなんてないので、むしろ後輩と一緒になって悩むことこそが答えへの一番の近道なんでしょう。そんな気がします。
それにしても、ハードル高すぎ。そして一般的な道院のレベルがあれなので、その差によっていろいろ不満が出るんでしょう。わからなくもないけどむずかしすぎる。
駄文が長くなりました。失礼します。
僕個人としても今の少林寺拳法について両手ばなしで賛同してるわけではないので、そのブログの内容を見ても別に怒る気にもならないし、むしろ一部正確性を欠く記述以外については概ね理解できます。
ただ、そのブログを読むといろいろ考えさせられる。
申し訳ないけど言ってることがたまにぶれてたりとか、少林寺拳法に対する誤解や過度な期待をしてしまって、それが得られないことによる不満なだけじゃないかと思う部分もありはしますけど、今の少林寺拳法が単純に「看板に偽りあり」という状態になりつつある(なっている?)という点については同意せざるを得ない。
本部がー、と言ってても話が大きくなって空中戦になりますので、わが身に置き換えて、喫緊の課題みたいなことを考えると、道場の後輩が求めるものを与えられる状態になっているのだろうか。
そもそも後輩はなぜ少林寺拳法を始めたんだろう。それも実はよくわからないや。
また、「求めるものを与える」というスタンスでいいのかどうかも悩ましい。
だって「喧嘩で強くなりたい!」っていうやつにそれだけ与えてそれでいいかと言ったらたぶんそうじゃない。
かといって「喧嘩の強さは本当の強さじゃないんだよ」っていって乱取りを全く教えないのも違う。
なんなんだろうね。正直「少林寺拳士としての在るべき姿」が若干大風呂敷広げすぎてね?と言いたくなりたくもなる状況です。
少林寺拳士としては・・・
・強くなくてはいけない(でも単純な強さだけじゃない)
・今のご時世、演武もできなきゃはずかしいよね。
・選手を作るようなのはダメだっていう教えもあったよね。
・術科もできない指導者なんてダメだよね
・でも技術屋さんとか言われちゃだめだよね。
・乱捕り的な強さも必要。だって力のない正義って無力なんだもんね。
・リーダーシップを発揮し、行動力と正義感がなければならない
(既存の拳士が真にリーダーシップ・行動力・正義感を備えていたら本部をつぶしてるんじゃないか?っていう話はまた別の話)
・仏教伝来なんで、仏教系の知識もないといけない。
・少林寺拳法独自の教え(金剛禅)も理解しないと経ないよね
・作務とかもしないと
・礼儀作法も身についてないといけない。
・後輩には礼儀作法も学ばせないといけない。
・上下関係を学ばせるとかいいながらも、和気藹々と互いに尊重し合わないとね。
・技術も思想も少林寺拳法だけじゃだめだ。他武道とか他の思想も知ってなきゃ
・情熱を持って修行および指導にあたらないと!
・でも道場で熱を入れ過ぎると精神修行がなってない的なこと言われるよね。
あげればきりないですね。
他にも、「開祖がこういった」的な話もあるし、大学から見た道院は練習量しょぼすぎて動作がのろすぎてみるに堪えないとか、道院から見た大学は技術の基本もなってなくて単に大きく動いてるだけだ、みたいなお互いにお互いを見下し合ってる感もあるし。
僕の嫌いな「それは少林寺拳法ではない!」という意見は上記のような様々な観点(しかも一見相対する観点もあるなかで)一部を取ってきて、それを理由に人の行動にケチをつけることです。
要はキルケゴールと逆なことを言いますが、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」なのかなと。
僕自身はそれでいいけど、後輩指導に当たってはどうあるべきなんだろう。最近それが悩ましい。
少なくとも限られた時間の中で、上記の項目をすべて満足させるような、多くの物を、高い質でバランスよくするのはまず不可能だ。なので現実を見据えた取捨選択が必要になる(もちろん恒久的に何かを捨てるんじゃなくて、その場の指導に当たっては、だけど)。取捨選択のキーになるものは後輩の求めるもの、もしくはこちらの与えたいもの(少林寺拳法として目指すべき姿)だろう。
求めるものを明示してくれればそれにこたえるけど、そもそも何を求めるのかわからないし聞いても的を得ない(もっと聞きこめって話もありますが)
目指すべき姿はやはり複雑で「これです」と言えるものでもないし、「こういう練習をすればいいよね」っていう話でもない。
まぁ字面で何を言ってても見えてくる答えなんてないので、むしろ後輩と一緒になって悩むことこそが答えへの一番の近道なんでしょう。そんな気がします。
