人にある出来事を伝える時、我々は最適であろうと思われる言葉を選び、そして伝えます。それで、相手が頷いたり、理解を示したのならば、その時点で相手にうまく伝わったのだな、と概ねの領域で判断します。ここで、敢えて概ねという曖昧な表現にした理由ですが、それは相手が頷いたり、理解を示したという意思表示をしたとしても、”雰囲気として了解しかねる”、という気配を醸し出している場合が多々あるからです。この顕著な反応、つまり了解しかねる、ということから、「いかに人に物事を言葉を使って伝えることは難しいものか」が垣間見れるのですが、得てして人というのは鈍感な動物であったり、独りよがりな動物であったりするので、「伝わっているに違いない」、「たぶん伝わったでしょう」で、その場を処理してしまいがちです。


「男というものは、浮気をしてしまうものだが、浮気をしていいわけではない」


上記を背景等が全く設定されていない中で、人に伝えたとします。その場合、受け手の人はどう解釈するのかというと、「男の言い訳」、「倫理的な解釈」、「男を説教する時に使うセリフ」、「女性の嘆き」、「女性からの警告文」等々、様々な捉え方をするものです。このセリフを伝えた当の本人にすれば、ある意図一つをもって伝えたにもかかわらず、相手の立場、相手の性、相手の思想、等々の様々な要因によって、如何様にも変じてしまい、誤解釈されてしまう場合もあるのですから、ある意味怖ろしいことと言えます。ですから、自分の思い込みによって、自分が意図することが正確に、間違いなく相手に伝わる、伝わるに違いない、伝わって当然だ、という考えは、非常に危ない思想であり、その思想を省みない人生は波乱含みであると言えるかもしれません。


人生を渡り歩くためには、どうしても人との関わりは避けて通れず、しかもその中で、人に伝えなければならない事も多く発生してきます。自分は、ちゃんと人に伝えているとの思い込み、勘違いは、時として大問題を引き起こしたり、トラブルの要因になったりするので、見過ごすわけにはいかない問題と言えます。だからと言って、人に伝えないということを選択するのがいいか、と言えば、当然そうではなく、伝えるべきことは伝えなくてはなりません。ここが、非常に難しいところであり、人間として悩ましい問題なのです。


では、こういった悩ましい問題である、人に伝えること、に対してどう対処していけばいいのでしょうか?


まず、心得として、自分が思ったこと、感じたこと、伝えたい意志というものは相手に正確には伝わらないものだ、という認識を持つことが重要なことです。最初から、うまく伝わらないものだ、と捉えていれば、人は、一つ伝える時に、様々な言葉や、様々なジェスチャーを使うなど様々な工夫をし、努力をしようとするものです。譬えるならば、ボキャブラリーの乏しい子供に、身振り手振りや表情等で、一生懸命伝えようとするお母さんのように、と言えます。大人なのだから、これ位の物言いで伝わるはずだ、というのは、あくまで自分の勝手な解釈であり、自己中心的と言わざるを得ないかもしれません。


相手に正確には伝わらないもの、と述べましたが、なぜそういうことが起きるのでしょうか?


まず、人は思ったこと、感じたことを伝える時、その思いを言葉に変換しようと、自分のボキャブラリーの中から探し出そうとします。そして、これだ、と思う言葉を使って伝えますが、時には適当な言葉が見つからない場合もあります。そんな時はどうするのか、というと、その思いに近い言葉を使うとか、修飾語を多用してみるとか、例え話にするとか、雰囲気で伝えるとか、をすると思います。ここで言えることは、自分の思いというものが、必ずしも言葉に合致するわけではない、もっと言ってしまえば、言葉に変換できるない場合が大半である、ということなのです。ですが、言葉に変換できないということを全面的に肯定してしまうと、社会生活上、支障がでてくるのも事実ですから、人は、曖昧な表現でも良し、とし、その表現を持って人に伝えているのです。その曖昧表現に慣らされてくると、「あの人は、私がちゃんと伝えたことをなんで理解してくれないのだ!」と、相手に対して攻撃的になり相手を責めますが、実は、自分が自分の思いを正確に伝えてないことがそもそもの原因なのです。


思いを表現するのも、自然を表現するのも難しい。空の色を言葉で表現するとどうなるでしょうか?空は青い、で終わってしまう人もあれば、空は蒼白色にて時々刻々変わるもの、と詩人っぽく表現する人もいるでしょう。突き詰めて言ってしまえば、空の色を言葉で表現することは不可能であると言えます。しかし、人間のエゴイズムによって、空はこういうものだ、と様々な形で表現され、その刷り込みによって、あたかも空の色を知っているかのように過信してしまうのがこの世の中です。


