人は、本音と建前を持って生活しております。本音だけ、建前だけ、では、当然人生はうまく渡ってはいけません。本音と建前をうまい具合に使い分けしないといけないのですが、相手次第で受け取り方が違う事情から、トラブルになる事も多いかと思います。さて、ここでスポットにあてたいことは、人間の本音とは一体どういったものなのか、という事です。


人の本音とは、本心、本当の心、腹底の心、と言えると思います。この本心というものは、普段気をつけて見ているものではありませんが、キレイなものなのでしょうか?それともキタナイものなのでしょうか?


例えば友人がいきなり、「彼氏ができたの!」、と喜び勇んで報告してきたとします。目の前では、私が世界中の幸せを独り占めしているかのように笑っている友人がいるわけです。「へぇ~、良かったね!」と、あたかも一緒になって喜んでいる表情を見せつつ、内心は、というと、「どんな奴がこんな娘を好きになったんだろう」という悪たらしい事を平気で考えていたりします。これが実は何を隠そう、人間の本心です。決して、キレイなものではなく、キタナイ心と断言しえる醜悪な心なのです。思ってはいけない、いけない、と思いつつも、悪い心が蠢動してしまい、言動や行動に時として露呈し、大失敗を犯したりします。


人を裏切ってしまう心、人に嘘をつく心、人を蹴落とす心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心、人を軽んずる心、自分だけが得しようとする心、等々、数え上げたらキリがない位、人は、本心では悪い事を考えています。浄い心ではなく、真実は、汚い心なのです。自分の心くらいはキレイであって欲しい、という妄想で、汚い、という真実を拒否しがちですが、これが私の本心なのだ、というように、真摯に受け止め、受け入れ、認めることが肝心なことなのです。


ここで注意が必要なのは、本心が悪ならば、悪事を働いてもいいだろう、と短絡的に考えてしまう事です。これは、間違いです。本心が悪である事が認識できれば、その悪を発動させないように注意しながら、日々の生活をしていくのが必要です。もし、自分にとって悪い縁であると分かったならば、その悪縁を遠ざけ、自分の悪性を発動させないように行動する事が大切なのです。


人はよく妄念によって、何事に対しても美化したがります。自分の心は浄い、あの人の心は浄い、というように、心に対しても、間違った美化をしてしまいます。それでいて、自分の本心が汚いという事に気づくと、美化した本心とのギャップに苦しみ、最終的には汚いという事実を押し隠す事をしてしまいます。事実に背いて生きていくという事、これは自分に対して嘘をついて生きていく事になり、精神的なストレスを多く抱える結果となります。


人の本性とは何なのか、その真実をしっかり見極めて、認めていく事が大切です。自分の本性を知ると、少しずつですが、自信がつき、人生に対しての不安も軽減するので、悪性たる自分の心から逃げずに受け入れるよう努力して頂きたいと思います。


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人は、生きる上で自由と平等を欲するものである。しかし、自由と平等というものが、この世の中で同時に得られることがありうるのでしょうか?


資本主義社会は基本的には、自由主義社会であると思います。そして、共産主義社会は基本的に、平等を目指した社会であると思います。それぞれの社会は、人が苦悶し、どうしたら人間らしい生き方・生活になるのか、を追求した結果、文明国家に発生した社会様式なのだと推察します。


その追求の結果、資本主義社会では、自由は法律の範囲内では得られたかもしれませんが、貧富の格差を引き起こしました。つまり、同じ人に生まれながら、才能や努力のない人は社会の底辺に這いつくばり、場合によっては偏見の目で差別されたりします。これは、平等という観点に立つと、決して平等とは言えない姿に映るかと思います。


社会主義社会では、どうかと言うと、平等を追求するあまり、自由を制限しなければいけないシステムになってしまい、人としての本能を削ぎ落とす結果となりました。いくら努力して働いても給料は同じ、という中で、意欲がなくなる状態になりました。しかも、歴史からすると、ある一部の特権階級だけが潤うという歪んだ形で行われているだけに、一般庶民からすれば、不満の残るシステムと言えます。