それにしても、ハードル高すぎ。そして一般的な道院のレベルがあれなので、その差によっていろいろ不満が出るんでしょう。わからなくもないけどむずかしすぎる。
駄文が長くなりました。失礼します。
久々の更新です。
千葉の道場に移り一年以上になりました。古巣に戻ってきたとは言え、この実質参加年数3年目の若輩者にいろいろ好き放題させていただいて本当にありがたくも恐縮する毎日です。
僕が何をできたわけでもないんですが、先日中学生2年生と話していたら、高校受験が始まっても、高校に行っても少林寺拳法は続けたいと言ってくれました。
人生は当然ながら有限です。そこにやらなきゃいけないことややりたいことを敷き詰めていって、無理になったら何かを諦めないといけない。諦めるのは基本、自分にとって重要でないものから切り捨てる。
その中にあって、やらなくてはいけない受験勉強が加熱してきても、それらや他のやりたいことと比較しても、遜色のないレベルで少林寺拳法のことを考えてくれてるのだと思うとやはり嬉しい。
この道場にいられる期間も限られている実情ではありますが、そのやる気に応えられるものを提供できる道場にするためにもっと頑張らねばと思いました。
千葉の道場に移り一年以上になりました。古巣に戻ってきたとは言え、この実質参加年数3年目の若輩者にいろいろ好き放題させていただいて本当にありがたくも恐縮する毎日です。
僕が何をできたわけでもないんですが、先日中学生2年生と話していたら、高校受験が始まっても、高校に行っても少林寺拳法は続けたいと言ってくれました。
人生は当然ながら有限です。そこにやらなきゃいけないことややりたいことを敷き詰めていって、無理になったら何かを諦めないといけない。諦めるのは基本、自分にとって重要でないものから切り捨てる。
その中にあって、やらなくてはいけない受験勉強が加熱してきても、それらや他のやりたいことと比較しても、遜色のないレベルで少林寺拳法のことを考えてくれてるのだと思うとやはり嬉しい。
この道場にいられる期間も限られている実情ではありますが、そのやる気に応えられるものを提供できる道場にするためにもっと頑張らねばと思いました。
たらればトークではありますが、最近ふと思うことがあります。
開祖が今の組織を見たらどう思うんかな―ってこと。
道院組織による金剛禅運動の拡充こそが、少林寺拳法もとい金剛禅にとってのあるべき姿である。拳技に偏った現状はあるべき姿とは程遠い。本部はようやくそのことに着手したか!偉いぞ!
となるのか
「気骨のある青少年の育成による国造り」こそが目的である。他の拳技や金剛禅というお題目自体ですらもそのための手段に過ぎず、目的のためには可変的にするべきである。現地で青少年の育成にあたっている道院長の補助をすることこそが本部の役目であり、この役目を全うするのが困難であるならば金剛禅の在り方すらも有機的に変えていかねばならない。本末転倒なことをするな!
となるのか。はたまた
本部・道院長どちらも金剛禅運動として適った主張をしていない。どちらも現状維持もしくは保身に傾倒していないか。真に青少年の育成を考えた場合、他にやることはいろいろあるだろう
という厳しいお言葉をいただくのか、もしくは
「真の金剛禅」などというものはあるようでない。一人一人が「こうすべきだ」と思う方法に、各々が最善を尽くすことこそがあるべき姿であり、その方向性が金剛禅の目的として一意に定まるものではない。各自善因善果悪因悪果の前提に立ち、自己の思う最善を尽くすべきである。いちいち「開祖がどう思うか」などと受身な考えをせず自分がいいと思ったことをやれ!
と、いろんな解釈ありますが、どうなんだろう。悩ましいです。
以前、少林寺拳法の別派活動について苦言を呈しましたが、考え方によってはそれこそが開祖の意志を継いだものであるという可能性すらあります。
既存の組織にしがみついて、(たとえば)形骸化していく金剛禅運動を黙ってみていくことこそが開祖に対する最大の反逆かもしれない。
開祖ご存命時にお会いしたこともないので、限られた文書での言葉しか聞いたこともない中で判断はなかなか困難というか不可能ですが、中々に悩ましいものです。晩年は今からでも組織を一から作り直す!みたいなことをおっしゃっていたようなので、ひょっとしたら僕が始めた時点で少林寺拳法がそのあるべき姿とはかけ離れたものだったかもしれないわけで(たぶんそうだし)。
いろいろと難しい。
開祖が今の組織を見たらどう思うんかな―ってこと。
道院組織による金剛禅運動の拡充こそが、少林寺拳法もとい金剛禅にとってのあるべき姿である。拳技に偏った現状はあるべき姿とは程遠い。本部はようやくそのことに着手したか!偉いぞ!