人に伝えることは難しい、このことをまず認識することが大切であると考えます。自分の思いを、知っている限りのボキャブラリーの中から探し、その最適と思われた言葉で相手に理解しやすいように伝える、そして、相手の表情や雰囲気によっては、補助的に言葉を足してフォローする、こういった努力は最低限必要なことだと思います。しかし、これだけの努力をしても、伝えるということは、必ず相手のいる話であり、相手の受け止め方次第であるので、必ず伝わったとの過信には注意したいものです。


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人は自信があるか否かで一喜一憂いたします。物事を実行する時などに、今までの経験・実績・練習による確信が仮にあったとしても、ふっと不安になり、恐怖世界に飲み込まれ自信を喪失するならば、尻込みをしてしまうことすらあるのです。こういったことは、幼い時分に数限りなく経験しているもので、「どんな時にも揺るぎない自信をつけたいものだ」、と、心秘かに誓ってきたものです。ところが、世間一般で言われている自信というものは、浮き沈みが激しく、自信がついたな、と思うや否や、また自信喪失という不安な気持ちに苛まれたりして、心落ち着かないものです。


我々が普段使っている自信というものは、本当に自信なのでしょうか?


車の運転を通して考えてみたいと思います。車の運転とは、教習所とかに通って練習し、試験を受け、晴れて路上デビューとなりますが、最初は、土地勘に慣れるまで、その車の癖に慣れるまで、少々戸惑ったりします。そして、日々車を乗り回すことによって、運転技術もそれなりに良くなり、自分では結構うまい方ではないか、と思ってきたりします。


「自分はそこそこに乗りこなせるし、結構運転がうまいんじゃないのか。」


こう思い始める時が非常に危険な時です。本人にしてみれば、免許を取り、ある程度慣れてきた中で、自分に対する運転に関する自信が少しながらも芽生え始めてきた時であり、緊張感が欠落しやすい時期なのです。こういう時に、仮に事故を起こしてしまうと、「運転には自信があったのに、こんなことになるなんて!」という反省にもならない弁を心の中で呟いてしまうものです。


では、ここで、心の中で思わず呟いてしまった自信というものは、本当の自信と言っていいのでしょうか?


この例は極めて単純でありますから、この自信というものが過信であるということは、誰でも理解できるかと思います。過信とは、”自分の力量を必要以上に高く見立て信頼し切ってしまうこと”ですが、この過信という罠に陥る人間は世間に多くいます。過信というものは、なぜ起きてしまうかというと、それは、自分に対して、自惚れや奢りや傲慢さを持ってしまうからであり、謙虚な気持ち・姿勢にあれば、容易に発生したりしません。また、一見おとなしそうな、従順そうな人であっても、ひとたびその心の奥底を訪ねてみると、とんでもない過信な心に支配されている場合があったりするので、一概に外見だけでは過信の有無を判断することはできません。


ここで、世の人々の過信・自信に関して結論的に突き詰めて、そして断定調に述べてしまえば、この世の中に存在している人間の大半が、自信ではなく、過信しか持っていない、ということです。生まれてこの方、自信と思って持ってきたものは、実は過信であり、自信とは似ても非なり、ということです。過信を以て自信と思い込んで生きているので、人との衝突も当然のごとく頻発し、苦しみの状態に陥りますが、このことが自信ではなく過信を持っている一つの証拠と言っていいかも知れません。


人は、過信を芽生えさせ、過信を育みながら生きていき、過信にしがみついて死んでいきます。これは、非常に愚かな生き方であり、非常に残念な生き方です。過信というのは、性質上、どうしても人との争いを起こしてしまう種であり、その種がある以上、人生は苦しみに満ち満ちてしまいます。それでは、この過信というものをいかにして排除すればいいのでしょうか?


①自分に降り懸かる災難の責任は自分であると受け入れること

②自分の行動、言動等は正しい、のではなく、正しくない、ということを受け入れること


上記2点を腹底から、「あ~、そうだなぁ!!」と納得し、理解し、受け入れることが必要です。この2つの事項が体感という形で体得した時になって初めて、過信という”まやかし”の魔物が破壊され、崩壊していきます。今まで、「過信」というものが、自分の心のメインに存在していたものが、崩壊することにより、「自信」がメインの席に代わりに鎮座することになり、「過信」はサブの席に移動ということになります。


上述で、過信を排除と述べましたが、過信を完璧に排除するというのは難しいので、一旦破壊する、そしてメインの席には座らせない、というように理解して頂ければいいと思います。また、過信というものは、強大な力を持ち、しつこく付きまとってくるものなので、気は緩められないですし、油断してはならない相手なのです。


人というのは、まず、「①を伴わない過信」に始まり、次に、「①を伴う過信」に移行します。そして、②を体得して、”過信の元凶が分かった”という驚きの元に、「過信」から「自信」に正式に移行されます。言葉面だけ見ると、「な~に、わけないことではないか!」と、嘯(うそぶ)きたくなりますが、ところがどっこい、このプロセスは、困難極まりない過程と言える代物なのです。頭の中で、シミュレーションしてみても、①も②も両方共に体験することが絶対不可欠なことなので、容易に自信を獲得することは困難であります。また、①、②の前提条件として、「自分を知る」ということがある程度なされていないと、①、②の理解に至るという事もあり得ませんので、合計3ポイントを注意して日々生活の中で実行することが求められます。