代表的な社会システムを挙げましたが、どうも自由と平等を同時に獲得する生活は難しいと言えそうです。


人は、生きていく中で、自由と平等を求めます。しかし、真実から言うと、自由を求めれば、平等は失われ、平等を求めれば、自由が奪われます。世間では、「自由で平等な社会」を喧伝し、あたかも同時に両方を享受しているかのように認識されがちですが、実は、どちらかしか得られないのが真実です。


会社で、ある業務に対して、自分の意見を通したいので自由にさせてくれ、と打診した場合に、会社の方針として、それは認められないという場合があります。会社の秩序を守るためには、一人の自由が制限されるわけで、なかなか自由を得られないのが現実です。会社の方針は、皆平等に守っている訳ですから、平等の前に自由は阻まれたという格好になります。もし、この社員がそれでも自分の意見を通してくれ、と強く要望し、仮りに会社が呑んでしまうと、他の社員からすれば、なぜあいつだけ優遇されるのか、と平等の破壊に不満が続出する結果になります。この例を見るように、自由と平等は一見、同時に獲得できそうに見えるものの、実際は同時には得られないのが真実なのです。


人は、生きていく中で様々な制限を受けて生活しています。つまり、自由は容易には得られないものである、との認識が必要なのです。また、人は生きていく中で、確実に平等を阻害されながら生きています。平等とは、ある種、仮想の世界であり、差別を受けてしまうのが当たり前、との認識が実は必要なのです。


勝手な妄想や理想によって、現実を美化したがるのが人間ですが、その美化するが故に苦しみを己に返しているのが、愚かな我々人間であることを、よく理解しておく必要があると思います。自由がない、平等ではない、と日々愚痴をこぼしている人が大半ですが、所詮、人間社会で自由と平等を求めること自体が無理であり、その認識がしっかりあれば、理想と現実のギャップに苦しまない生き方になるのではないかと思われます。


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現代は、文明が発展しており、その中で科学も発展しております。科学の知見をベースに様々な製品が開発されており、ある種、科学というものは万能であると過信しまいがちな側面があります。しかし、科学の視点をもってしても解明できない事象はたくさんあると思われます。


広義で言えば、医療の世界も科学の世界の一部と言えます。医療技術も近年、格段に進歩を遂げてはおりますが、どうしても解明できない、「不治の病」が多く存在するのが実状です。


人間の頭脳を持ってしても解明できない事象は、この一例を見た限りある訳ですが、人間の頭脳をベースに成り立っている科学は、実は万能ではなく、所詮人間の智恵レベルの産物に過ぎない、と言えるのではないでしょうか。


ここで、科学を私なりに定義したいと思います。


『科学とは、真理を人間が理解できるように翻訳作業した結果出てきた法則や事実』


真理:真実で永遠不変の理法

真実:嘘偽りのない本当のこと

理法:道理にかなった法則

道理:物事の正しい筋道、筋が通っていること


科学は、歴史と共に進化、発展してきました。時代と共に、その内容は変化してきたという事実を捉えると、科学とは流転する性質を持っている、と言えます。つまり、今なお流転し続けているわけですから、現代科学を、暫定科学と表現した方が分かりやすいのではないかと考えます。そうなると、科学で言われている真理の多くは、暫定真理、である可能性が高いのです。新しく発見されれば、既存の暫定真理は覆され、廃棄されてしまう運命ですから、絶対的真理と確信するにはリスクが大きいと言えます。


「科学解明領域」と「科学解明不能領域」とが今ある中で、恐らく「科学解明領域」というのは、とても少ない領域なのではないか、と推察します。こういった広い視野で、大局的な見地で、世の現象等を見ていかないと、偏屈なものの見方になり、ミスを犯す可能性があると思われます。


科学万能社会という一面を持つ現代社会ですが、所詮、人間レベルで興隆させた科学にしか過ぎない、という事実を踏まえた中で、生活をしていかないと、とんだ落とし穴に落ちる可能性があるのではないでしょうか。


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よく”客観的”とか、”客観視”とかの言葉が用いられますが、人は客観的に物事を見ることができるのでしょうか?