となるのか
「気骨のある青少年の育成による国造り」こそが目的である。他の拳技や金剛禅というお題目自体ですらもそのための手段に過ぎず、目的のためには可変的にするべきである。現地で青少年の育成にあたっている道院長の補助をすることこそが本部の役目であり、この役目を全うするのが困難であるならば金剛禅の在り方すらも有機的に変えていかねばならない。本末転倒なことをするな!
となるのか。はたまた
本部・道院長どちらも金剛禅運動として適った主張をしていない。どちらも現状維持もしくは保身に傾倒していないか。真に青少年の育成を考えた場合、他にやることはいろいろあるだろう
という厳しいお言葉をいただくのか、もしくは
「真の金剛禅」などというものはあるようでない。一人一人が「こうすべきだ」と思う方法に、各々が最善を尽くすことこそがあるべき姿であり、その方向性が金剛禅の目的として一意に定まるものではない。各自善因善果悪因悪果の前提に立ち、自己の思う最善を尽くすべきである。いちいち「開祖がどう思うか」などと受身な考えをせず自分がいいと思ったことをやれ!
と、いろんな解釈ありますが、どうなんだろう。悩ましいです。
以前、少林寺拳法の別派活動について苦言を呈しましたが、考え方によってはそれこそが開祖の意志を継いだものであるという可能性すらあります。
既存の組織にしがみついて、(たとえば)形骸化していく金剛禅運動を黙ってみていくことこそが開祖に対する最大の反逆かもしれない。
開祖ご存命時にお会いしたこともないので、限られた文書での言葉しか聞いたこともない中で判断はなかなか困難というか不可能ですが、中々に悩ましいものです。晩年は今からでも組織を一から作り直す!みたいなことをおっしゃっていたようなので、ひょっとしたら僕が始めた時点で少林寺拳法がそのあるべき姿とはかけ離れたものだったかもしれないわけで(たぶんそうだし)。
いろいろと難しい。
こんにちは。
学生拳士はあまり知らない話かもしれませんが、世の一般道院では組織再編の話が盛り上がって(盛り下がって)いますね。
なにやら総裁自体が「条件を満たさない道院は辞めてしまっても構わない」というトーンで活動してるとか。人から聞いた話でしかないのであれですが。
実際、道院組織の大多数は、このままでは道院継続が難しいということで阿鼻叫喚のようです。
ちらほらと「もうたたむか。。。」という声も聴きました。
さて、条件というのは(あまり詳しくは言えないのでぼかしますが)言ってしまえば宗教法人としての道院活動を、誰から見ても文句なく行えること、と言う感じです。誰からの文句を意識してるのかはわかりませんが。いや、わかるけど。
本部の判断としては、宗教法人であることと、各々個別の状況を鑑みた上での金剛禅活動とを秤にかけた結果、宗教法人であることを優先したように見えます。しかもそれを「道院(宗教法人)へのこだわりは、開祖のこだわり」だと言っている。
僕(やおそらく多くの拳士)の頭の上にたくさんの?マークがならぶこの言いぐさですが、卍→双円の時と同様に上意下達的に伝えられ、それに従わなければならないというのが今の状況です。
道院組織にそんなにこだわってたのかなぁ。金剛禅活動を形式化するって逆に最も嫌ってたんじゃないかなぁ。宗教法人格を捨てて税金払えば全部済むんじゃないかなぁ。
「従えないなら辞めろ」と「こういう理由で信徒香資をもう少し多くしてもらいます」どっちが一般拳士の了解を得られ、かつまっとうな道なのか、僕にはもうよくわかりません。
※この日記、すぐ消すかもわかりません。
学生拳士はあまり知らない話かもしれませんが、世の一般道院では組織再編の話が盛り上がって(盛り下がって)いますね。
なにやら総裁自体が「条件を満たさない道院は辞めてしまっても構わない」というトーンで活動してるとか。人から聞いた話でしかないのであれですが。
実際、道院組織の大多数は、このままでは道院継続が難しいということで阿鼻叫喚のようです。
ちらほらと「もうたたむか。。。」という声も聴きました。
さて、条件というのは(あまり詳しくは言えないのでぼかしますが)言ってしまえば宗教法人としての道院活動を、誰から見ても文句なく行えること、と言う感じです。誰からの文句を意識してるのかはわかりませんが。いや、わかるけど。
本部の判断としては、宗教法人であることと、各々個別の状況を鑑みた上での金剛禅活動とを秤にかけた結果、宗教法人であることを優先したように見えます。しかもそれを「道院(宗教法人)へのこだわりは、開祖のこだわり」だと言っている。
僕(やおそらく多くの拳士)の頭の上にたくさんの?マークがならぶこの言いぐさですが、卍→双円の時と同様に上意下達的に伝えられ、それに従わなければならないというのが今の状況です。
