健全なキリスト教会とクリスチャン 日本では宗教に対する恐怖が広がっていることについて ⑪ | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「健全なキリスト教会とクリスチャン 日本では宗教に対する恐怖が広がっていることについて ⑪」

 

少し朝晩は肌寒くなって来ましたね。ブログ記事を見て下さる人たちが急増していますが、健康管理に気をつけてくださいね。

 

さて、前回記事のコメントでこのような指摘がありました。

 

「教会員の方々や牧師の方はこのような記事に対してこう言うでしょう。『そのような異常な教会や牧師があるとしても、それは極端な事例であって、大部分のキリスト教会は健全に運営されている。』と。」

 

確かに、そう言う教会員や牧師が圧倒的に多いと思います。

 

しかし、そのように「私と私の教会は健全です。」と断言する教会員と牧師は、次の御言葉を完全に守っているのでしょうか?

 

新約聖書の初めのほうにマタイ5章の山上の垂訓があります。

その山上の垂訓は、イエスさまが、イエスさまにつき従って来た群衆と弟子たちに教えられたことです。

 

次のように教えられました。

 

「まことに、あなた方に告げます。もし、あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。

 

わたしはあなた方に言います。

兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければなりません。

 

兄弟に向かって『能無し』というような者は、最高会議に引き渡されます。

また『バカ者』と言うような者は、燃えるゲヘナ(火の池)に投げ込まれます。

 

わたしはあなた方に言います。

誰でも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

もし右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。

体の一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(火の池)に投げ込まれるよりは、よいからです。

 

もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(火の池)に落ちるよりは、よいからです。マタイ5:20~30」

 

 

私がクリスチャンになって、新約聖書を初めから読んでいて、6ページ目のこのマタイ5章の山上の垂訓で、ゲヘナ(火の池)に投げ込まれます。という突拍子もない教えにびっくり仰天しました。

 

福音派の教会の教えでは、聖書の地獄行きについての教えはすべて、イエス・キリストを信じていない未信者に対する教えだと思い込まされています。

 

なので、クリスチャンには地獄の話は関係ないと思って読むのですが、神は愛であり、隣人を愛しなさいということを聞いていたので、隣人である未信者に対してかなり厳しく残酷だというような違和感があったものです。

 

 

しかし、無教会になってから聖書を読めば、この山上の垂訓はイエス・キリストを信じて、つき従って来た群衆と弟子たちに教えていることに気づきました。

 

つまり、こういうことです。

 

クリスチャンが、兄弟に対して腹を立てるだけで「さばき」を受ける。

クリスチャンが、兄弟に対して「バカ者」と言うだけで、燃えるゲヘナ(火の池)に投げ込まれる。

 

クリスチャンが、女性に対して情欲をいだいて見るだけで、ゲヘナ(火の池)に投げ込まれる。

クリスチャンが、そのような「義」でないと、決して天の御国に入れないという教えです。

 

ですから、クリスチャンになるということは、ものすごいことなんだなと思いました。

 

 

前回記事では、世の中でも、子どもや未成年の少女を性的虐待や性的暴行をしたことは一度もないということが普通の人だと書きました。

 

なので、世の中では、もしも、性的虐待や性的暴行を一人にでも、一度でも行えば逮捕されて、厳しく罰せられるのです。

 

さらに、教師や警官などの聖職者は、最も厳しく罰せられ、実名報道もあり、解雇処分になります。

それでも、性的暴行や性的虐待は後を絶ちません。

 

そして、イエス・キリストの教えは弟子たちに対して、世の中よりも超絶に厳しいです。「小さき者の一人にでも、つまずきを与える者は、ゲヘナ(火の池)に投げ込まれます。」

 

使徒パウロも教会のクリスチャンたちに世の中よりも超絶に厳しいです。「そのような者をイエスの御名によってさばき、サタン(悪魔)に引き渡しました。」

 

それゆえか、クリスチャンや弟子たちが、子どもや未成年の少年・少女を性的虐待したり性的暴行をしたという事件は、新約聖書に記述がありません。

 