例えば、友人2人と会った時に、今日来ている服の品評会が始まったとします。そして、友人Aと友人Bが私にどちらが素敵か、を聞いてきた時、あなたならどう判断するでしょうか?本来であれば、服の素敵さに関して、問いかけをされているので、その2つの服装を絶対的評価にかけ、結論を出したいところです。ここで、仮りに私が友人Bの服の方が素敵、と判断したとします。では、その根拠は何か?


根拠は、例えば、服の色合いが自分好みであった、服のブランドが気に入るものであった、デザインが自分の好むものであった、友人Aより友人Bの方に好感をもっていた、等々が挙げられると思います。どれもこれも、客観的な立場に立っての判断、というよりは、主観に頼った判断である、と言えます。私という人物は、なるべく私利私欲を排して客観的に判断しようと努力した、にもかかわらず、結果して、自分の判断を振り返って考察すると、自分の欲目が入っていた事に気づかされます。つまり、この場合の判断は、客観的ではなく、主観的によっていると言えます。


ですから、人というものは、頑張ってみても客観視できないもの、と捉えた方がよさそうです。敢えて、表現するならば、「準客観視」でしょうか。準客観視とは、客観視に準ずる、という事で、客観視ほど完璧なものではないが、限りなく客観視に近くなるよう努力した見方、であると、定義したいと思います。客観視を求められた時に、どうしても欲目が入ってしまうと知りつつも、頑張って欲目を少しでも排して見る、これが準客観視であると考えます。


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自信とは、「自分を信じること」だと思いますが、人はなかなか自分に対して自信が持てないものです。その原因の一つとして考えられるのは、周りの人間が立派に映ってしまう、そう見えてしまう、あるいはそう見てしまう、という人間特有の妄念(迷いの心)があるからだ、と言えます。こう見てしまうと、自分自身は情けなく、心許なく、小さい存在だ、と卑下してしまうので、当然自信なんてものは持てなく、自信がない、になってしまうわけです。これは、妄念自体に誤りがあるので、それを是正すれば、自分を卑下しないようになり、少なからず自信を持てるようになります。


自信が持てないもう一つの原因を考えていきたいのですが、それは何なのでしょうか?


それは、自分の本当の心、本心(本音)を知らないからです。具体的に言えば、自分が何を思い、何を伝えたく、何をしたいのか、を明確に知らなく、ぼんやりしているからでしょう。今まで自分を知る努力をしないで、知る時間をとらないで、やり過ごして生きてきたので、今の自分が何者であるのか、が分からなく、地に足が着いた状態でない事から、自信すらも持てないわけです。


人は、自分が思っているほど自分の本心を知らないものです。いやいやそんな事はないですよ、と言ってみても、いざ何か意見を求められた時に、言葉にすらできない場合があるものです。それは、普段からしっかり見つめていないので、自分の思いが言葉にならなかったり、思いが言葉としていくつか浮かんでるものの、どれが本当の思いかが分からないので選べなかったり、という事です。


人間の本心とはどういったものなのでしょうか?キレイなものなのでしょうか?実は、人間の本心というものは、決してキレイなものではなく、汚いものなのです。人を憎む心、陥れる心、謗る心、妬む心、自分だけ得をしようとする心、欲まみれの心、自己中心的な心、いじめる心、等々、到底受け入れたくない心が、まさに人間の本心なのです。この本心を真摯に見つめ、しっかり受け止め、受け入れられるか、が必要不可欠なのですが、人間は自分に対して、キレイである、という妄念を持ちたがるので、なかなか受け止められません。どちらかと言うと、自分のおぞましい本心から逃げ、見ないように回避したがり、実際そうしてしまうものです。


あの人なんてフラレればいいのよ、あの人なんて降格すればいいのに、あの人なんて傷つけばいいのよ、あの人なんてバナナの皮の上に乗って転べばいいのよ、というような事を、腹底の心で平気で考えているのが、人間です。建前は素敵な微笑みを浮かべ、人の良さそうな顔して話している人でも、腹底訪ねていけば、おぞましく怖ろしいことを考えていたりします。人間の本性、真実の自己とは、そういうものなのです。


