金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -4ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

新年2発目です。

 
軽いテイストで行きたいと思います。
 
上受投、かなりメジャーな技ですが、少林寺拳士たるもの一度は疑問に思ったことがあるはずです。
 
「裏拳打込なんてやって来る奴いるのか?」
 
小手抜のあとの裏拳のように、肘がすでに前に出ている状態から、ほぼ水平軌道での裏拳はまだわかります。肘が前に出てるからね。そこからやろうと思うとそれぐらいやね。
 
しかしこの裏拳打込は、やや振りかぶり、そこから脇を締めて、せっかく振りかぶった拳を引き絞ってのほぼ直線軌道で裏拳で打ち込みます。なんだこれ。
 
そもそも振りかぶる?(振りかぶらずに脇を締めて打つと僕は習ったものの参考画像によるとめっさ振りかぶってます。)テレフォンパンチになってしまう。
 
のに、今度は引き絞っての直線軌道で打つと。謎です。なぜ最初から直突しないのか。どんなシチュエーションで使うのか。これでないといけない理由があるのか。過去武専も含めていろんな先生に聞いたけど、確たる答えに至ったことはありません(笑)
 
さらにこの攻撃の上に成り立つ上受投。マイナーオブマイナーな位置付けになって然るべきかと思いきや、小手投と並び演武で用いる投げの代表格というのは面白い話ですね。
 
 
いつの日か、路上でのリアルな戦いをしないといけないシチュエーションで「こちらの攻撃は蹴りも直突も振突も全て封じられている。・・・せや!裏拳打込や!これしかない!!」と思い裏拳打込を行なった結果、相手に華麗に上受投を掛けられる。そんな日が来ることを陰ながら期待しています。
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あけましておめでとうございます。

 

酉年ということで、鳥のように飛躍するそんな一年にしたいと思っています。

酉年モチーフの鶏は飛べないじゃんかとかそういう話はおいておいて。

 

さて、新年最初の話題としては、反射神経の活用・運動神経の逆用というマニアな線で攻めたいと思います。これは、教範の中で言うと「少林寺拳法に用いる理法について」において、1.経脈の理、2.鈎手の理、3.梃子の理、4.車の理、5.はずみの理とならび、”6.その他”において記載されているものです。

 

上記1.~5.の理法はどういうときに用いられているか比較的わかりやすいものと思いますが、6.はさすがに「その他」と言われるだけあってどこでどういう風に使われているかわかりにくいかと思います。でもしっかり使われていますのでその点について触れていきます。

 

よく技術の中で「屈筋・伸筋が・・・」と説明することがありますが、これは大概運動神経の逆用を説明しようとしているものです。受けの際手を開くのは内腕刀を張るためという理由のほか、伸筋を利用して速く動くためという意味もあります。打上受については握拳で行いますが同時に手首をやや殺す形で指導を受けていると思います。これは逆に屈筋を利用しています。内腕刀よりも速さにより重点を置いたものと理解しています。

 

他にも、例えば柔法で手首を掴まれた際に鈎手により五指を張ります。龍王拳を行う際、基本的には手を張ったまま抜くわけですが、道院(先生)によっては「一瞬手の力を抜け」等の指導をされる場合があります。

 

これは、鈎手で五指を張ることによって「手首周りが筋肉の隆起によって太くなり(やや)掴みにくくなる」ということと合わせ、その状態から力を緩めることにより、手首を一瞬細くし(元に戻し)、反射的に攻者に掴み直させる、その掴み直す動作が屈筋の動きを伴うものですから、相手の手首を殺すのに役立つ。そういうことを狙った方法論です。

 

掴んでいたものが瞬時に細くなることによって握りなおすという反射神経の活用と、掴むという動作に伴い屈筋が使用されるため、そこに乗じて手首を殺しやすくなるという運動神経の逆用、細かすぎるのでそこまで説明されていなくても、そういう理論的裏づけに支えられて少林寺拳法の技術は成り立っていると考えると、なかなか奥深く楽しいものがありますね。

 

そんなこんなで2017年も少林寺拳法を楽しんでいければいいなと思います。ブログも更新は少ないと思いますが、皆様どうぞよろしくお願いします。

 

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本年3度目の投稿です。最後の追い込みです。

 
先日他の道院の方と一緒に練習する機会があり、そこでの気づきです。
 
人情と言いますか、自分が相手に技をかけようとして相手の例えば手を掴む時、相手の意に反してこちらの思うように動かそうとする意識があるわけですから、つい“わしっ”と掴んでしまいます。
 
経験から思うに、わしっと掴んだ時点でその技は死んでいます。
 
わしっと掴むと相手も掴まれた手を意識するため力と力のぶつかり合いになるから?
 