なので、現実に教会で、子どもや未成年の少年・少女を性的虐待する事件が次々に明らかにされているのは異常事態だということです。

 

 

ですが、教会の多くの人たちは「それは、ごく一部の教会だけで、私の教会は健全だ。多くの教会は健全なんだ。誤解してはいけない!」と反論するでしょう。

 

だけど、教会に所属する聖職者と教会員の全員の隠されていることをすべて把握することは不可能です。

 

裏で何が起きているかはわからないというのが現実でしょう。

 

アメリカの巨大教会のハイポイント教会もそうでした。

20年前に性的暴行を受けたウッドソンさんが、ブログ記事で告白したことで発覚したのです。

 

もしもウッドソンさんが告白しなければ、ハイポイント教会は20年前に陰で性的暴行事件が起きているのに「健全な教会」のままでした。

 

チャーチトゥの働きでは、世界中にハイポイント教会のような教会はかなり多いと推測しています。

 

被害者は、被害にあったことを告白することが困難だからです。

 

 

そして、前述の山上の垂訓の教えがあるのです。

 

アメリカで、クリスチャンを対象にしたデーターでは、実に48%がポルノ(AV)=裸の女性や性行為を見て楽しんでいるというデーターがあります。

 

自分自身もそうです。

公園で野球やテニスの練習をほぼ毎日しているのですが、その公園にポルノ雑誌やポルノDVDが捨てられている場合があります。

 

初めのうちは「なんだ、こんな物!」と、子どもたちが来ないうちにゴミ箱の奥のほうに捨てるのですが、ある時、表紙の裸の女性がすごく綺麗で、見とれてしまい、持ち帰ったことがあります。

 

数日後、後悔して捨てたのですが、その女性の名をインターネットで検索するとAV女優で、その動画がボタン一つで無料で観覧できるのです。

それで、その誘惑に負けることもありました。

 

AVを見れば、次の日はそのシーンを思い出すことがあります。それで女性と会えば、好色の思いから切り替えるのに大変です。

 

また、インターネットや新聞を見ていれば、昔に大好きだったアイドルや女優が脱いだとか、ベッドシーンという情報が飛び込んで来ます。

すると、絶対に見たくなるものです。

 

清純派というアイドルや女優が脱ぐケースも少なくはないので、困ったものです。

清純派で脱がないアイドルや女優は助かります。

 

 

また「バカ者」と言う者はについても、面と向かって言うことはないのですが、「この人はバカだな」というように思うことはよくあります。

 

つまり、山上の垂訓の教えに当てはめれば、自分自身は白ではなく、グレーだということです。

 

このグレーになる人は、神の御目には、クリスチャンでも世の中の人々もすべての人がそうだと思います。

 

グレーということは「健全」ではないし、「義人」ではないということです。

 

 

聖書には「イエスを信じる者を義とお認めになるためです。」と教えています。

 

では、どうしてイエスさまは、イエスを信じる者に対して、ゲヘナ(火の池)に投げ込まれます。という教えをするのでしょうか。

 

 

個人的に思うことは、福音派の教会は、世の中よりも「誘惑」が強いということです。

 

例えば、世の中では、よく知らない男性が関係のない他人の子どもに触れることは出来ません。

 

そんな事をすれば、親から烈火のごとく注意されるでしょう。

 

しかし、教会では簡単に触れることが出来ます。

 

教会に来たばかりのよく知らない男性でも、教会は大歓迎で、「神の家族」の一員になってもらいたいと受け入れます。

 

その男性が、子どもが好きならば、教会に来ている子どもたちと一緒に遊んだり、話をすることが出来ます。

 

プロレスごっこと言って、抱きかかえたり、肩車してあげようと言って、胸や下半身の大事なところを手でつかんで揉んだりすることも出来ます。

 

また、赤ちゃんの紙おむつを替えることまですれば、「新しく来た男性は素晴らしいね~良い人が教会に来てくれた」と喜ばれます。

 

そのうち、誘惑にかられ、トイレに連れ込んで、いたずらしていた可能性もあります。

 

