「日本におけるキリスト教 28 聖書の教えに反すること」
聖書を読めば、地上でのイエス・キリストが行われている「救い」の御業が明確に教えられています。
ルカ7章に最もわかりやすく教えられているので、ピックアップしてみました。次のようになります。
ナインの町のやもめとなった母親のひとり息子が死んで、担ぎ出されるところへ、イエスさまが来られて、はらわたがちぎれるほどの痛みをおぼえられて、そのひとり息子を生き返らせてくださいました。
それを見た人々は「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神を崇めた。イエスについてのこの話がユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。
バプテスマのヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。
すると、ヨハネは「おいでになるはずの方はあなたですか?それとも他の方を待つべきでしょうか?」と弟子たちに尋ねさせた。
ちょうどその頃、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊から癒し、また多くの盲人を見えるようにされた。
そして、答えてこう言われた。
「あなた方は行って、ヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人が清められ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい人に福音が宣べ伝えられています。」
*
「イエスさまの救いの福音」は、イザヤ35章に預言されていた通りでした。
「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力をこめ、よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。』
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊りあがる。
口のきけなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れる。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主ご自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」
これが、イエス・キリストによる救いの福音です。
*
この聖書に書かれている「救い主イエス・キリストの救いの福音宣教」が行われていたので、祭司長とパリサイ派の人たちは「すべての人があの人(イエス・キリスト)を信じるようになる」と断言するのでした。
現在の日本人が、その聖書に書かれている「救い主イエス・キリストの救いの福音」を知れば、「まさにその通りだ!。それこそが真の神さまの救いだ!」と思うでしょう。
我が子を亡くした親のところでは、死んだ我が子を生き返らせてくださり、見えない人は見えるようにされ、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、歩けない人は歩けるようになる。
口のきけなかった人は喜び歌えるようにしてくださり、医者から見放された人の病いを癒してくださる。
まさに神は来て、あなたたちを救われる。荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れ、喜びと楽しみが迎えて、嘆きと悲しみは逃げ去る。と聖書に書かれてある通りになります。
それが、聖書に書かれているイエス・キリストの救いの福音です。
※
無教会の内村鑑三先生は、その「イエス・キリストの救いの福音」を「普遍的救済」と名付けて、万人救済説である数々の御言葉から「普遍的救済の神の愛の福音」を宣べ伝えました。
今回はその中の一つを取り上げました。
「コリント前書十五章二十二節は次のごとくに読むべきである。
アダムにありてすべての人の死ぬるごとく、キリストにありて『すべての人は生くべし』と。
この場合において、前半部が万人堕落説を教うるに対し、後半部は万人救済説を伝う。
人類全部が第一のアダムの罪によりて死にしがごとく、人類全部が第二のアダムすなわちキリストによりて生くべし、救わるべしとのことである。
前の「すべて」は人類をさし、後の「すべて」は信者をさすとの説明は立たない。
またコロサイ書3章十一節に、キリストは万物の上にあり、また万物の中にありとある。ここに、万人にとどまらず万物の救いまでが暗示されてある。
それのみでない、『神は愛』と聞いて、万人救済の希望が響き渡るのである。
愛そのものでいましたもう神が、少数救済をもって満足したもうとはどうしても思えない。」
*
私は、この内村鑑三先生の万人救済の教えを知った時に、本当のクリスチャンになれました。
