福音派と無教会の決定的な違い ⑦ イエス・キリストを信じないとどうなるか | ルーク4のブログ

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「福音派と無教会の決定的な違い ⑦ イエス・キリストを信じないことについて」

 

福音派では、イエス・キリストを信じると永遠のいのちを持つが、信じない人たちは永遠の滅びである。と確信しています。

 

無教会の内村鑑三先生は、「二つのJ JESUS&JAPAN」というキリスト教を教えています。

このJAPAN(日本)では、約99%の人たちがイエス・キリストを信じることなく死んで行く状況ですので、福音派の「永遠のいのちか永遠の滅びか」という教えとは、まるで違う教えになっています。

 

では、無教会の内村鑑三先生や矢内原忠雄先生のように、聖書をみていきます。

 

前回記事の、イエスさまは弟子たちに「異邦人の道に行ってはいけません。」と、異邦人には福音宣教を禁止されたことについて、さらに詳しくみていきます。マルコ7:24~30&マタイ15:21~28をまとめたものです。

 

 

イエスは、そこを出て、ツロの地方へ行かれた。家に入られた時、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることは出来なかった。

 

ギリシャ人(異邦人)の女が、イエスのことを聞きつけて、やって来た。そして、「ダビデの子よ。あわれんでください。娘が悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげた。

 

しかし、イエスは彼女に一言もお答にならなかった。

 

それでも、ギリシャ人の女は、娘から悪霊を追い出してください!と、イエスに願い続けた。

 

イエスは「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と答えた。

 

それでも、ギリシャ人の女は、イエスの前にひれ伏して「主よ。私を助けてください」と言った。

 

イエスは「子供たち(ユダヤ人)のパン(神の救いの祝福)を取り上げて、小犬(異邦人)に投げてやるのは、よくないことです。」と言われました。

 

女は「主よ。その通りです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます。」

イエスは「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように、」すると、彼女の娘はその時から治った。

 

 

この聖書箇所を見れば、地上でのイエスさまの福音宣教は、基本的に異邦人を救おうとはされない。

 

ただ、りっぱな信仰をもつ異邦人がやって来て、無視されようが、小犬と言われようが、受け入れて、願い続けるなら、救うという感じです。

 

ローマ兵を率いる異邦人の百人隊長の場合もそうでした。

イエスのところへ出向いて、わざわざ来てくださらなくても、お言葉だけくださいという「見上げた信仰だ」ということで、癒されました。

 

 

イエスさまは、ユダヤ人に対しては、ユダヤ人領土を行き巡り、「何をしてほしいのか」と言われ、盲人を見えるようにされました。

 

また、ナインの町では、やもめの一人息子が死んで担がれているところへ行かれ、頼まれてはいないのですが、はらわたがねじれるほどの痛みを覚えられて、青年を生き返らせてくださいました。

 

主イエスと弟子たちの福音宣教は、すべてのユダヤ人が、イエス・キリストを信じるようになる(ヨハネ11:48)というほどの救いの御業を成されていました。

 

 

その頃、異邦人のところでは、日本のように遠いところでは、そのような救いの御業は成されることはありませんでした。

福音を宣べ伝える人もなく、福音が聞こえることはないので、ローマ10:13~15通りに、イエス・キリストを信じることは不可能です。

 

 

また、次の聖書箇所をみてみましょう。

 

イエスさまが捕らえられ、十字架につけられた時、二人の強盗も一緒に十字架につけられました。

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスに悪口を言い、もう一人の犯罪人は、彼をたしなめて「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。

 

イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください」と言った。

イエスは彼に「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます。」と言われた。(ルカ23:39~43)

 

 

ここで不可解なことは、イエスさまは、悪口を言う犯罪人を救おうとされなかったのです。

 

その時12時ごろだったので、その犯罪人は、あと1~3時間ぐらいで死んでしまいます。

 

福音派の教えのように、イエスを信じない人は救われず、地獄に行くのであれば、救うための言葉を言われるはずですが、黙しておられるのです。

 

 

イスカリオテのユダの場合、イエスさまはユダをなんとかして救おうとされました。

 

「わたしがあなた方12人を選んだ。しかし、そのうちの一人は悪魔です。ヨハネ6:70」

「まことに、まことに、あなた方に告げます。あなた方のうちの一人が、わたしを裏切ります。ヨハネ13:21」

 

「だが、人の子を裏切るその者は不幸です。生まれてこなかったほうが、その者のためによかった。マルコ14:21」

このように警告して、何とか救おうとされているのです。

 

ユダは悪魔の手下になり、主イエス・キリストを裏切ろうとしていました。

すると、ユダの結末は、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!ということになるのかも知れません。

 

 

