クリスチャンは嫌い | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「神を信じること キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉙」
私が聖書の神さまに確信を得たのはこの御言葉です。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

(マタイによる福音書11章28~30節)

まさに、神さまとはどういうお方なのかを言葉で言い現わしている御言葉です。

聖書の中の聖書の一つです。

しかし、初めに導かれたプロテスタント福音派の教会では、聖書の中の聖書と定めたヨハネの福音書3章16節を根拠に、イエス・キリストを信じたクリスチャンは義とされて天国へ行くが、信じていない人々は滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行くという教えです。

すると、無限大の重荷を負わされて、休むどころではなくなりました。

愛する人々や関わっている人々を地獄行きから救わなければならないからです。

教会で仲良くなった兄弟姉妹は、その重荷に耐えられないこともあり、牧師やクリスチャンたちにつまずき、教会を離れて行き、ほとんどがクリスチャンをやめました。

しかし、プロテスタント福音派の教会があっている人たちも多くいるので、その聖書解釈と福音理解も正しいと内村鑑三は言っています。

あっているクリスチャンたちは、その教会で信仰生活を全うしているのは素晴らしいことですね。



しかし、私はあっていなかったので、教会から離れたのですが、2019年の中村哲医師の殉教を通して、キリスト者内村鑑三の聖書解釈と福音理解を知りました。

その教えです。

「わが信仰の真髄は、『神は愛である』ということである。そしてこの前提からして、『神は、キリストによって世を救ってくださった』ということである。」

この教えから次々と御言葉が思い起こされました。

「神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、

慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

(ローマ信徒への手紙9章15,16節)

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。」

(マタイによる福音書12章7節)

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

(マタイによる福音書22章37~40節)

つまり、神は愛であり、隣人を愛しなさいという掟は、神さまが隣人を愛されていて、あわれんでくださることを信じることです。

いけにえ(滅び)ではなく、あわれみ(救い)を信じるだけです。

それで、ようやく休めることができました。

イエスさまは心優しく、へりくだっておられることに確信が持てたのです。

イエスさまのくびきは負いやすく、荷は軽くなければなりません。



サザエさんの著者「長谷川町子」さんも、その教えがあっていました。

「わたしは神に義とされた天国へ行くクリスチャン、あなたは滅びに向かっている罪人」という信仰で生きるのは絶対に無理だったのです。

「わたしは神にあわれみを受けたクリスチャンですが、あなたもすでに神にあわれみを受けている人だと信じています。」という信仰があっていました。

それで荷は軽すぎて、調子に乗って「いじわるばあさん」を描くことができたように思います。

長谷川さんは言いました。

「意地悪こころをひた隠しにするよりも、意地悪をムキ出しにしているけど、シンは温かいのが好きです。」

それはクリスチャンの長谷川町子さんそのものでした。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」

(ヨハネの手紙第一1章8節)



そして、私や長谷川町子さんのあっている聖書解釈と福音理解は、聖書に書かれている「何もかも捨てて主イエス・キリストに従って参りました。」というクリスチャンではありませんが、神さまは、ありのままであわれんでくださることを信じて、宣べ伝えています。

しかし「何もかも捨てて主イエス・キリストに従って参りました。」ということを証しされているクリスチャンたちの中に「マザーテレサ」がいますが、マザーテレサも内村鑑三の聖書解釈と福音理解と一致していたのです。

長くなったので、次回へ続く