それもあるとは思うんですが、私の感覚としては少し違くて、自分の力の向かう方向がわからなくなる・力が伝わらなくなるという要素が大きい気がしています。うまく表現できてませんが。
 
力のぶつかり合いと言うなら、力が十分強ければ掴み方は無関係かと言うと、そんなことも無さそうですし。
 
わしっと掴んだ場合「そもそも初動が遅れる」「力の方向が分散する」などの不都合があります。掴んだその瞬間は一瞬動きが止まりますし、自分の力を母指と四指とでぶつけることで少なくとも1つの方向への力ではなくなっているわけですから。
 
親指ないし中指・薬指で引っ掛けて掌全体で覆うようにして操作する。引っ掛けてる指と反対の指は掴むために迎えに来るのではなく、むしろ掌が張るように伸ばす。これが要諦かと思い至るようになりました。
 
コントロールしたい対象をマクロな視点でコントロールするためには、わしっと掴んで相手の思うように動かせないようミクロなコントロールをするよりは、相手の動きを“制限”し、力の流れを与えてあげて誘導だけしてあげることが必要だと思っています。
 
上手い例えかわかりませんが、小銭入れに複数枚の小銭を入れる際、一枚一枚小銭をしっかりつまんで入れる人はいません。手の中でシャッシャッと軽く振り、なんとなくこなれた感じにしてから流し込む、そんなアバウトなコントロールをすると思うんです。無意識に。
 
柔法も同様に、今その瞬間を完全制御するんでなく、大括りな制限と流れを作ってあげて、物理法則に従い相手が心地いいとすら思える方向に逃げてもらった結果、相手が制されている状況に追い込む(最終的には痛みが不可避なところに追い込む)。
 
理想はもう少し高いですが、私の今程度の力量・理解度ではこのような技の状況になっています。
 
 
2017年はもう少し上手くなれるよう、練習時間を増やしたいなと思います。
 
 
末筆になり失礼いたしますが、皆様、良いお年を。
 
 
 

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新年もすぐそこに迫った年の瀬ですが、なんと今年まだ2度目の更新です。

 

私はこのブログを「過去にこんなことを考えていた」ということを思い出すための備忘録的に使っているんですが、今回は少々反省を。

 

先日練習会を卍関係の友人達およびその教え子達を呼んで開催したんですが、当初想定していたよりも参加者の武階が低く、ほとんど級拳士という状況でした。

 

そもそも武階に見合ってない術科等は当日見直して、技自体はほぼみんなが知っている技という形にしました。

 

ところがどうも私の悪い癖で「どうせ教えるなら普段とは違うことを教えたい」という気持ちが強くありまして、マニアな技の掛け方とか、そういったことを教えないといけないと思ってしまい、マニアなマニアな話ばかりしてしまい、大きくは「新しいことを聞けて楽しかった」という意見をいただきつつも、やはり「ちょっと言ってる内容が理解しきれなかった。難しかった」みたいなご意見もいただきました。

 

友人が主座を務めた技に関しては、非常にわかりやすく楽しかったとのご意見。

正直なことを言いますと、その友人が教えてる時間には、心の片隅で「せっかく遠方から時間を割いて集まってくれたのにそんな当然なことに時間を割かないでも。。。」とか思っている自分さえ居ました。

 

 

これはあれです。受け手の気持ちを考えず、自分の言いたい事をただ言っている状態に陥っております。指導する側としては非常に危惧すべき状況と認識しました。

 

来年からは、もう少し自分の気持ちを抑え、受け取り手に優しい指導を心がけたいと思う所存です。難しい気もしますが。。。

 

ではみなさま良いお年を。

 

 

 

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お久しぶりです。


最近総合格闘家とも接点が多く、その中で思うところがいろいろとあります。。

少林寺拳法の柔法について、その不完全さについてです。


柔法自体は理論的によく構築されていて、すばらしいものだとは思いますし、相手を”制する”ことを旨として行っており、制することができていればその価値は高いと言うことはよくわかっています。