道院組織にそんなにこだわってたのかなぁ。金剛禅活動を形式化するって逆に最も嫌ってたんじゃないかなぁ。宗教法人格を捨てて税金払えば全部済むんじゃないかなぁ。
「従えないなら辞めろ」と「こういう理由で信徒香資をもう少し多くしてもらいます」どっちが一般拳士の了解を得られ、かつまっとうな道なのか、僕にはもうよくわかりません。
※この日記、すぐ消すかもわかりません。
久しぶりの更新です。
防技について、一般的にまずは足さばきをし、次に体捌き、そして最後に手捌きとよく言われます。
基本中の基本であり、誰もが意識していると思います。僕も意識してきました。
しかしというかなんというか、僕個人の練習方法があまかったのか、どうやら意識的には
やはり手捌きに重きを置きすぎているようだということを最近実感しました。
というより、「まず足捌き~」の重要性をより深く認識したと言った方が正しいでしょうか。
今回はその点を、備忘として載せておきます。
①体捌きを事前に行っていたとしても、相手の攻撃のタイミングに全く合わせて手を出すと
よろしくない。
⇒手が動き出した後は、(なぜか)体が硬くなり、その後の思うような動きができない。
⇒例えば、受けてそのまま相手との間合いを詰める、ということがしづらい。
できたとしても、必要以上に相手の手をはねのける必要がある。
⇒そもそも相手が「受けられる」と思い攻撃しきらない。
②むしろ「手を使わない」という心持で、相手の攻撃を足さばき・体捌きのみで受ける気持ちで
対応し、手は添えるだけが好ましい(ようだ)
⇒相手が攻撃を最後までやりきれる(突き蹴りを誘い込む)
⇒そのためには、足さばきで逃げてはいけない。間合が切れるほどの足さばきはただの逃げ。
⇒以前練習していた、相手の攻撃を引き出す、という方法がうまく調和がとれそう。
⇒的を絞らせて、相手の攻撃を打たせ(ここまで手は出しちゃダメ)それをなお体捌きで
外し、そこから”保険として”手で空いての攻撃を押えるイメージ。
この方法だと、相手の攻撃を受けた際の自分の体の硬直がなくなり、反撃に転ずる速さが向上し
かつ、お互いがお互いの攻撃間合で居つくということが減ってきました。
今後しばらくこの点を今後深堀して練習してみようと思います。
防技について、一般的にまずは足さばきをし、次に体捌き、そして最後に手捌きとよく言われます。
基本中の基本であり、誰もが意識していると思います。僕も意識してきました。
しかしというかなんというか、僕個人の練習方法があまかったのか、どうやら意識的には
やはり手捌きに重きを置きすぎているようだということを最近実感しました。
というより、「まず足捌き~」の重要性をより深く認識したと言った方が正しいでしょうか。
今回はその点を、備忘として載せておきます。
①体捌きを事前に行っていたとしても、相手の攻撃のタイミングに全く合わせて手を出すと
よろしくない。
⇒手が動き出した後は、(なぜか)体が硬くなり、その後の思うような動きができない。
⇒例えば、受けてそのまま相手との間合いを詰める、ということがしづらい。
できたとしても、必要以上に相手の手をはねのける必要がある。
⇒そもそも相手が「受けられる」と思い攻撃しきらない。
②むしろ「手を使わない」という心持で、相手の攻撃を足さばき・体捌きのみで受ける気持ちで
対応し、手は添えるだけが好ましい(ようだ)
⇒相手が攻撃を最後までやりきれる(突き蹴りを誘い込む)
⇒そのためには、足さばきで逃げてはいけない。間合が切れるほどの足さばきはただの逃げ。
⇒以前練習していた、相手の攻撃を引き出す、という方法がうまく調和がとれそう。
⇒的を絞らせて、相手の攻撃を打たせ(ここまで手は出しちゃダメ)それをなお体捌きで
外し、そこから”保険として”手で空いての攻撃を押えるイメージ。
この方法だと、相手の攻撃を受けた際の自分の体の硬直がなくなり、反撃に転ずる速さが向上し
かつ、お互いがお互いの攻撃間合で居つくということが減ってきました。
今後しばらくこの点を今後深堀して練習してみようと思います。
いつのころからでしょうか。ブログにカウンターを設置して、基本放置していたんですが、見てみたら1000アクセスを超えていました。
知らない人が間違えて訪れたのかな、とか、読んでくれてる人がいるのかなとかそんなこんなを思いつつ本日に至ります。
本日は近隣の数支部合同の練習会がありました。初段の部を受け持ち、定番な感じのコの字系(逆小手・押小手)を中心に技を語らってきました。
やはりというかなんというか、みんなが一様にぶつかる壁があるようで。。。
①きめが甘くて腕が伸びる
②体捌きが早すぎて腕が伸びる(①とほぼ同じ?)
