「日本におけるキリスト教 99 非常に耐えられない重荷を負うクリスチャンたちについて」
私が聖書を徹底的に調べると「イエス・キリストを信じていない」という理由では絶対に地獄に行かない。」ということを確信しています。
以前は「イエス・キリストを信じない人々は、罪を赦されることがないので、最後の審判において永遠の火に入れられる。つまり永遠の地獄に行く。」という聖書解釈と福音理解のキリスト教会に所属していました。
その教会に所属していた年月は、非常に耐えられない重荷を背負わされていました。
なぜなら、私の家族、親戚一同、友達家族、世話になった人々、大好きな歌手、俳優、スポーツ選手は全員がイエス・キリストを信じていないからです。
その愛する人々が、このまま死ねば、永遠の火に入り、永遠に地獄の炎の中でもがき苦しむことになるのです。
このイエス・キリストの教えは、なんて無慈悲で冷酷非道なのでしょう。
その愛する人々が地獄行きから救われるためには、クリスチャンの福音伝道にかかっているのです。
なんて、非常に耐えられない、苦しすぎる、悲しすぎる、苦痛に満ちた重荷でしょうか。
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しかしながら、自分自身はイエス・キリストを信じているので、永遠の命を得て、過去・現在・未来におけるすべての罪は赦されているという教えによって、自分自身は救われているので安心して暮らしていたのです。
人間は自分自身がよければ、他人はなんとかなるさというような、とても都合よく生きていけるものです。
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しかし、プロテスタント教会は情け容赦なく、さらに大きな恐怖を与える聖書解釈と福音理解を植え付けます。
それが、ヨハネの黙示録の「反キリストが支配する大患難時代」の教えです。
ヨハネの黙示録13章1~18節&14章9~12節
抜粋して引用します。
「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。
竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。
そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。
竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」
この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。
獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。
地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。
剣で殺されるべき者は、剣で殺される。
ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。
この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。 そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。
更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。
この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。 ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
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「また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。
『だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、
その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。
その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。』
ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」
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現在、多くのプロテスタント教会が、このヨハネの黙示録で書かれている反キリスト(二匹の獣と竜)が支配する大患難時代に突入するのは近いと教えています。
しかし、この大患難時代に突入する前に本当のクリスチャンは天に引き上げられる「携挙」があり、本当のクリスチャンではなかった者と、イエス・キリストを信じない人々は地上に取り残されるという聖書解釈と福音理解を教えている教会が多いです。
その大患難時代前携挙説の小説「レフト・ビハインド」は何本か映画制作されて、そのビデオを鑑賞したクリスチャンは多いです。
プロテスタント教会でも「大患難時代前携挙説」と「大患難時代中携挙説」、「大患難時代後携挙説」と3つの解釈に分かれていますが、「大患難時代前携挙説」を教えている教会が急増しているようです。
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いずれにしても、ヨハネの黙示録が教える「大患難時代」は非常に恐ろしいものです。
「この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。」
「獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」
「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。 」
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クリスチャンになったことにより、周りのすべての愛する人々が、このまま死ねば、最後の審判で永遠の火に投げ込まれると教えられて、非常に耐えられない重荷を背負わされました。
そして、クリスチャンになっても、大患難時代があり、取り残されて、獣の像を拝んだり、獣の刻印を受けると、神の怒りのぶどう酒を飲み、火と硫黄で苦しめられることになるという、非常に耐えられない重荷を背負います。
つまり、二重の非常に耐えられない重荷を背負わされているのです。
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しかしながら、この二重の非常に耐えられない重荷を背負わされているのは真面目な平信徒と、信仰歴が浅いクリスチャン、求道中の人たちが多いと思います。
平信徒のレベルで、本当のクリスチャンと認めてもらえるだろうか?と悩んでいる人の声をよく聞きました。
私自身もかなり不安でした。それで、礼拝と祈祷会の出席に力を入れて、献金や奉仕などをがんばったものです。
ですが、それも動機が不純と思われないだろうか?と余計に不安になったものです。
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けれども、牧師や伝道師、宣教師、執事や信徒リーダーたちは、信仰がしっかりしていると自負しているので、大患難時代に取り残されるとは思っていないというのが伝わってきました。
また、不真面目なクリスチャンたちは適当にクリスチャン生活を送っているので、深く考えることはないと思います。
しかし、深く考えると重すぎる重荷に気づくでしょう。
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さて、聖書には、イエスさま御自身が次のように教えておられます。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイによる福音書11章28~30節」
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この世に生きていれば、病いの心配が常にあります。
また、人間関係のトラブル、交通事故、ケガ、事件事故、火事、地震や台風などの災害はいつ自分や家族、友人などに降りかかるかわかりません。
関東大震災や南海トラフ巨大地震などの大震災が起きれば、日本は相当なダメージを受けて、失業者は急増します。
新型コロナウイルス禍が世界を襲った時、休業に追い込まれたり、ワクチン接種で亡くなったり、ワクチン接種していないという理由で解雇されたりしました。
また未曾有のウイルスに襲われる可能性もあります。
なので、すべての人は、重荷を負うて苦労していると思います。
イエス・キリストは「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われました。
神さまは柔和で心のへりくだった者であるから、神さまのくびきを負うて、神さまに学ぶと、あなたがたの魂に安らぎが与えられると言われるのです。
神さまのくびきは負いやすく、荷は軽いからです。
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つまり、クリスチャンになれば、重荷は取り除かれて、休むことができて、魂に安らぎが与えられます。
それゆえ、聖書解釈と福音理解においても当然に重荷が取り除かれて、休むことができて、魂に安らぎが与えられる聖書解釈と福音理解になるのです。
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このヨハネの黙示録の大患難時代の教えにおいてもそうです。
長くなったので、次のブログ記事で、イエスさま御自身が教えられる世の終わり、反キリストについて見ていきます。
すると、ヨハネの黙示録の大患難時代というのも、重荷が取り除かれます。