小学生の女の子と男性が一緒にトイレから出て来て、驚いたことがあります。

これは実話に基づきます。

 

 

また、教会では、家庭に問題がある子を守るために引き受ける場合があります。

そういう子はすごく寂しがりやです。

 

中には父親のぬくもりを求めて、おじさんに体を密着させて来る子もいます。

おじさんクリスチャンは驚きますが、内心は喜んでいます。

 

そのうち、誘惑にかられ、陰では、その子が喜ぶからと、二人きりで会い、キスしたり、裸にしたり、性行為をしている可能性もある「おじさんクリスチャン」たちもいます。

 

 

教会には、いろいろと問題がある人が次々に来ます。

 

例えば、このような事がありました。あるシングルマザーが教会に来ました。

 

そのシングルマザーは男に色目を使い、体を抱かせることで利益を得ていたようです。

 

教会でも同じことをしていて、何人かの男性クリスチャンは情欲で女を見るようになり、肉体関係を持って、教会につまずき、教会を出て行った人もいたと嘆いていた牧師もいました。

 

その男性版もあります。当時28歳の男性が教会に来て、次々に教会の女性を陰で誘惑しました。

 

そして、純粋だった姉妹たちはその男性が強烈にアピールする好色と情欲に惹かれて、3人以上が付き合いました。

 

牧師がその噂を聞きつけて、問い詰めましたが、「そんな事実はありません!」ときっぱりと否定するので、牧師はその男性を信仰によって信じるしかありませんでした。

 

ところが、教会では三角関係、四角関係など、姉妹たちは傷だらけでした。

その内の女子高生は自殺してしまいました。とても純粋なクリスチャンだったので天国に行って、イエスさまに慰められているでしょう。

 

 

自分自身の体験でも、教会でゴスペル教室を開催した時です。

 

あるピアノ講師が、こちらの難病の子のための音楽活動の新聞記事を見て感動し、お役に立ちたいと連絡がありました。

 

そのピアノ講師を教会に招き入れると、陰で分裂を計画して、教室に通う人やクリスチャンに批判非難を植え付け、「こちらはバカ者」というレッテルをはられて、教会のゴスペル教室は混乱して、15人が教会につまずいて、出て行きました。

 

このような事を言い出せばきりがありません。

 

私たちクリスチャンは、悪魔の策略に立つことができるように、神の武具をつけなくてはならないし、

 

私たちの戦いは、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものだからです。エフェソ6:11,12

 

 

世の中は、よく知らない他人とは一定の距離があるのですが、教会では「誰でも大歓迎」であり、よく知らない人でも初めから「神の家族」のように受け入れます。

 

「隣人を愛しなさい」という教えに堅く立ちます。

それで、教会内がゴタゴタしたという話はよくあります。

 

いくつもの教会に行くと印象にあるのが、ある男性クリスチャンとは距離を置いているように思う女性クリスチャンたちでした。

 

思うに世の中では女性にモテないので、教会の女性クリスチャンと出会って目をつけて、教会に来てクリスチャンになった感じがする男性クリスチャンが少なくなく、

 

つきあえる女性クリスチャンを求めて、教会を転々と渡り歩く男性クリスチャンも少なくないのです。

 

世の中でも、教会でも、女性に相手にされず、しかし、教会では居場所がある。だけど、教会でも疎外感がある。

 

そのような男性クリスチャンが、教会に来ている少女や抱けると思う女性に目をつけて、情欲をいだいて行動を起こしていても不思議ではありません。

 

いずれにしても、被害者が黙する限り、知られることはありません。

 

 

さらに、次のような教えがあります。

 

「私の兄弟たち、あなた方は私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

 

教会にりっぱな服装をした人が入ってくれば『あなたは、こっちの良い席に座りなさい』と言い、

 

貧しい人が入ってくれば、『あなたは、そこで立っていなさい』と言うとすれば、

 

あなた方は、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

 

もし、人をえこひいきするなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。ヤコブ2:1~10」

 

 