③手首ばかりを攻めてひじや肩が連動していない。
④手首ばかりを見て体を見ていない(③とほぼ同じ?)
とても雑に言うとこの点だけ口酸っぱく言ってれば初段の部の指導はだれにでも勤まるのではなかろうかと思うほど、同じところで詰まりますね。逆にやりやすくてありがたい面はありますが。
「教育システム」を「教え」「技法」とならんで三本柱の一つにしている少林寺拳法。
これだけ「ぶつかりうる壁」が明確であるのであれば、組織全体として指導方法等を確立してもいいんじゃないのかなぁと思ったり、思わなかったり。
個人的には自由にやりたい気持ちの方が強いので本部からなにか言われない今の状況でOKです。
知らない人が間違えて訪れたのかな、とか、読んでくれてる人がいるのかなとかそんなこんなを思いつつ本日に至ります。
本日は近隣の数支部合同の練習会がありました。初段の部を受け持ち、定番な感じのコの字系(逆小手・押小手)を中心に技を語らってきました。
やはりというかなんというか、みんなが一様にぶつかる壁があるようで。。。
①きめが甘くて腕が伸びる
②体捌きが早すぎて腕が伸びる(①とほぼ同じ?)
③手首ばかりを攻めてひじや肩が連動していない。
④手首ばかりを見て体を見ていない(③とほぼ同じ?)
とても雑に言うとこの点だけ口酸っぱく言ってれば初段の部の指導はだれにでも勤まるのではなかろうかと思うほど、同じところで詰まりますね。逆にやりやすくてありがたい面はありますが。
「教育システム」を「教え」「技法」とならんで三本柱の一つにしている少林寺拳法。
これだけ「ぶつかりうる壁」が明確であるのであれば、組織全体として指導方法等を確立してもいいんじゃないのかなぁと思ったり、思わなかったり。
個人的には自由にやりたい気持ちの方が強いので本部からなにか言われない今の状況でOKです。
こんばんは。
先日道場で先生がこうおっしゃっていました。
切小手で右手(手刀で切るように掛ける手)だけしか使ってない人の技は見ててわかる。
いわく、相手が前のめりにならず、顔がこちらを無体状態で倒れるらしいです。
しっかり左手を使えていれば、頭が下がり、前のめりになると。
ここ最近ずっと切小手は片手でかけていたので、あまり左手の操作を気にしてなかった
のですが、(頭も下がっていたような気がしてたんですが)、そういう見方もあるんだなぁ
と感服した次第です。
そして、いざ先生の切小手をみると、いろいろと美しい。理屈はどうあれ「すげー!」と
思える何かがある。
いろいろと学ぶところは尽きないものです。。。
先日道場で先生がこうおっしゃっていました。
切小手で右手(手刀で切るように掛ける手)だけしか使ってない人の技は見ててわかる。
いわく、相手が前のめりにならず、顔がこちらを無体状態で倒れるらしいです。
しっかり左手を使えていれば、頭が下がり、前のめりになると。
ここ最近ずっと切小手は片手でかけていたので、あまり左手の操作を気にしてなかった
のですが、(頭も下がっていたような気がしてたんですが)、そういう見方もあるんだなぁ
と感服した次第です。
そして、いざ先生の切小手をみると、いろいろと美しい。理屈はどうあれ「すげー!」と
思える何かがある。
いろいろと学ぶところは尽きないものです。。。