人間の本心は、悪たらしいものですが、どうすれば知ることができるのでしょうか?それは、周りの人に対して、親切や善いこと、を実行することです。当然、親切や善いことは、周りを一生懸命観察しないと、適切な行為には繋がりませんので、関心・興味をしっかり持つように日々努力することです。その親切や善いことをする中で、腹底の心で何を感じたか、何を思ったか、をしっかり振り返って下さい。この繰り返しで、自分の本心が少しずつ見えてくるはずです。様々な悪い心が見えてきますが、逃げずに受け止めて頂きたいと思います。


例えば、電車で年寄りに席を譲ったとします。その年寄りが御礼の挨拶もせず、むすっと席に座った場合、心の中でどう思うでしょうか?私なら、「せっかく、わざわざ譲ったのに、御礼の一つも言えないのか、このくそばばぁ!」と、腹底の心で思い、不快になるでしょう。これが、本心です。つまり、善いことをしているのに、腹底の心では、それ以上に悪い事を平気で思っている、怖ろしい存在、これが人間というものです。善いことをしても、ついつい「見返り」を求めてしまうのが、悲しいかな、人間なのです。ただ、こういった悪たらしい腹底の心をしっかり見つめ、汚い心だけど、これが自分の心なのだ、と受け入れるのが非常に大事です。所詮、人間の心はキレイなところはありませんから。


どんどん善いことをしていくと、見返りを常に求めている自分に気づけるようになります。もしかしたら、純粋な善などできないかもしれない、と思えるようになります。それぐらい、善をすれば、自分の本心はだいぶ見えてきている状態にあると思います。


ここで、注意がまた必要です。悪々しい自分の心ですが、これを開き直って、悪いことをしていい、という勘違いをしないで頂きたい、と思います。悪い心があることを認めつつ、悪いことをしないように行動をする事が大切なのです。自分が悪い要素を持っていると知れば、悪い縁を絶ちきり、悪い行動にならないようにします。例えば、アルコール依存症の傾向があると知った人は、飲み会を避けたり、冷蔵庫にアルコール類を置かないように配慮したりして、アルコールの縁を絶ちきります。これで、アルコール依存症になることを回避しようと努力します。


人は、自分の本心が分からないから不安を抱え、自分に自信が持てません。しかし、決してキレイではないかもしれない本心、を知れば、人は自分に対して自信を持てるようになっていきます。自分を知って自信のある人生にするのか、自分を知らずして自信のない、不安な人生にするのか、それは偏に自分の選択一つにかかっているので、怖いかもしれませんが自分を知ることを選択して欲しいと思います。


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自分は、周りにどう見られているのだろう?


人は、人と接する中で生活を送っています。ですから、人からどう見られているだろう、とか、どう評価されているだろう、とかが気になったります。時には、それが気になり過ぎて、人前でカチコチになったり、だんまりを決め込んだり、人が怖くなったりもします。こうなってしまうと、人間関係がどうだ、という問題以前に、自分をどうにかしなくては、になってしまいます。


さて、ここで問題にしたいのは、他人の評価をそれほどまでに気にする必要があるのか、他人の評価が当てになるものなのか、という点です。ある部下が、出世街道まっしぐらの上司に対して、「私は、あなたについていきます。」と賞賛したとします。ところが、その上司がある失態を犯し、降格させられました。その部下は、翌日から手のひらを返したように、その上司に対して冷たい態度をとるようになりました。これは、その上司が出世街道にある時は、部下にとって都合が良かったので賞賛、つまり良い評価をしていた訳です。しかし、その上司が降格となり出世街道から外されたと分かるや否や、冷遇、つまりは悪い評価を下した訳です。この部下の評価基準は、自分に利益があるか否かの「ご都合主義」で行われているわけで、彼の評価は全くと言ってよいほど、当てにはなりません。


お酒を飲んでいる時は褒めちぎるのに、普段は何かとけなす人もいます。人の評価というものは、気分一つ、状況一つでも変わるものなのです。逆に、自分が他人を評価する場合はどうでしょうか?自分の利益になるかどうか、損得勘定でどうか、自分がその人を好ましいと思っているか、というように、自分の都合で決めている場合が大半だと思います。欲目を入れないで、絶対的な評価をすることなど、人間にはできないのにもかかわらず、人は、他人の評価に戦々恐々となり、気にしてしまうものなのです。