それまで長くプロテスタント福音派の教会に在籍していて、「生前にイエス・キリストを信じなければ地獄へ行く」という「イエス・キリストの救いの福音」に耐えられない重荷を背負い続けていたからです。
また、聖書に書かれている「イエス・キリストの救いの福音」は前述に書いているように、すべての人が喜びと楽しみが迎えられて、嘆きと悲しみは逃げ去るという救いの福音です。
それが、福音派では「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3:36」
「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:15」など、神の怒り、神のさばき、地獄へ行くという聖書箇所だけを取り上げて、
「天国か地獄かというイエス・キリストの救いの福音」に仕立て上げているのです。
日本では、クリスチャンはわずか1%弱です。
なので、私も家族も祖父母も親友も学校や職場の人々も、大好きな俳優や歌手、有名人もイエス・キリストを信じていないという現状の人が圧倒的に多いです。
ですから、「イエス・キリストを信じていない人は救われないので地獄へ行く」という福音を聞けば、恐怖です。嘆きと悲しみと苦しみが支配します。
また、愛する人を亡くした人たちが聞けば、怒りと憤りに満たされるでしょう。
ですから、福音派が教える「イエス・キリストの救いの福音」は、神の怒り、神のさばき、地獄行きという聖書箇所には忠実ですが、イエスさまが行われて教えられた救いの福音と、愛の教えの聖書箇所には反抗しています。
*
それから、人がイエス・キリストのところに来るということはどういうことかという最も重要な御言葉「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。マタイ11:28~30」という教えにも反することになります。
内村鑑三先生は、福音派の教えに対して「私だけが救われて、他の人たちは救われていないという現状に耐えられない!」と叫びました。
私の家族、祖父母、親友、生きる希望を与えてくれた恩人や有名人たちが、次々とイエス・キリストを信じることができないで亡くなっていけば、耐えられない重荷です。
それで精神障害になったり、自殺志願者になったり、その一歩か二歩手前のクリスチャンも少なくありません。
*
クリスチャンになる前は、自分や愛する人たちが地獄へ行くなど考えたこともないという人が多いと思います。
「こんな自分は地獄へ行くだろうな。」と思う人は、地獄といっても永遠に炎の中で苦しむ地獄(仏教の無間地獄)へ行くとは思っていないはずです。
仏教の教えでも「地獄」はありますが、地獄にも階級があり、希望や救いがあるという教えです。最も残酷な階級の地獄は「無間地獄」で炎の中でもがき苦しむというものです。
プロテスタント教会が教える地獄というのは一つしかなく、永遠に炎の中でもがき苦しむ地獄だけです。
どんなに評判の良い人でも、生前にイエス・キリストを信じていなければ、永遠に炎の中でもがき苦しむ地獄へ行きます。
*
例えば、学生の頃から、貧困で飢えで苦しむ子供たちを助ける働きにすべてを捧げて、道路に飛び出した子供を救うために犠牲になって若くして亡くなった人でも永遠の地獄行きとなります。
しかし、何人もの少女たちを汚し続けた牧師やクリスチャンは、その悪の行為がやめられないままで死んでも、天国に行くという福音理解です。
あくまでも、イエス・キリストを信じていなければ、罪が赦されることがないので地獄へ行く。しかし、イエス・キリストを信じれば、クリスチャンになる前からクリスチャンになった後のすべての罪が赦されるので、天国に行くという聖書解釈と福音理解です。
※
カトリック教会の晴佐久昌英神父の「あなたはすでに救われている」という普遍的な福音は、無教会の内村鑑三先生の普遍的救済の万人救済説の教えと同じで、神の怒り、神のさばき、地獄行きの聖書箇所に対しては反していると思われますが、
最も重要な教え、イエス・キリストのもとに来れば重荷をおろせて、休むことができる御言葉通りです。
また、最も大切な聖書に書かれている「イエス・キリストの救いの福音」のように、喜びと楽しみが迎えて、嘆きと悲しみは逃げ去るという福音です。
*
この1%弱がクリスチャンという現状の日本では、内村先生が言われる通りに、プロテスタント教会が教える福音は「少数救済説」となっています。
そして、著書「証し キリスト者」によって、日本全土に伝えられている無教会の荒井克浩伝道者やカトリックの晴佐久昌英神父の教えは、内村先生が言われる「万人救済説」になるでしょう。
*
プロテスタント教会(主に福音派)の「天国か地獄か」という福音と、無教会の内村先生とカトリック教会の晴佐久神父の「普遍的救済」という福音、どちらも、聖書のすべての教えに忠実ということはありません。
いくつもの聖書箇所には反していると言えます。
なので、どちらが自分に合っているのか、どちらも合わず、違う教えもあるでしょう。
次は、いくつもの聖書箇所に反することについて、書いていきます