最後に、自信とは何か、について述べたいと思います。自信とは、自分に対して信頼を置く、ということですが、これは、自分の真実の姿を知らないと、信頼を置きたくても置けないという事になります。仮に、知らないとすると、必要以上に過大評価したり、必要以上に過小評価したりしますが、これでは自分に対して正確に信頼を置くことなどできないと言えます。ですから、自分を正確に知っていく、そして真の姿に対面していく中で、信頼を置いていく、こういった過程を通して獲得していくものが、正に自信ということになろうかと思います。


自分に降り懸かる災難の責任は自分である、自分の行動、言動等は正しいのではなく正しくない、というスタンスがとれたなら、全ての人に対して、そして全ての事象に対して、謙虚に向き合えるようになります。この謙虚で、自惚れのない人間こそ、真に自信ある者であり、ちょっとした不安や心配で自信を喪失してしまうことはありません。但し、風船のように容易に膨らんだり縮んだりできる過信と違って、自信というものは、少しずつその自信の力を蓄積していくようなものなので、性急に多くを求めることはしないよう注意が必要です。


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プライドとは、自尊心、誇り、と日本語では表現されると思います。自尊心とは、「自分の思想や言動や才能や仕事について自信を持ち、他からの干渉を排除する心」ですが、簡単に言うと、自分を尊ぶ心です。自分を尊ぶとは、自分は素晴らしい、すごい奴だ、と理想化し、思い込む事だと思います。ですから、プライドとは、自分で勝手に思い込むものであって、実体はなく、妄想と言えるのです。その証拠に、「あなたのプライドって何ですか?」と唐突に質問されたら、恐らく明確には答えられないはずです。せいぜい、過去の栄光を並べ立てるだけだと思います。


人間は、弱い所があるので、こういった虚飾のプライドにしがみついて、生きていかないと、心許ないと思う性質があるのです。しかし、プライドを持って、良いことなんて何もなく、逆にマイナスの要素と言えるでしょう。プライドを持つ事で、相手の意見は聞けなくなり、相手もプライドを鼻にかけた態度に嫌気をさし当然のごとく距離を置き、いつのまにか孤独に陥る場合もあるのです。このプライドの持ち方がさらに過剰になると、協調性のない奴だとレッテルを貼られる可能性もあるので注意が必要です。


人は、プライドを持つと、実際より高い自分を設定します。これは、理想の自分です。こういうような人が、周りの人に馬鹿にされたり、弱点を指摘されたりすると、実際の自分に気づかされたり、実際の自分と向き合わなければならなくなるので、惨めな気持ちが出てくると同時に怒りも出てきます。「本当はそんなダサイ人間じゃないんだ。すごい奴なんだ。」と。実際の自分を見せつけられた事で、相手に見下された、嘗められた、と短絡的に判断し、怒りの矛先を相手に向けることで、プライドを保とうと無駄な抵抗をしたりします。


この怒りの原因は、どこにあるのかというと、実は、己の中にあるのです。勝手に、自分を理想化して、実際の自分とのギャップに驚いているだけなのです。まさにプライドを持ってしまったが為の弊害と言えるでしょう。実際の自分と日頃から常に付き合っていれば、相手に馬鹿にされても、怒りはさほど起こりません。自分は、愚かしい存在だ、失敗もするし、嘘もつくし、時間も守れない、そんな人間だ、と捉えられれば、そして認められれば、相手に何を言われようが、気になることはありません。しかし、完璧な人間であるに違いない、自分は誇りを持った立派な人間なのだ、と勝手に理想化してしまうと、相手の攻撃にいちいち目くじらを立て、心穏やかにはいられないでしょう。


なぜ、人はプライドというまやかしの魔術に依存し、填ってしまうのでしょうか?


人は、とにかく弱い存在であり、日々不安で不安でたまらない生活を送っています。周囲の人の中で、自分より自信がありそうな人や、強みを持っている人がいたりすると、急に自分の存在への疑問が湧いてきたりします。自分には、周囲に誇示できるだけの何かがあるのだろうか、このまま生きていって大丈夫なのだろうか、と、様々な不安に苛まれ苦しみの中に落ちていってしまいます。そんな中にあって、プライドという魔術は、不安な自分を一過性ではありますが、他に対して優位性を確保してくれると同時に、ちょっとした自信もつけてくれるのです。一種の“優越感状態を満喫”と言えますでしょうか。しかし、もともとが実態のない虚栄心とほぼ同等であることから、このデタラメのプライドというものは、時と共に脆くも崩れ去るのが運命であると言わざるを得ない虚構そのものなのです。