他人の評価は当てにならない、という事をしっかり認識していないと、その評価に一喜一憂してしまい、振り回される結果に陥ります。これは、正直、愚かしい事です。当てにならないものを、当てにして、勝手に落ち込んでいるわけですから、まさに一人上手です。所詮、人の評価にしか過ぎない、当てにならないものだ、と分かっていれば、いちいちくだらない他人の評価など気にならず、堂々と自分の人生が歩めるはずなのです。(他人の評価は聞かなくてよい、という意味ではありません。人間関係を壊せ、という意味でもありません。他人の評価は当てにならないので、振り回されるのは馬鹿らしい、という真実、を知って欲しい、という意味です)


ここで、最後に注意したいのは、他人の評価の中に、良い指摘が入っている場合もあるので、そういった内容にはしっかり耳を傾けなければならない、という事です。他人の評価も、一参考意見としては、自分の為にはなるので、無下にするわけにはいかなく、自分の成長の為には、大切にするべきです。


ここで述べたかったことは、偏に、他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ、という事です。


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人は、ご立派な存在でしょうか?


シンプルに答えますと、愚かしい存在です。約束をしていても、相手を軽視して破ってみたり、出来もしない約束を、自分の見栄の為だけにしてみたり、します。約束を破り、謝るのならいざ知らず、言い訳を並び立てる始末ですから、どこからどう見ても、愚かしい、としか言いようがない、それが人間です。


「信用していたのに、裏切られた!」という話はよく聞きますが、これは、人というものは裏切らない、という考えが、その人の中に少なからず存在していたから、起きたという事です。友達と雑談している時は、「人って、裏切ることもあるよね。」と分かったように発言したりしますが、実際に、その人の心の奥底を訪ねていくと、裏切らない人もこの世の中にはいるはずだ、という甘い考えがあったりします。「この人だけは特別。絶対に裏切らない。」という、美化した考えです。


人の真実の姿は、ご立派ではなく、愚かしい存在であるので、”裏切るという行為”をする事ができます。親子、夫婦、友達、会社の同僚、等々、様々な場面で裏切り行為は行われています。では、なぜ裏切るのか?それは、最初から裏切ろうと思っていたからか、自分に都合が悪くなったからか、のどちらかであると思います。例えば、ある友人にお金を200万円貸したとします。10年来の友人なので、必ず返してくれるという信頼を持っていたとします。ところが、ある日、その友人は忽然と姿を消してしまいました。信頼していたのに~、裏切られた、と思う訳ですが、その友人はお金を返すことより、とんずらを選択する方が都合が良かった、と言えると思います。都合次第で、いくらでも裏切れるのが、人というものです。


人を信用してはいけない、人を信頼してはいけない、という事を言っているわけではありません。もし、少しも信用・信頼をしないならば、社会生活を送ることはできません。ここで、述べたいのは、「人は、都合一つで裏切ることができる存在である」という認識を持つ必要があるという事です。あの人だけは、裏切らないという固定観念を持って、仮に裏切られてしまうと、そのショックは計り知れないものになるでしょう。そうならない為にも、事前に真実を知っておくことが大事です。人を美化し、理想化するのは勝手ですが、理想と真実(事実)とのギャップが大きければ大きいほど、人はそのギャップに苦しみます。ですから、自分で創りあげた理想を打ち壊し、真実を知っていく事が重要です。


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「反省」とは、どういう意味であろうか。


『自分のした言動を省みて、悪い点を認め、改めようと考えること』


概ね、上記のような意味であろうと思います。ところが、人間というものはなかなか反省できないものであります。表面上、とか、口先だけでは、「反省してます」と、殊勝な態度はとるものの、内実は裏腹である場合が多いものです。


日常において、反省しなければならない機会は数多(あまた)存在します。例えば、人と会話していて、ついつい失言をしたり、お酒が入って暴言を吐いたりすることなどです。明らかに、自分が悪く、相手に謝らなければならない、のにもかかわらず、自分の責任として相手に謝るのが嫌な為だけに、その事実を無かった事にしたり、無視したり、あるいは、相手が悪かったんだ、とねじ曲げたりして、反省をしない場合があります。これは、単に自分が悪かったんだ、という自分の責任(罪)を認めたくない、受け入れたくない、という自己中心的な考えに基づくものと考えられます。