教会で、金持ちと貧乏人を差別して、金持ちをえこひいきするなら、すべてを犯した違反者として責められるのです。

 

福音派の教会が継続するために、最も必要なものは「お金」です。

 

教会の建物の家賃、光熱費、牧師と働き人の生活費などが必要不可欠だからです。

 

献金があまり出来ない低収入の貧乏人だけが、何十人も教会に来たとしても、教会は維持できません。

 

だけど、多額の献金をする一人の金持ちが教会に来てくれるだけで、教会は持続できます。

 

ですから、例えば、何人もの貧乏人が教会に来なくなるよりも、一人の金持ちが教会に来なくなることが教会にとって大きな損失です。

 

なので、福音派の教会の牧師は心のどこかで、金持ちと貧乏人を差別、えこひいきしていても不思議ではありません。

 

また、どうしても好きな信徒と嫌いな信徒がいて、差別、えこひいきの気持ちを持ってしまうでしょう。

 

嫌いな信徒が教会に来なくなれば、どこか嬉しいものがあり、好きな信徒が来なくなれば、ショックは大きいです。

 

しかし、そのような差別、えこひいきは「罪」であり、すべてを犯した違反者として責められるのです。

 

 

聖書が教える「健全な教会・クリスチャン」とは、教会に所属しているすべての人が、情欲をいだいて女性を見ることはなく、

兄弟に対して腹を立てることがなく、「バカ者」と思うこともない、

 

誰に対しても、差別やえこひいきすることが一切ないということなのです。

 

 

それなのに、すべてを犯した違反者として責められるのは「イエス・キリストを信じていない未信者」です。

 

永遠の火(地獄)に投げ込まれるのは「イエス・キリストを信じていない未信者」なのです。

 

そのようにすり替えて教えていることもあり、「私も、私の教会も健全です。」と自認する教会員と牧師がほとんどというのが現実だと思われます。

 

 

自分自身は、差別やえこひいきすることがよくあります。

 

どこの場所でも、基本的にすべての人と仲良くなることを心掛けているのですが、相手の態度や言動などによって、好きな人と苦手な人が出来てしまい、どうしても差別してしまいます。

 

好きな人とは毎日でも会いたいし、話をしている時は楽しく、苦手(嫌い)な人とは会いたくないと思うし、お互いに話をしたいとは思いません。

 

ですから、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っている者とすれば、健全とは言えないでしょう。

 

実は、神さまは、そのように自覚することが大切だと教えておられると思います。

 

そのように自覚していれば、このように祈ることが出来ます。

「自分はどうしても話をすることも苦手なんだけど、えこひいきしてしまうのだけど、イエスさまはその人を愛しておられる。その苦手な人が神の愛に触れられますように。」と

 

その祈りによって、神は義と認めてくださるのです。

 

 

だけど、「自分は健全だ。」だと自認している牧師やクリスチャンたちは、自分が差別、えこひいきをしていること、隣人に対して傷つく言葉を言ったこと、情欲をいだいて女性を見たことなどに自覚がないのです。

 

その事について教えられているのが、パリサイ人と取税人の祈りです。

 

「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対して、イエスはこのようなたとえを話された。

 

パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。

 

パリサイ人は、こう祈った『神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者でなく、この取税人のようではないことを感謝します。私は週に二度も断食をし、受けるものはみな、その十分の一をささげています。』

 

ところが、取税人は遠く離れて、目を天に向けようともせず、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った。

 

あなた方に言うが、この取税人が、義と認められて家に帰りました。

パリサイ人ではありません。

 

なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。ルカ18:9~14」

 

 

自分が人を差別してしまう、えこひいきしてしまう、ある事がきっかけでポルノを見てしまって、情欲をいだいて女性を見てしまった。などと自覚して、

こんな健全ではない、罪人をあわれんでください。と祈りをする者は義と認められて高くされるでしょう。

神のあわれみがあるでしょう。

 

ですが、「自分は健全です。」と自認している者は、義と認められず低くされるというのが、聖書の教えです。

そして死に至らない罪と、死に至る罪とがあると教えられているのです。