正直、なけなしのプライド、不毛なプライドは即刻捨てるべき、と考えます。今まで、プライドを持って雄々しく生きてきた人にとって、今さら自分の分身を捨て去ることは到底出来ないとは思いますが、このプライドという代物は、百害あって一利無し、という迷惑千万の疫病神と言ってもいい存在です。つまり、生きていく上で障害にはなるが、決してメリットはない、ということです。よく世間では、「プライドを持て!」と、当然のごとく言われたりしますが、あれは無責任なアドバイスであって、全く根拠のあるものではありません。プライドを持つことで、自分を実体以上に見立て、自己暗示しているだけです。この状態に填ってしまうと、自惚れ、過信、奢り、傲慢、といった悪い心が芽生えてしまい、周囲に迷惑をかけると同時に、自分の人生にも暗雲をもたらすことになります。


不安を解消するために持ってしまうプライドの代わりに持つべきもの、それは自信です。自信をつける為には、周りの意見を聞ける謙虚さが必要であり、間違いを犯したら、すぐに頭を下げて謝れる姿勢が必要です。これは、プライドを持っていたらできないことだとお分かり頂けると思います。


このプライドというバリヤーを外すことで、真の自分を知り、そして自信に繋げていくことが、この世知辛い世の中を不安なく闊歩していく為の唯一の道であることを改めて認識して頂ければと思います。


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ふっと過去の記憶が蘇ってきて、嫌な思いにかられる時があるかと思います。もう忘れたかな、と思う頃に、無遠慮に登場してくる嫌な記憶。打ち消したい、忘れたい、封印したい、という嫌な記憶というものに限って、いつまでも忘れられなく、その記憶に支配され翻弄されてしまうのは、よくある話かと思います。その記憶一つで、その後の人生全てが影響されてしまっている、変わり果ててしまった、という人もいることでしょう。


嫌な記憶とは、過去の自分の苦い経験ですが、その過去は変えられないのでしょうか?


過去の苦い経験、苦い事実自体は当然変えることはできませんし、消去することもできません。しかし、その苦い事実に対しての心の捉え方は、どのタイミングにおいても変えることは可能です。人は、その苦い事実を経験した時の感情や心での捉え方に依存されてしまう傾向にあるので、なかなか変えられなく、苦しんでしまうことがよくあります。ただ変える、と言っても、自分の都合のいいようにデタラメに変えたり、ねじ曲げたりすることでは、苦しみから逃れるという意味では、なんら意味を持ちませんので、正しい変え方を知ることが大切です。


過去の苦い事実に対しての心の捉え方をどう変えたらいいのでしょうか。この苦い事実に苦しんでいる人の大半は、恐らく、この事実から逃避しているか、この事実を他人のせい、環境のせい、社会のせい等にしているか、自分の責任ではないとしているか、周囲の人達と比較し自分は情けない存在であると自ら責め立てているのか、のいづれではないかと思います。これらは、全て事実に対して真摯に向き合うことを拒否しているものであり、事実を事実として認めていないという事です。まず、事実を事実として受け止め、そして受け入れ、その苦い事実の原因は自分にある、つまり自分の責任する、ことが必要です。


事実に対して真摯に向き合い、自分の責任である、という事を受け入れ、しっかり認識できれば、過去の苦い事実に対しても、捉え方が変化していきます。他人のせい、環境のせい、親のせい、等々、その苦い事実の原因を他に求めていた時は、「恨みの心」が支配的で苦しんでいましたが、一旦自分のせいである、と潔く全てを引き受けてしまえば、恨みや呪いといった悪々しい心は確実に軽減されていき楽になるはずです。


「な~んだ、あのことは自分のせいであったのか。色々な人のせいにしていたけど、馬鹿であったなぁ。恨んで恨んで苦しんでいたなんて、なんて愚かだったのだろう。事実から逃避して、苦しんでいたなんて、勇気がなかっただけだったんだなぁ。」


過去の苦い経験も心での捉え方が変われば、それほど大したものではなくなります。つまり、心の捉え方として、不条理ではなく、条理に捉え直せば、言い換えれば、他人のせいではなく、自分のせいとするならば、過去は変えられる、という事になります。


トラウマがある、とか、フラッシュバックに悩まされる、とか、現代社会ではよく聴かれる話ですが、根本的に、ものの捉え方の間違いから起因している場合が大半である、と言ってもいいかもしれません。


人は、事実に対して真摯に向き合い、反省し、自分の責任とする、という行為を極力嫌い、避け、愚かにも周囲を恨んで生きています。逃げて逃げて逃げまくり、自分で作った虚偽の捉え方で苦しみ、一生を「恨みの人生」で終えていく、これが愚かな人間の生き様そのものと言ってもいいかもしれません。


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女性というものは、男性に近づく場合、何を求めているのでしょうか?


