本との気持ち85
五木寛之「新老人の思想」
(幻冬舎新書・本体780円+税)
「人生九十年の時代」と著者は言う。高齢社会が「老人階級」を生みだし、著者自身八十代にあって「自立」をめざし「ではどうすればいいのか」と自問を繰り返しながら筆を進める。それにしても肝心なのは健康でいることが当たり前に大事なように、その当たり前に努力することしかないのではないかと、著者より充分若いのに寄る年波にある我が身はいたく考えさせられてしまったのだ。特に「自立」を文字通り「立つこと」、身体として立つことにあるという著者の持論に。歩き始めるのはその立ててからでなければ腰痛も治らないのだし治まらないようにと著者の持病に悩んだ説得力は充分重い。老いていく存在であることを忘れないで、と序章を結ぶ。
次章の先では「老人階級」を「新老人」のことと言っているが、その実在の一人に深沢七郎をあげている。彼の生き方には音楽でいうところのメロディーよりもリズム感にあると言うのだが、そこには老いを感じさせない躍動感のようなものと、その反対にぶれない自分を固持しているところもあると言う。今の時間をしっかりと実感の伴ったものにして前へ進む。老いとはそんな生き方をして死にゆくことであると教えてくれる。
しかし、そうは言っても人間は生きているだけでも大変なのだ。確かに生きようとするのは欲望でもあるが、「生きて地獄、死んで地獄」確かな手応えのある人生なんてどれほどのものか、歳をとれば心の裡に諦めも生じて当然だ。「ではどうすればいいのか」。人はいつかは必ず死ぬ。だからその天命に従って「ナチュラルな老化」を受け入れる生き方、老い方、死に方をすべきである。その覚悟のほどが実感につながる。諦めるのではない。明らかにする。老いるほどに生きる姿勢が問われるのだ、ということだ。そして、くれぐれも人間は自然の一部なのだということ。著者は泰西の歴史や人物を語りながら、現代社会をも見つめ、己という「老い」がその歴史の時間帯を歩んだ一部のまた一部の存在であることを実感しながら綴っている。その実感を共有できる一冊であった。
新老人の思想 (幻冬舎新書)/五木 寛之

¥819
Amazon.co.jp
(幻冬舎新書・本体780円+税)
「人生九十年の時代」と著者は言う。高齢社会が「老人階級」を生みだし、著者自身八十代にあって「自立」をめざし「ではどうすればいいのか」と自問を繰り返しながら筆を進める。それにしても肝心なのは健康でいることが当たり前に大事なように、その当たり前に努力することしかないのではないかと、著者より充分若いのに寄る年波にある我が身はいたく考えさせられてしまったのだ。特に「自立」を文字通り「立つこと」、身体として立つことにあるという著者の持論に。歩き始めるのはその立ててからでなければ腰痛も治らないのだし治まらないようにと著者の持病に悩んだ説得力は充分重い。老いていく存在であることを忘れないで、と序章を結ぶ。
次章の先では「老人階級」を「新老人」のことと言っているが、その実在の一人に深沢七郎をあげている。彼の生き方には音楽でいうところのメロディーよりもリズム感にあると言うのだが、そこには老いを感じさせない躍動感のようなものと、その反対にぶれない自分を固持しているところもあると言う。今の時間をしっかりと実感の伴ったものにして前へ進む。老いとはそんな生き方をして死にゆくことであると教えてくれる。
しかし、そうは言っても人間は生きているだけでも大変なのだ。確かに生きようとするのは欲望でもあるが、「生きて地獄、死んで地獄」確かな手応えのある人生なんてどれほどのものか、歳をとれば心の裡に諦めも生じて当然だ。「ではどうすればいいのか」。人はいつかは必ず死ぬ。だからその天命に従って「ナチュラルな老化」を受け入れる生き方、老い方、死に方をすべきである。その覚悟のほどが実感につながる。諦めるのではない。明らかにする。老いるほどに生きる姿勢が問われるのだ、ということだ。そして、くれぐれも人間は自然の一部なのだということ。著者は泰西の歴史や人物を語りながら、現代社会をも見つめ、己という「老い」がその歴史の時間帯を歩んだ一部のまた一部の存在であることを実感しながら綴っている。その実感を共有できる一冊であった。
新老人の思想 (幻冬舎新書)/五木 寛之

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