しかしながら、戦後間もない時代とは異なり、柔術や総合と言った寝技も充実した今、相手を倒して即固めるなどと言うことが、想定しているように行える状態なのかと言うと、今のとてもシンプルかつきれいすぎる柔法ではかなり厳しいのではないかという疑念がどうしても禁じえない。

寝技自体は「対複数に対応できない」という理由から、少林寺拳法の掲げる護身の観点からも好ましくない点があるのは重々承知しています。

とはいえ、寝技を知らない人間が、寝技を熟知した人間に対して逆小手等々で仮にうまく倒せたとしても、逆小手→裏返投→裏固と、少林寺拳法の想定する綺麗な流れに従って、シナリオどおりに事を進められるのかどうか、心から疑問です。てか無理でしょう。

むしろ「寝技にまぐれなし」という格言もあるように、なまじ寝技の領域に持ち込むことで、自分の不利な世界に持っていってしまうだけなのではないか。であれば(対処すべき脅威として想定するものが比較的素人的だった少林寺拳法創立時とは異なり)現状の柔法では現実的な脅威に対応できないばかりか、場合によっては自分の首を絞めるだけの結果になるのではないか。とか思ってしまいます。

寝技等の研究も今後必要になるとは思いますが、少なくとも現在の技術体系のままで行こうと思うのであれば、龍華拳→金剛拳への流れは、逃げようのない、もっとえぐい物に昇華しないといけない。

その一方で、演武とか術科とかでも、どうにも投げられたらあとはお決まりの手続きで固められてお腹蹴らせて立ち上がって残心。はい良くできました。的な流れがあまりにも多いのではないかと、危惧を覚えることが少なくないです。

今後こういう観点から、色々と研究してみようかと思います。


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こんにちは。こんばんわ。

正確なことはよくわからないんですが、少林寺拳法世界連合(WSKO)において、水野先生をはじめとしたイギリスだったかフランスだったかの代表をやられていた方が、少林寺拳法を破門?され、イギリスだかフランスだかが丸ごとごっそり脱退した?するという話になって引き止めた?だか、そんな話が数年前にありました。


だいたいこういう大型破門があった場合って、その後の別派活動問題が発生して、訴訟問題になるというのがお決まりです。

これもきっとそんなんになるんだろうなぁと思ってたんですが、どうやらセカンドステージである別派活動までは進んでしまったようです。

その名も「日本護身拳法」!



ロゴもどことなく見たことがあるようなないような、てか卍リスペクトですよねこれ。


まぁ僕自身『開祖の意志を継ぐ』であるとか『金剛禅運動を推進する』ことを本気で考えた場合に、この組織にとどまることが最適解なのかはよくわからん部分ではあるのは、以前の記事に書いたとおりです。

別派に行ったからあいつはダメだとか、あれは敵だとか思うのではなく、その人の思う最適な道がそちらにあったと、そう判断したと思うべきなんでしょう。

あとはまぁ、少林寺拳法という旧所属組織に対する節度の問題かとは思いますが。


どうなるんでしょうね。
ご無沙汰しております。


先日武道、というよりは整体関係の書物を読んでいて、ほほうと思う記載があったので備忘としてこちらに残したいと思います。


静止状態とは『静止している状態を保つための平衡運動が生じている』ということです。

一見して、そりゃそうだ、と言う気持ちとだから何?っていう気持ちが湧いてくる言葉でもありますが、少し考えるとなかなかに面白い。


立位で制止している人は重力という力に対して拮抗するように力を加え立位を保っている。

技をかけられているのに動かない人も同様です。


ただ、通常の運動状態にある人の動きは外部からでもわかりやすく、それゆえに対処しやすいのですが、平衡状態となるとどのような力と力がぶつかり合っているのかわかりづらい。

なので、動きの中で技をかけるより、安定した状態の相手に技をかけるほうが難しい、というよく言われる話に通じてくるのかと。


僕の中の結論としては、静止状態を「ただ止まっている」と捉えるのではなく「平衡運動というダイナミックな動きが相手の中に生じている状態」と捉えることで、その状態に応じた掛け方を模索・検討すれば、技がよりよくなるのではないか。そういう気づきでした。
先日の道場で、先生から表題の話を伺いました。