しかし、イエスさまに悪口を言い放つノンクリスチャン(未信者)の犯罪者に対しては、救うための言葉を言われませんでした。その犯罪者に対して黙されたのです。

 

前回か前々回に山口組の三代目組長のことを書きました。

ヤクザになりたくてなったわけではなく、6歳の時に最愛の母が過労死をして、叔父や叔母から虐待され続けて育ったなどという理由があったのです。

 

イエスさまは、その犯罪者の心の傷や、どうして犯罪者になってしまったのか、なぜ信じることができないのか、すべてご存知です。

 

12弟子の一人バルトロマイ(ナタナエル)は、イエスさまがバルトロマイに会う前に知っていたので、「先生、あなたは神の子です。」と信じました。(ヨハネ1:46~49)

 

ですので、そのもうすぐ死にゆく犯罪者を救うために何か言われると思ったのですが、何も言われないままでした。

 

 

そして、さらに不可解なことは、イエスさまの福音宣教が始まる前の「バプテスマのヨハネによる悔い改めの水のバプテスマ」が行われて、ヨハネの弟子たちが存在することです。

 

パウロがエペソに来た時です。幾人かの弟子たちに出会って、「信じた時、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、

彼らは「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

 

「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。

 

そこで、パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。

それを聞いた人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。使徒19:1~5」

 

 

つまり、ヨハネの悔い改めの水のバプテスマを受けた人たちは、弟子でしたが、聖霊のことは知らなかったので、イエスの御名を信じてバプテスマを受けることは出来なかったのです。

 

「聖霊によらなければ、だれもイエスは主です。と言うことはできません。第一コリント12:3」

 

ヨハネの悔い改めの水のバプテスマを受けたのは、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々です。

 

ヨハネの悔い改めの水のバプテスマを受けただけで、死んだ人たちもいました。

 

つまり、イエス・キリストのことを聞いていましたが、聖霊を知らなかったので、イエス・キリストを信じることは出来なかったのです。

 

バプテスマのヨハネの福音宣教と、イエス・キリストの福音宣教は、少し遅れてイエスさまの福音宣教が始まったという感じです。

 

バプテスマのヨハネは、イエスさまに悔い改めの水のバプテスマを授けた時は、イエスさまが来るべき救い主と思いました。

 

しかし、イエスさまの言動と御業に大きな疑問をもち、ヨハネの弟子たちに託して「おいでになるはずの方は、あなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と、イエスに言い送りました。(マタイ11:2~3&ルカ7:18~19)

 

 

また、ヨハネの弟子たちは、イエスとイエスの弟子たちを見下しているようでした。

 

「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。『私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』マタイ9:14

 

このヨハネの弟子たちの「あなたの弟子たちは」という発言には、イエスに対する尊敬の念はありません。

むしろ見下しているように思えます。

 

イエスとイエスの弟子たちよりも、バプテスマのヨハネとヨハネの弟子たちのほうが勝っていると思っていたのではないか。

 

なので、このヨハネの弟子たちは、イエスの弟子にはならず、イエス・キリストよりも、バプテスマのヨハネに聞き従っています。

イエスさまは、それを許されているのです。

 

 

それゆえ、神さまの裁きの基準は、イエス・キリストを信じたか信じていないかではないと思います。

 

もし、そうであるならば、イエスさまの地上での福音宣教は、異邦人に対して冷たくないはずですし、

十字架に一緒につけられた犯罪者を救う発言をされてもいいはずです。

 

また、ヨハネの弟子たちは、イエスさまの弟子たちにならなければ、ヨハネの悔い改めの水のバプテスマを受けただけで終わる可能性があります。つまり、聖霊によってイエスを信じることがなく死ぬのです。

 

イエスさまの福音宣教が始まれば、ヨハネの弟子たちの福音宣教など不要なはずです。

 

バプテスマのヨハネの福音宣教は、あくまでも、その後に始まるイエス・キリストの道を用意して、道をまっすぐにすることが、預言者イザヤの預言だったからです。

 

 

しかし、イエスさまは、イエスさまの福音宣教が始まっても、ヨハネの弟子たちをそのままにすることを許されました。

 

その後、バプテスマのヨハネの悔い改めの水のバプテスマを受けただけの人も弟子と言われています。

そのまま、イエスの御名を信じることはなく、聖霊のバプテスマを受けなかったとしても問題はなかったのです。

 

 

つまり、前回に引き続き、今回の聖書箇所をみてみても、神の裁きの基準は、イエス・キリストを信じるか、信じないかということではないのです。

 

聖書にも、そのような事は書かれていません。

 

それで、福音派の教会で、背負っていた重すぎる耐えられない重荷をおろすことが出来ました。

 

長くなってしまったので、次へ続きます。