男性の優しさ、包容力、逞しさ、楽しさでしょうか。ストレートに言ってしまえば、女性のお目当ては、男性の経済力、つまりお金です。この男性は、もし結婚したならば、私を将来に渡って何不自由なく養っていける力があるのだろうか、という点に目を光らせ、厳粛に品定めをしてしまうものです。お店の会計をする際に、男性の財布の中身がついつい気になってしまったり、その男性の職業や年収に興味がいってしまったり、親の職業をついつい聞きたくなったりするのも、全て根底にあるのは、お金、なのです。


愛が全て、愛がなければ好きにならない、等々、キレイごとが世間を徘徊しています。しかし、女性というものも男性と同様、遺伝子の戦略に支配されていて、より優秀な男性を求めてしまう性質があります。それは、卵子は一度に複数の精子を受け入れられないという制約がある事から、一番上等な精子を選ばなければならないという至上命題を抱えているからです。ですから、仮りに今彼氏がいたとしても、目の前に優秀な男性が突然現れてしまったならば、非情にも今の彼氏と決別することができてしまうのが、女性の性というものなのです。


カネ、カネ、と言われるのは心外である、と言われる方もいるかもしれませんが、これを裏付ける出来事が過去に起きてますので、それを紹介したいと思います。


それは、女子高生を中心に一世風靡した援助交際です。これは、お金さえ出してくれれば、基本的に不細工であろうが、年寄りだろうが、話下手であろうが、OK、という代物です。つまり、所詮カネかよ、の世界が、まさにこの援助交際であったという事です。紙切れ数枚で、自分の肉体を提供してしまうのですから、男性諸氏からすれば、まさにアンビリーバブルな世界ですが、彼女らにしてみれば、そんなに高いハードルではなかった、ということだと思います。


トレンディードラマ等で、女性の美しさ、優しさ、清楚さ、などを見て感化されてきた男性からすれば、女性がお金を追い求める姿は、驚愕であり、決してキレイなものとは映らないと思います。しかし、大抵の男性は、女性の本心を見抜くことはできないほど愚かなので、表面上の美しさや優しさに、ころっと騙されてしまうものなのです。


世間では、お金を追求することについて基本的には否定されていません。ですから、仮に女性がお金を求めることを第一義的に考えている事が、周知の事実になったとしても、男性の浮気と違って、恐らく、責められることはないでしょう。しかし、だからと言って、金の亡者になることが良いとは言えないと思います。お金に絡む事件というのは、昨今大量に発生していて、目を覆うような出来事ばかりですが、こういった風潮を是正、あるいは打破していくためにも、お金が欲しいという欲望を抑える努力が必要であると考えます。


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男性というものは、女性に近づく場合、何を求めているのでしょうか?


優しさでしょうか、ルックスでしょうか、心でしょうか。ずばり言ってしまえば、女性の肉体が目当てです。他の要素も重要ではありますが、優先順位で言えば、肉体に他なりません。表面上では、キレイごとをふんだんに並べ立てる紳士がいるかもしれませんが、所詮、男性というものは、キレイな存在ではなく、縁あれば、すぐにでも浮気をしたいものなのです。誤解を恐れずに言い放ってしまうならば、男性というものは、浮気をするのが当たり前であり、浮気をしない人というのは、少々おかしいのか、少々鈍感になっているのか、相当な努力家であるのか、なのだと思います。


男性は、なぜ、こうも簡単に浮ついた行動に走れるのでしょうか?それは、まず色欲という煩悩に振り回されている、ことと、遺伝子レベルで一つの花に満足できないという性質がある、ことだと推測されます。


普段、スーツを着込んで、仕事にもスキがない男性であっても、ひとたび街頭でキレイな女性を見かけたりすると、この色欲というものは、無遠慮に登場してきて、男性の全てを支配してしまいます。ある意味、婬獣に化す、と言っても過言ではないかもしれません。しかし、男性にしてみれば、色欲の他に、興味や関心、やりたいことがあるにもかかわらず、この強力な刺客である「色欲」が一旦登場してくると、お手上げ状態になって暴走し、後で自己嫌悪に陥るという深い苦しみを味わっている、かわいそうな動物でもあるのです。


ミツバチは、花から花に飛び回って、蜜を吸っています。これと同じように、男性も次から次へと女性を求め、女性というお花畑を飛び回っているようなものです。男性の遺伝子の伝道者は精子ですが、この精子は日々億単位で生産されています。遺伝子の戦略からすれば、この億単位の精子を無駄死にさせたくないわけで、なんとか一人でも多く成就させたいのです。となると、一人の女性で満足してしまう男性の性であると、戦略自体が破綻してしまうので、女性一人で満足はしない、という浮気性の男性がそこにいることになります。