ひとまず流水蹴りのおさらいです。↓↓↓

流水蹴りとは、相手がこちらの上段を突いてきた際に(別に突きでなくてもいいのでしょうが)転身を伴わず、振身・反身・屈身をなめらかに行う流水受により捌き、流水受の結果軸足に重心が移動しているため、これを利用し蹴り足で蹴る、とまぁそんな感じで僕は習いました。


また、流水蹴りに関わらず、反撃のタイミングに応じて、後の先・対の先・先の先とあり、また相手の攻撃に対するこちらの捌く方向に応じ左右表裏4法がございます、といったところでしょうか。

あ、流水受の際に仁王受をつける/つけない論争もありますね。

余談ですが、中野先生/三崎先生系統の支部で教えてる方法はつけてました。
関西(梶原先生系統)ではつけてなかったかな。いろいろあるんですね。


さて、「転身を伴わず」とさらっと書きましたが、転身を伴った場合は転身蹴となり、科目表上異なる技に分類されます。昇級試験等では要注意事項です。


『流水蹴りはその場で、足捌きを行わず体捌きのみで捌く』これが今までの方法でした。

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さて、変わったというのは、この足捌きを行わないという制限。これが緩和されたとか。


従来の方法は足捌きがないため、最初の構えの足幅によっては窮屈さがあり、蹴りづらいなどの話があったようで、「転身はダメだが、踏込足だけならOK!」という風に緩和されたということでした。

要は、足を一歩踏み込む分にはセーフで、踏み込んだ際後ろ足を寄せ足すると転身になり、転身蹴りとみなされる、、、ということらしいです。


ぶっちゃけ、そんな技の細かい分類なんて僕自身どうでもいいんですが、教える際にはなかなか苦労しそうなところです。


というのも、以下のような点が悩ましいかなと思っています。
 ①従来でもだいぶ曖昧だった流水蹴と転身蹴の違いがよりグレーなものになった。
 ②蹴りは正中線に足を抱え込むようにしてから蹴る、という初心者に教えることを
  忠実に行わせると、より見分けが困難。かといって振り蹴りのような蹴りを科目として推奨するのもいまいち


そもそも構えが昔の「腰を落として足幅広く」から、腰が高く足幅の狭い『リラックスしてたっている形』に移行している向きを感じますので、その中で流水蹴りの行いやすさが変わってきたために技の見直しを行ったと考えると、見直すこと自体は合点はいくのですが、それにしても教えづらい(笑)


いっそのこと流水蹴と転身蹴を一つの技にしてしまえ!とまで過激なことは思わないのですが(両者とも3段ぐらいになって見直すとかなり奥深いテーマがありますし)、どうせなら流水蹴は今まで通りで、せめて「足を動かさない技」という指導を改め「足捌きよりも体捌きを重視した技」といういい方に統一しようねーぐらいのお達しで良かったのではと思います。


ま、技って色々あるよね。
雑感です。
ふと大学支部を見てた時に思ったんですが、大学支部に求められる最終的なゴールやそれに基づく練習ってどんなもんなんでしょうか。

例えば、個人であればそれこそ十人十色の目的があり(金剛禅である以上、一定の共通点は求められるものの)、各々の目的に敵う練習をするという話で済むと思っていて、また(構成員が大きく変化しない)道院組織においては、その構成員の個々の成長が組織の成長に直結するんではないかと思います。かなりざっくり言ってますが。


では、大学とか在籍期限があり人員が入れ替わり立ち替わりする組織ではどうなんでしょうか。一回生は概ねこのレベル、二回生は、三回生はそれぞれこんな感じ。で、うちの部を卒部する時には、まともにやってれば大体こんなもんだよね?って感じでしょうか。


今まで僕はこんなイメージを持ってたんですが、そうすると大学間でのレベル差は埋まらないことになるし、となると『伸びしろがあるのにそれを放置してる』という状態と何が違うのだ、という気持ちになってくる。

たまにセンスのあるやつ、上手い経験者が入ってきてはその影響で盛り上がり、そうでない時には得てして衰退して行く、その繰り返しではつまらないですよね。

もちろんこれは組織を長い間見てるが故の意見であって、今構成員として頑張ってる人らと違った意見なのかとは思いますが。

難しいものです。