人に嫌われる人たちとクリスチャン(キリスト教)について | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「人に嫌われる人たちとクリスチャン」について

 

出会った人で、この人とは関わりたくないと思う人がダブルスタンダードの人です。

 

「自分は良くて、相手はダメ」「自分がミスをした時は何事もなかったようにして、相手が同じミスをすると怒る」

「相手によって、意見や対応を変えたり、特定の人だけに忖度をする」

 

このようなダブルスタンダードの人は、信頼を失います。

世の中にはダブルスタンダードの人は多いです。会社の社長や上司がそうなら最悪です。

 

 

なので、神さまを信じる人たちの集まりの中では、ダブルスタンダードがない世界になることを期待していました。

 

しかし、プロテスタント教会の福音派は「聖書の無誤性」に堅く立っています。

「聖書はすべて神の霊感によるもので 第二テモテ3:16」この聖書箇所を根拠として、聖書に書かれていることは全く誤りのない神の言葉として信じているのです。

 

それゆえ、伝家の宝刀のように「聖書にこう書いています!」と断言して教えることが、福音派の人たちの大きな特徴になっています。

 

 

ですが、「聖書にこう書いてあります」という教えは、ダブルスタンダードになることが多々あるのです。

 

例えば、福音派の神学の核となる御言葉がこの箇所です。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。ヨハネ3:16」

 

このヨハネ3:16の御言葉から、「神の御子イエス・キリストを信じた者は永遠の命を持つと聖書に書いてある!」ということになります。

 

だから、福音派の教会では、「イエス・キリストを信じたクリスチャンは永遠の命を持っているのです!つまり、私たちの国籍は天にあります!ハレルヤ!」と揺るがない確信をもって教えられているのです。

 

 

しかし、他の聖書箇所では、イエス・キリスト御自身が更に次のように教えられているのです。

 

「またある役人が、イエスに質問して言った。『尊い先生。私は何をしたら、永遠の命を自分のものとして受けることが出来るでしょうか。』

 

イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを尊いと言うのですか。尊い方は、神おひとりの他には誰もありません。

戒めはあなたもよく知っているはずです。姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」

 

すると彼は言った。『そのような事はみな、小さい時から守っております。』

 

イエスはそれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。

あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。

 

そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。

そのうえで、わたしについて来なさい。』ルカ18:18~19

マタイ19:13~15、マルコ10:13~16

 

 

さらにイエスさまは、こうも教えられています。

「わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。」マタイ7:21

 

つまり、永遠の命を受けるには、イエス・キリストを信じただけではダメなことがわかります。

 

 

そして、この御言葉があります。「わたしの羊はわたしに聞き従います。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠の命を与えます。ヨハネ10:27~28」

 

イエス・キリストを信じた「イエスの羊」はイエスに聞き従います。

 

なので、イエスが言われた通り、持ち物を全部売り払い、貧しい人たちに分けてあげます。

 

そのことが明確に聖書に次のように書かれています。

 

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれ一人その持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。

 

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強く証して、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

 

彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。

 

地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足元に置き、その金は必要に従って、各々に分け与えられたからである。

 

使徒バルナバも畑を持っていたので、それを売り、その代金を持ってきて、使徒たちの足元に置いた。」使徒4:32~37

 

 

これらの御言葉から、聖書が教える「永遠の命を与えられたクリスチャン」というのは、イエス・キリストを信じて、持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分け与えている人だということが明確にわかります。

 

 

さて、現在の日本の教会に属しているクリスチャンで、このような人がいるのでしょうか?

私は数多くの福音派の教会と交流がありましたが、一人もいませんでした。(日本のどこかにいるのかも知れませんが、調べてもわかりませんでした。)

 

また、イエスさまが教えられる「永遠の命を与えること」に聞き従っている教会は、どこに存在するのでしょう?という感じです。

 

 

イエスさまは明確に「永遠の命を受けるには、持ち物を全部売り払い、貧しい人に分け与えなさい。」と教えられ、使徒たちはその教えに聞き従っています。

 

しかしながら、福音派の教会では、そのような人は牧師を筆頭に見当たらないというのが現実です。

 

教会の牧師や伝道師、信者はそれぞれ、自分の持ち物を持っていて、貯金通帳に財産を蓄えています。

 

立派な家や牧師館を所有していたり、高級車で教会にやって来る人たちもいますし、ブランド品に身をまとった牧師と牧師婦人もいます。

 

それで「イエス・キリストを信じた人は永遠の命を与えられます。しかし、イエス・キリストを信じていない人は滅びに向かっていて、そのまま死ねば最後の審判で地獄行きです。」と教えるのはダブルスタンダードになります。

 

聖書の教えでは、イエス・キリスト御自身が、永遠の命を受ける者たちは、御子イエス・キリストを信じて、聞き従い、持ち物を全部売り払い、貧しい人に分け与えた者たちだと教えられているのに、

 

自分は、その教えに聞き従わずにいるのに関わらず「永遠の命を受けた者」と断言して、信じていない者たちを「永遠の滅び・地獄行きの者」だと断言する。

 

このダブルスタンダードの教えに、大勢の人々が心を閉ざしているのが現実です。

 

 

他のキリスト教はどうでしょう。

イエス・キリストを信じても、持ち物を全部売り払い、貧しい人に分け与えるというクリスチャンはそう簡単には見当たらないと思われます。

 

自分の持ち物をしっかりと持っていると思います。

それは「聖書にこう書いてある!」という信仰ではないからです。

 

約2000年前の世界と現在ではまるで違います。

 

日本も江戸時代、明治時代、昭和の戦争時代、平成時代とはまるで違うように

イエスさまは、それぞれの時代背景も配慮される方だと信じているのです。

 

現在、ある人たちやある宗教は、過疎地で、持ち物を全部売り払い、平等に分け与えて集団生活を送っています。

ですが、いろいろと問題もあります。

オウム真理教も初め、表面上はそうでした。

 

ですから、「聖書にこう書いてある」と言って、約2000年も前の時代と同じようにしなくてもよい場合があるという考えです。

 

 

例えば、聖書には「しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。」マタイ15:24という御言葉があります。

 

この聖書箇所から、「イエス・キリストはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていないのです!」と断言して教えている海外の教会がいくつもあるそうです。

 

なので、聖書にこう書いてあるからといっても危険な考えになる場合もあります。

 

また、調べた範囲では、福音派以外のキリスト教では、カトリックも正教会も聖公会も無教会も日本基督教団(一部はわからない)も

 

「私はイエス・キリストを信じたので、永遠の命を与えられた者で、イエス・キリストを信じない人たちは永遠の滅びに向かっている」というような考えはありませんでした。

 

カトリックや正教会は「イエス・キリストを信じたら救いの始まり」というような考え方でした。

 

 

神さまを信じたら、自分は良くて相手はダメ、教えることが矛盾している。相手によって教えることが違ってくるというようなダブルスタンダードによって、信頼を失うことがないように気をつけたいものです。