本との気持ち62
「百寺巡礼 第一巻・奈良」五木寛之
(講談社文庫・本体590円)
古寺名刹を訪ねた本には和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」などの名著がある。伍するまでもなく本書もその博学ぶりは負けていない。「親鸞」「蓮如」なども著しているだけに宗教一般について論じるあたりはまさしく博覧強記と言える。10巻100寺というスケールも前代未聞であろう。平穏な文体に和ませられながら1寺ずつめぐってみることにする。
本書第1巻では奈良の10寺を探訪している。それらの目の付けどころが実に印象的である。
第1番の室生寺では、五尊像よりもその影にある聖観音菩薩らしい仏像に心を惹かれる。そういうように思わぬものに目をやるということは、そこに本来の自分を発見するということでもあろう。五木の目はいつも新しい。意外と小さく感じた五重塔を仰ぎ見て母を想うのも、室生寺が「女人高野」と呼ばれることとつなげて思い出す。第2番の長谷寺でも、目に見えないものへの信仰こそが宗教心であり分からぬままでもひたすら祈ること、そして生きているあるがままで良いとする心の発見は寺探訪の究極の域だ。3番の薬師寺の新旧の塔には、その遠い時代の隔たりを思い測ることができる、と夢のような発見もしている。4番唐招提寺では、北原白秋が「目の盲ひて幽かに坐(ま)しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触りつつありき」と詠い、晩年視力が落ちた悩みを失明の鑑真和上座像に見て救済を得たと説き、また5番秋篠寺では、作家堀辰雄が戦時に背を向け大和路や秋篠寺の伎芸天を書いた生き様に「見えざる『反戦』という意志が伝わる」と言っている。
次の6番には法隆寺を訪ね、五木は親鸞が聖徳太子に心寄せたわけを探る。それは共に在家のままに妻帯し仏に救いを求めた姿勢にあると。7番の中宮寺では、寺は太子が母の死を弔うために建て、次いで妻を失うとその翌日に太子も亡くなったという言い伝えに感動している。
さて、7番の中宮寺には有名な半跏思惟像がある。五木はその組んだ右足の裏を見て、自分も同じ扁平足の「わらじ足」だから不思議と深遠な親しみを感じると言う。そんなユーモアな見方を仏像にできるところが五木の大衆小説家らしさが見えて面白い。かの和辻哲郎は「口元に寄せた美しい指先に震いつきたい」と言い、亀井勝一郎は「漆黒の全身が燃えるように輝いて見える」と書いた。また8番の飛鳥寺でも、五木は釈迦如来像の頭部が傾いで見えて「自分が訪れるのを待ってくれていたようだ」と言い、9番の當麻寺では中将姫像を「大和のモナリザ」と呼び、その半開きの唇の艶かしさに「煩悩の炎がめらめらと燃え上がりそうだ」と勝手な想像を愉しんでいる。
最後の東大寺では大仏は初めもっと高かったし、全身キンピカだった。大仏が野ざらしの時代もあったということのように、この五木の文章を読めば、多くの誰もがどこの寺や仏像などを見てもそれまでとはだいぶ違った感慨を抱き新しい発見をするにちがいない。もちろん本書にはどの寺についても歴史的な記述がたくさんあるが、肩の力を抜いて五木の感じ方の面白さを探して読み進むと10巻は結構楽しめそうである。次巻からの期待が膨らんだ。
百寺巡礼 第一巻 奈良 (講談社文庫)/五木 寛之

¥590
Amazon.co.jp
(講談社文庫・本体590円)
古寺名刹を訪ねた本には和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」などの名著がある。伍するまでもなく本書もその博学ぶりは負けていない。「親鸞」「蓮如」なども著しているだけに宗教一般について論じるあたりはまさしく博覧強記と言える。10巻100寺というスケールも前代未聞であろう。平穏な文体に和ませられながら1寺ずつめぐってみることにする。
本書第1巻では奈良の10寺を探訪している。それらの目の付けどころが実に印象的である。
第1番の室生寺では、五尊像よりもその影にある聖観音菩薩らしい仏像に心を惹かれる。そういうように思わぬものに目をやるということは、そこに本来の自分を発見するということでもあろう。五木の目はいつも新しい。意外と小さく感じた五重塔を仰ぎ見て母を想うのも、室生寺が「女人高野」と呼ばれることとつなげて思い出す。第2番の長谷寺でも、目に見えないものへの信仰こそが宗教心であり分からぬままでもひたすら祈ること、そして生きているあるがままで良いとする心の発見は寺探訪の究極の域だ。3番の薬師寺の新旧の塔には、その遠い時代の隔たりを思い測ることができる、と夢のような発見もしている。4番唐招提寺では、北原白秋が「目の盲ひて幽かに坐(ま)しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触りつつありき」と詠い、晩年視力が落ちた悩みを失明の鑑真和上座像に見て救済を得たと説き、また5番秋篠寺では、作家堀辰雄が戦時に背を向け大和路や秋篠寺の伎芸天を書いた生き様に「見えざる『反戦』という意志が伝わる」と言っている。
次の6番には法隆寺を訪ね、五木は親鸞が聖徳太子に心寄せたわけを探る。それは共に在家のままに妻帯し仏に救いを求めた姿勢にあると。7番の中宮寺では、寺は太子が母の死を弔うために建て、次いで妻を失うとその翌日に太子も亡くなったという言い伝えに感動している。
さて、7番の中宮寺には有名な半跏思惟像がある。五木はその組んだ右足の裏を見て、自分も同じ扁平足の「わらじ足」だから不思議と深遠な親しみを感じると言う。そんなユーモアな見方を仏像にできるところが五木の大衆小説家らしさが見えて面白い。かの和辻哲郎は「口元に寄せた美しい指先に震いつきたい」と言い、亀井勝一郎は「漆黒の全身が燃えるように輝いて見える」と書いた。また8番の飛鳥寺でも、五木は釈迦如来像の頭部が傾いで見えて「自分が訪れるのを待ってくれていたようだ」と言い、9番の當麻寺では中将姫像を「大和のモナリザ」と呼び、その半開きの唇の艶かしさに「煩悩の炎がめらめらと燃え上がりそうだ」と勝手な想像を愉しんでいる。
最後の東大寺では大仏は初めもっと高かったし、全身キンピカだった。大仏が野ざらしの時代もあったということのように、この五木の文章を読めば、多くの誰もがどこの寺や仏像などを見てもそれまでとはだいぶ違った感慨を抱き新しい発見をするにちがいない。もちろん本書にはどの寺についても歴史的な記述がたくさんあるが、肩の力を抜いて五木の感じ方の面白さを探して読み進むと10巻は結構楽しめそうである。次巻からの期待が膨らんだ。
百寺巡礼 第一巻 奈良 (講談社文庫)/五木 寛之

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