現在(&死後)についての福音 ④ カトリック教会 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「死後についての福音④ カトリック教会」

 

現在の日本は未だかつてない苦難の時代に突入しています。

死者が急増し、免疫力が低下して体調不良を訴える人も急増しています。救急車のサイレンを毎日、何度も聞きます。

 

それゆえ、恐怖や不安からの救いを求める人たちのために、クリスチャンとしては「イエス・キリストの福音」はとても重要な鍵です。

 

個人的には「カトリック教会の福音」は日本の福音宣教の光になると思っています。

 

けれど、前もって伝えますが、私は長年「福音派」に所属していましたので、福音派の神学をよく知る者です。

 

しかし、アフガニスタンで殉教された中村哲先生を通して、無教会の内村鑑三先生の教えに感動し、サザエさんの著者の長谷川町子先生を通して、内村先生の弟子の矢内原忠雄先生の教えに共感して「無教会」になりました。

 

さらに、矢内原忠雄先生は、新渡戸稲造先生のフレンド派の教えを受けている「二刀流クリスチャン」ということに、深く感銘しました。

 

そして、内村先生の「教会に行くならカトリック」ということから、カトリック教会の福音も取り入れた、いわば無教会・フレンド派・カトリックの「三刀流クリスチャン」の信仰を学んでいる者なので、まだカトリック教会の教えは一つしか知りません。

 

なので、カトリック教会の方々から見れば偏っていると思われるかも知れませんが、ご了承ください。

 

 

一つの教えとは「無名のキリスト者」で有名なカール・ラーナーの教えです。

 

この「無名のキリスト者」の教えが、第二バチカン会議において、カトリック教会の未信者と他宗教者に対する福音を劇的に真逆にひっくり返したと言われています。

 

第二バチカン会議以前のカトリックは、三世紀のキプリアスス司教の「教会の外に救いはない!」という基本的姿勢で、未信者と異教徒に対して来ました。

 

未信者や異教徒は永遠の命に参与できないことがカトリック教会の教義として定義されていました。

それが、第二バチカン会議で真逆にひっくり返ったのです。

 

異教を敵視して、プロテスタントを異端者として弾圧していた一時代とは隔世の感がありました。

それは「カトリック教会の回心」と言われています。

 

 

そのカトリック教会改革の牽引力となったのが、神学者「カール・ラーナー」師です。

 

カール・ラーナー師の神学は、「人間の本質が、神の啓示に向かって開かれていることという事である限り、換言すれば人間が霊であるかぎり、人間はキリスト者であろうとなかろうと、啓示の光に照らされている。」

 

つまり、イエス・キリストを信じない人たちは「無名のキリスト者」ということなのです。

 

その教えに対して「非キリスト者を無名のキリスト者とみなすことは思い上がりだ!」という批判非難の声があります。

 

しかし、ラーナー師の教えは御言葉にあります。その一つは

「教会は非キリスト者に対して、パウロと同様の態度で相対するのであるとして、パウロの『あなたたちが知らずに拝んでいるものを、私はあなたたちにしらせてあげよう。』という福音であるべき。

 

こうして、人はあらゆる非キリスト教的宗教や、非キリスト者に対して、寛容で慎み深くありえるのです。」ということです。

 

 

ラーナー師は「イエス・キリストにおいて、神が赦しと愛として我々に語った、御自身の絶大な神秘を現わす御言葉であります。

人間は信じ、望み、愛しつつ自己の実存の痛みに満ちた暗闇を受け容れる時に、その御言葉において、それに向かって自己を肯定するのである。」

 

「キリスト論は、人間論の終わりであり初めであり、人間論を最も徹底的に実現したものとしてのキリスト論は、永遠に神学である。」などと、

 

人間中心的方向を取る神学を多くの個別分野、三位一体論、恩恵論、終末論、救済史論などにおいて発展させました。

 

非キリスト者(未信者)であっても、神は近くにいて、神の恩恵を受けることができるのです。

なので、非キリスト者(未信者)ではなく、「無名のキリスト者」なのです。

 

「日本で最も愛されているクリスチャン」と言われているカトリック教会の「マザーテレサ」が同じ信仰でした。

 

貧しい人々は、ヒンズー教徒であっても、イスラム教徒であっても「イエズス(キリスト者)」なのです。

その進化させた教えが「晴佐久司祭」の「普遍的な神の愛の福音」です。

 

「救われていることに目覚めて、救われる」という教えです。

 

 

あのパウロもそうでしたね。

以前のサウロの時代、イエス・キリストとクリスチャンを憎み、迫害していました。

 

その時、クリスチャンたちの目から見れば、「地獄へ行く悪魔の子」と思えましたが、イエスさまの御目には「異邦人を救う神の子」でした。

 

ある日突然に、クリスチャンたちは知らないけれど、ダマスコでイエスさま御自身がサウロと逢ってくださり、大いなる恩恵と寛容を示されました。

 

 

イエスさまが「人」として地上に来られ、十字架上で「人」として死なれる時、ムチを打ち、からかい、あざ笑い、ののしり、死刑にして喜んでいる人たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください」と言われて、ののしり返さずに死なれました。

 

愛と赦し、大いなる寛容と恩恵の福音を伝えられたのです。

さばきや責めの言葉を一切言われませんでした。

 

ステパノも殉教する時に、その信仰と福音でした。

 

 

同じく、アブラハムの信仰があります。

ソドムとゴモラの罪が非常に大きいので、主が滅ぼされる時、アブラハムは主に対して「塵あくたにすぎない私ですが、あえて、わが主に申し上げます。」と異議を申し立てました。

 

「あの町に50人正しい人がいれば、滅ぼさないでください。」

「ちょっと待ってください、40人にしてください。いえいえ、30人、いえ20人、いや10人いれば」というように交渉しました。

 

そのアブラハムの信仰を、主は大いに喜ばれました。

「10人いれば滅ぼさない」と約束されたのです。

 

結果としてロト一家の4人だけだったので、その4人だけ救われ(ロトの妻は振り返ってしまったので塩の柱となりましたが)ソドムとゴモラは滅びました。

 

しかしながら、人間は神のさばきに関与しなくていい。

ただ人間は死ぬまで、すべての人が救われることを神に嘆願すればいいということがアブラハムの信仰でした。

 

ちなみに内村鑑三先生は、正しい人が0人でも滅ぼさないでください!というような信仰に思えます。

 

そのアブラハムの信仰はこのように言われています。

「信仰による人々が、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのです。ガラテヤ3:9」

 

 

カトリック教会の「無名のキリスト者」、無教会の「十字架のキリスト教」、フレンド派の「悲しみのキリスト教」が共通している信仰の大きな一つのことは、このアブラハムの信仰です。

 

もしも、神が滅ぼすと言われたとしても、人間中心の考えとして「塵あくたにすぎない私ですが、あえて主に申し上げます。滅ぼさないでください」と、人間としての願いを素直に正直に申し上げることが出来る信仰ですね。

 

その信仰を神は喜ばれ、聞き入れてくださると信じる信仰です。

 

「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。」

 

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって、異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって、約束の御霊を受けるためなのです。ガラテヤ3:13~14」