色欲という煩悩、遺伝子レベルの話だけでは、納得できない方に具体的な譬えを出してみたいと思います。ある女性Aが、仕事帰りに、上司に連れられて、レストランに行ったとします。そこで、上司に好きなメニューを注文していいと言われ、最高級のサーロインステーキを頼みました。女性Aの前に、食事が来ました。ここで、上司があろうことか、「3時間、目の前のサーロインステーキを食べるのを我慢して、3時間後に食べ始めなさい。」との命令を出したのです。女性Aは、お腹がぺこぺこで、とても待ち切れません。口の中は、唾液で充満し、今は、サーロインステーキをどうにかして食べたい、の1点しか考えられません。これは、女性Aにとっては、恐らく「拷問」としか言いようがない、状況だと思います。食べたいのに食べれないのですから。これと同じように、男性に浮気はダメ、というのは、サーロインステーキを女性とするならば、到底我慢の出来ない、拷問に近い命令なのです。よだれが出るくらい、気を失うくらいサーロインステーキを食べたい女性Aが我慢していると同様、男性も気を失うくらい我慢して、浮気をしないように努力している、これが世の男性の姿です。


女性からすれば、なんて汚らわしい存在なの、不浄極まりないわね、というところですが、男性にしてみれば、女性への気持ちに支配され、馬鹿だな、と思いながらも色欲に振り回されてしまうのです。一見、男性というものは、逞しかったり、優しかったり、素敵だったり、する面もあるのはあるのですが、腹底深く探っていくと、こういった色欲まみれの姿が真実であるのです。


決して、男性の浮気を肯定するものではありません。男性の性とは何であるのか、を顕かにしただけのことです。男性は、己自身に浮気心が巣くっているという事を十分に認識し、これと根気よく闘っていって頂きたいものです。女性の皆さんには、男性が実はどうしようもない性衝動に駆られて、常日頃から苦しんでいるという事実だけでも認識して頂ければ、浮気一つに対する見方も少しは変わっていくのではないか、と思います。


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男というものは、冗談を好むように思います。時には、真顔で言い、時には笑いながら言い、女性にとっては不可解な代物であると思います。


男にとっての冗談とは、得てして軽い意味で行われる場合が大半かと思います。ですから、時を経てしまえば、当然のごとく忘れてしまい、仮に詰問を受けても、答えられないのが普通であります。冗談を言った根拠、背景というものは、そんなに強いものではなく、ただ単に、その場を盛り上げたい、盛り上げた中で、自分自身も楽しみたい、面白い奴と思われたい、程度でしかないのが実状ではないでしょうか。


ところが、ここでとっても注意しなければならない事があります。冗談というものは、全てとは言いませんが、女性には通用しません。前振りでしっかり、今から冗談言いますよ、と宣言してから冗談を言っても信じてしまう人もいるし、冗談を言った後に、懇切丁寧に冗談を言った背景や経緯を説明したとしても、信じてしまう人もいます。これは、男の立場からすれば、怖ろしい事実、と言わざるを得ません。そんなに重く受け止める訳ないだろう、と思って冗談を言い続けてきた冗談好きの人にとっては、この怖ろしい事実を前にして絶句し震撼してしまうことは想像に難くありません。自分は良かれ、と思ってしてきた冗談が、実は女性には反感や恨みを買っていたのではないのか・・・。。


女性の論理はこうです。男の人が、ある冗談を言った場合、少なくとも1%くらいは、そう思った、あるいは、そう考えていたから、そういう冗談が言えるわけで、本当は冗談ではなく、そう思っているのかもしれない、いやいやそう思っているに違いない、という捉え方です。つまり、冗談を冗談とではなく、本音であると受け取る傾向にあるのが、女性、ということになります。


男というものは、愚かなもので、所詮女性にモテたいだけなのです。モテるためには、武器が何もないといけないので、冗談の一つも言ってみたりするのです。冗談が苦手な人にとってみれば、涙ぐましい努力の延長線で、冗談を言い放っている人もいるかもしれません。しかし、この冗談という武器は諸刃の剣なところがあり、TPOや言葉の選定を謝ると、自殺行為になって、モテるどころか、逆に嫌われたり、恨まれたりしてしまう恐さを秘めております。女性の前で、冗談を言い放ち、得点を稼ぐという大勝負にもし、出るとするのならば、ある種、覚悟を決めて、冗談を言わなければならない、という事です。得てして、失敗してしまうのが、冗談である、という認識が必要であり、不用意に多様できるものではありません。


ふっとした思いつき、脈略もなく浮かんだ言葉を使って、男というものは女性に対して冗談を言い放ちますが、この何気ない言葉が女性にとっては、凶器に映る場合があるという事を十分認識した上で、男性諸氏は、注意深く冗談を使いたいものです。


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他人のせいではなく、自分のせいにすると、人は、とても生きやすい人生を歩めます。これは、紛れもない真実であり、これに反する事ほど愚かなことはなく、しかし、人は、故意のいかんにかかわらず、得てして、他人のせいにしてしまう傾向にあります。


自分に災難が降り懸かります、そして嫌な感情になったりします。こういった場合、人はどう対処しようとするのでしょうか?こういう状況に置かれた、あるいはこういう状況に陥ったのは、自分のせいではなく、他の誰かのせい、周りの環境のせい、社会のせい、生い立ちのせい、等々、なんでもいいから責任転嫁し、自分の負担を少しでも軽減しようとします。これが正しい、正しいに違いない、仕方ない、という思いにしがみつき、自分の思いや行動を肯定しようとします。そんな中、もし、「お前のせいだ!」と直言されたなら、どうな思いになるのでしょうか?