自分の責任と認められない人は、苦しみの人生が待っているので、この苦しみから脱却するには、まずは、自分の責任と認めることが肝要です。次に、自分の責任であると認められると、その事象について振り返り(回想)をします。振り返りをしていると、「あの時、あ~いう事を言ってしまったのは良くなかったなぁ。相手を傷つける言葉だったかもしれないなぁ。」と、自分の言動の悪い点が見えてきます。悪い点が見えてくると、これからは、そういった軽率な言動は慎まねば、との考えに至ります。この一連の行動を、「反省する」と言えると思います。


人というものは、縁が来れば、悪い行動をしたり、悪い発言をしたりする所があります。反省して、自分の悪い部分をしっかり知っていく事は、その悪い部分を認識しながら、その悪い部分が発動しないように注意しながら、生活することができるようになる、という事です。自分が悪さをする人間であるという事を知っている人が、極力悪さをしないように注意するのは、実は、こういった人は、反省がしっかりできるタイプだからです。逆に、反省ができないタイプは、自分の悪さ加減を知らないので、何度も悪い言動をしたりして、失敗を繰り返す、愚か者であったりします。


表面上の反省は、何も意味を持ちません。次回に繋がる反省だけが反省と言えます。ここで、注意しておきたいのが、自分の中だけで完結させる反省です。心の中で、十分反省したのだからいいのではないか、というものです。これでは、反省したことにはなり得ません。では、何が欠けているのでしょうか?それは、相手への謝り(謝罪)です。相手の前に行き、声を出して謝る、これが必要不可欠です。この行為をした事ではじめて反省が完了したと言えるでしょう。謝った時点で、自分の責任である事を自分に知らしめた訳ですから、謝る行為を外すことはできません。


反省し謝罪する、という行為は、現代において、非常に軽視されていて、どちらかと言うと嫌われていると思います。しかし、この行為の素晴らしい所は、それをする事を積み重ねていく事で、自信がついていくことです。もし、自信がないという方は、謙虚に反省することから始められるといいと思います。


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人とは、どういうものでしょうか。物事をミスなく完全に遂行する能力を、常に持っている存在でしょうか。人間は、不完全な存在です。どんなに偉大だ、と言われた人でも過去に必ず失敗を犯してきています。人が生きる、という事は、「失敗」を重ねていく、という事だと思います。何から何まで、完璧にこなし、「失敗」をしない人が、もしいたならば、その人は人間でないか、大嘘つきか、のどちらかでしょう。


人は、失敗した時に、すぐに言い訳を言うか、他人のせいにするか、をする事で、自分のせいである事を回避しようとします。意識的にする場合と無意識にする場合とがありますが、いずれにせよ、人間の醜悪の極みの部分・一面と言えると思います。相手の人からすれば、その人の醜態たる態度は、嫌らしくしか映らないのにもかかわらず、その張本人は当たり前のように、言い訳や他人のせい、を主張します。


なぜ、人は、明らかに自分の失敗であるにもかかわらず、自分の失敗を認められないのでしょうか?幼稚園・小学生時分は、恐らく、大人である今よりは、失敗に対して真摯に向き合い、素直に、「ごめんなさい」ができたのではないかと思います。ところが、大人になるにつれて、失敗したら自分の責任と認め謝る、という、当たり前の事が容易にできなくなっているのです。様々な要因は考えられますが、自分の失敗と認めるのが、「恥ずかしい」、「怖い」、「苦しい」、「嫌だ」、「プライドが許さない」、「評価が落ちる」などが挙げられると思います。


他人のせいにし、自分のせいと認めなかった場合は、一瞬、自分の責任を回避できたので、楽な気持ちになれたと思いますが、実は、これは錯覚です。実は、自分の責任を他人に転嫁する事で、自分の心の中に記憶として残り、何かのきっかけで、他人のせいにしてしまったその記憶が再び現れたりして、自分を苦しめ、一生引きずったりします。自分のせいなのに、他人のせいにした行為は、当然、不条理な行為です。ですから、その不条理を自分の記憶として、残す事は、自分の中で解決された事にはならず、未消化状態にある、と言ってもいいかもしれません。