「え~、私は悪くないのに、どうしてぇ~! でも、私が悪いの?!」


ここで、自分のせいであると認め、受け入れていない人は、とてつもない苦しみの中に落ちていきます。とても辛い状態です。災難の責任は、自分ではない、と思っているので、他人から責任の所在を指名された事は、青天の霹靂であるし、認めたくない事実です。しかし、これが現実。なぜ、私が責任を負い、苦しまなければならないのぉ~!、という蟻地獄に引きずり込まれていきます。


ここで、何が起きているのか。この人は、実は、自分を美化し、自分は災難の責任を負わなければならないほど、惨めで情けなく能力がない人間ではない、という間違った妄念にかられて、現実の自分を受け入れられなく、そして、必要以上に現実の自分を責め立て、攻撃し、一人上手のように、消耗していっているだけなのです。美化した自分と、現実の自分のギャップに苦しみ、なおかつ、その現実の自分を認めたくないために、自分を責め立て、追い込んでいる、愚か者にしか過ぎない、という事です。


では、どうすれば苦しみから回避できるのでしょうか?


それは、まず、必要以上に自分を美化しない事、そして、災難が起きたら、自分にも責任がある、と引き受ける、あるいは認める事、が大事です。そして、災難を引き起こした等身大の自分を、事実として認め、受け入れ、必要以上に責め立てない、ことです。自分が災難を引き起こしてしまう位に元々、愚かしい人間である、という事が分かっている人は、「な~んだ、今回の1件は馬鹿な私のミスから起きたものなのか。ハハハ、しょうがない自分だなぁ。ま、しかし、仕方ないよね、飾っても意味ないし。周りには迷惑をかけたから謝っておかなきゃ。」という感じで、素直に事実を事実として受け止められます。こういう姿勢で人生を歩んでいる人は、なにか災難が起きても、苦しんだり、辛い思いをしたり、引きずったりすることは、極力少ないと推察できます。


人は、浄い存在ではなく、不浄な存在です。その不浄な自分を事実としてしっかり受け止め、受け入れてあげる事がなによりも大切なことです。そうなれば、何かハプニングが起きたとしても、一喜一憂することなく、現実の自分と向き合い、一つ一つの問題をクリアできる逞しい生き方ができるようになることでしょう。


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人は、俗に言う「建前」と「本音」があります。建前とは、頭の中で考える考えであり、本音とは腹底の心での考えであります。つまり、人というのは特殊な例を除き、二つの心を常に持ち合わせているわけなので、一つであるという勘違いをしないように注意したいところです。


さて、建前がやたら多いという人が世の中にいますが、一緒にいてどうでしょうか?何を言いたいのか分からない、何を考えているのか分からない、本心隠してええ格好しようとしている、キレイごとばかりでつまらない、と思われると思います。


逆に、本音がやたら多いという人も世の中にはいますが、一緒にいてどうでしょうか?ジコチューだな、とか、本能でのみしゃべってるな、とか、周りの事などおかまいなしだな、とか思われると思います。


建前の多い人、本音の多い人、両方とも困った人であると言えるのではないでしょうか。結論から言うと、相手や状況、話の流れ具合等をしっかり勘案した上で、「建前」と「本音」を自分で選別して、行動、発言していくことが大事であると考えます。当然、会話では、いちいち考えて選別して、では間に合いませんので、瞬間的な判断が要求されます。何を話すべきか、何を伝えるべきか、今伝えるべきなのか、等々を瞬間的に判断するのです。これは、少なからず、経験も必要です。経験も必要という事は、当然、失敗もある訳ですが、この失敗を怖れず、チャレンジすることが重要になります。本音を言うべきところを、建前を言って失敗すること、建前を言うべきところを、本音を言って失敗すること、これは、ある種、場の空気を読んでいかに適切に判断するかが問われてくるわけで、あとは場数という経験を積み重ねることで、こういった失敗を減らすことは可能になるかと思います。簡単ではありませんが、これを意識して行っていけば、建前と本音の使い分けというものが、淀みなく行えるようになっていけると思います。


建前と本音をうまく使い分ける為には、経験も、必要と述べました。それでは、他に何が要素として必要なのでしょうか。それは、まず、自分を知ること、そして、周囲に興味、関心を持ち観察すること、この2点が挙げられます。