他人のせいにして、人生を歩んできた方は、頭の中が結構モヤモヤしていて、大事な問題に直面した時に、しっかりした判断ができない人なのではないかと思います。これは、何事も他人のせいにしてきた為に、物事の善悪が分からなくなってきていて、判断一つにも対応できない、のだと思います。一つ一つの問題に責任をとってこなかった、という人生の蓄積から、判断できない、とも言えるでしょう。


他人のせいにする事で、もし一生苦しむのであるなら、これは大変なことです。それでは、どうしたらいいのでしょうか?答えは簡単です。自分のせい、にすればいいのです。つまり、何か失敗したり、自分に災難が降り懸かってきた時は、自分の至らなかったせいで、こういう結果が自分に起きた、と受け止め、受け入れればよい、という事です。人というものは、不思議なもので、積極的に自分の失敗を認め、受け入れる、と、後に残る事はなく、スッキリするものなのです。(スッキリとは解決している、という事です)「な~んだ、私が悪かったのか。それでは仕方ないよね。自分が馬鹿だったんだから。自分に怒ってもしょうがない。」という感じになります。表面上、失敗を認めつつ、内心、あいつの責任も少しはあるよな、と思っていたなら、スッキリすることはありません。全面的に責任を認めることが、重要なのです。


人間というものは、存在しているだけで、周りに影響を与えていて、時に悪い影響も与えています。本人が、悪い影響を与えようとしていなくても、相手がどう捉えるかは相手に判断が委ねられているので、時に相手を怒らせる場合があります。この場合、相手が勝手に怒ったと捉えるのか、私が気に障るふるまいをしてしまったと捉えるのか、の二つが考えられますが、自分の責任と捉えるのが正しい、わけですから、後者の私が気に障るふるまいをしてしまった、になるわけです。


絶対に、私は悪くない、と思っても、まずは自分に落ち度はなかったか、をしっかり検証して下さい。1%でも落ち度があれば、それは自分のせいにすべきことです。もし、相手にも落ち度があれば、自分の落ち度の反省の弁を述べつつ、指摘してあげればいい事です。他人のせいにする前に、自分のせいではないのか、の謙虚な姿勢が必要であり、これが真実の生き方というものなのです。


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世の中、現在、情報が氾濫しています。これだけ情報が多い中、どれが正しくて、どれが間違っているのか、を正確に判断するのは非常に難しいのが実態だと思います。ですから、恐らく、適当に流したり、肝心な事だけ判断したりして、いちいち細かく突き詰めたりはしないのが日常なのではないでしょうか。


既成の事実についても、正確に判断し、正確に捉えているか、と言えば、少々疑問が残ります。例えば、「不倫」は悪なのか、「退職」は悪なのか、「利益至上主義社会」は善なのか、等々、世間的にはこういう意見が多いですね、という見解を知っているかもしれないが、実際に真実はどうなのか、という観点に立って、とことん突き詰めたり、探求してみたりは、ほとんどしなく、他の人の意見を鵜呑みにしている事が多いのではないか、と思うわけです。これは、よ~く考えてみると、非常に危ない生き方をしているかもしれない訳で、このブログを通して、検証していきたいな、と考えている次第なのであります。


まずは、真実の定義をしないといけませんが、真実とは「嘘偽りのない本当のこと」と言えると思います。世の中、モノを売るために嘘をついたり、善い人間に見せるために嘘をついたり、人間関係を保つために嘘を付いたり、と様々な場面で、様々な人達が、大量に嘘をついている訳で、その煽りでなかなか真実が見えなくなっている、あるいは、見にくくなっているのが、実態だと思います。


では、真実を見る眼を持つにはどうすればよいのか?答えは簡単です。実に、シンプルです。それは、「真実」の話を聴く、「真実」を見る、「真実」通りの行動してみる、という事です。どんどん「真実」と触れあう事で、自分の中に「真実」が入ってくれば、自然に「真実」を見る眼が養われます。但し、「真実」というのは、正直、難しい部分もあるので、容易に理解しようという軽い気持ちでは身に付かない、という事を付け加えておきます。


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