自分をもし知らない人であれば、今自分が何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、すら分からないので、仮に言葉として伝えたにしても、それが建前であったのか、本音であったのかさえ、怪しくなってしまい、結果として、うまく表現できなかった、失敗した、という結果に陥る可能性が大となります。また、自分を知らない、という人は、自分に対して自信もないので、周囲への興味、関心というよりは、自分が周囲にどう見られているか、どう評価されているのか、に執着してしまい、結局、場の空気を読めない、という結果になってしまうと想像され、周囲への観察は疎かになります。


自分を知るには、善いことをすること、と、失敗したらしっかり反省すること、が必要になります。


善いこととは、人に席を譲るとか、大きな声で挨拶をするとか、困っている人を助けるとか、であります。そして、どんどんやっていくうちに、あることに気がつくと思います。それは、人に対して善いことをすると必ずと言っていいほど、見返りを求めている自分がいることに気づくということです。何か親切をして、普通に御礼の挨拶を貰えればいいのですが、逆に挨拶なしで立ち去られると、怒りに似た感情が吹き上がり、さらには、相手を罵るまでになってしまう事があります。善いことをしておきながら、腹底の心で悪い感情を造り上げているとは、善をしているのか、悪を造っているのか、分からなくなってきます。人は、善いことをしますが、純粋な善はできない、というのが真実です。真実な善ができない中で、それでも善を続けていく事で、見返りを求めている、悪たらしい心が見え、自分の本性、つまりは自分を知ることができるようになります。この嫌らしいかもしれない本性を積極的に受け入れていく事で、自分を明確に知っていくことができます。


自分を知るには、もう一つ重要な要素として、失敗したらしっかり反省すること、というのがあります。人は、失敗する時に、得てして、利己的で悪たらしい心が作用する場合が多いものです。そういった醜い心で犯してしまったが為に、割と責任を認めたらず、結果としてしっかりした反省に至らないケースが多いのです。ですから、反省に至らない人というのは、自分の醜い心を見逃す場合が多く、自分を知るチャンスを逃すことになるのです。これは、非常に勿体ないことです。ここは、勇気を持って、積極的に失敗の責任を認め、失敗を受け入れることで、反省をし、自分の利己的で悪たらしい心を嫌というほど見つめて貰いたいものです。そうすれば、確実に、自分と向き合え、自分の本心、本性を知ることができるのです。


善いことをすること、反省をすること、は一日、二日程度で良いわけではありません。永遠に努力していく事が大事であるし、し続けなければ全く意味も、成果も得られません。日々、続け、自分の本性を知らされていく中で、当然自信もつき、人と接していても臆することなく渡り合えるようになっていくものと推察されます。そうなれば、あとは経験のみ。建前と本音をどういう雰囲気の時に、どういうタイミングで、どちらを出していくべきか、が感覚的に分かっていき、いつのまにか建前・本音を選別しきる達人になっていることでしょう。


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人は、様々な経験や情報をベースにして、物事を判断しますが、判断基準は自分の考えにあることが多いかと思います。そして、自分自身に自信がある人やプライドの高い人などは、得てして、自分の結論に対し、自信があり、正しい、と思っている場合が大半であると推察されます。


例えば、本音を言うと人を傷つけてしまうので、本音を言うのはいけない、と思っている人がいるとします。こういった人は、本音とは違った建前ばかりで人間関係を作ろうと思うので、日々相手のご機嫌を伺いながらの生活になります。当然、相手に気を使うので、精神的負担というストレスを受け、しかも本音を言えないおかげで、口数も減る傾向にあります。これは、正しいことなのか、と言われれば、当然、正しくありません。しかし、本人にしてみれば、生きていく術として、これは正しい、と信じ、執着しているので、他の人から仮りに指摘されても、なかなか自分の間違いに気づかなかったりする場合が多いのです。


自分の考えが正しい、と執着してしまう理由は、「浄」という妄念に縛られているからです。浄とは、浄い、という意味で、自分の考えは浄いもので、正しい、とする迷いの心なのです。この浄という妄念が働いている事に気づかないと、人は得てして、「正しい病」にかかり、他の人の意見を全く聴かない、自己中心的な状況に陥るのです。


人は完璧な存在ではありません。ですから、自分が正しい、と見るのではなく、自分は正しくない、と見るのが正しい見方になります。自分は正しくない、とは、「不浄」であるという事です。なかなか、人間は自分を不浄な存在、不浄である、と認め、受け入れることはできませんが、一旦不浄である、と認めると、謙虚な姿勢で物事を見たり、人と接することができるので、認める勇気が生きていく上で大切です。


人は、不浄な存在、それを欲目でついつい浄であると美化してしまいますが、それは妄念であると認識した上で、しっかり自分を見つめ注意していく事が、人間関係を築く上で大切なのです。


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