プロテスタント福音派の教会では「原罪を持った人間は滅びに向かっている(地獄へ行く)」と牧師から教えられます。牧師が教えることは全て正しいと思い込んでいるので、信徒は皆「アーメン」と言っています。
原罪とは「アダムが犯した罪」のことだそうです。そのことの聖書箇所です。「1人の人の不従順によって…罪がこの世に入り…死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。ローマ5章12節」
このローマ5章12節の、1人の人の不従順のことがアダムの原罪になると言っているのです。
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しかし、福音派の教会にいた頃は、それで納得していましたが、宮田光雄先生の著書で、万人救済希望派の信仰を学ぶ中で、ゼーレン・キールケゴール神学者の教えを知って、大きな疑問を抱くようになりました。
キールケゴール氏はメランコリックな感受性をもち、人間や教会の罪、堕落に対して鋭く反応していたそうです。しかし、すべての人が救われるという希望を持ったのでした。
「人々は、私があたかも、他の人は地獄行きだと言っているかのように言うが、それは正しくない。私が言いたいのはこういうことだ。他の人が地獄に行くなら、私も一緒だ。
しかし、私はそうは信じていない。反対に、私が信じているのは、すべての人が救われるだろうということだ。そのことが、私に深い驚きを覚えさせることになるのだ。」
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このキールケゴール氏は著書「不安の概念」の中で、アダムが罪を犯したから「罪性」が生じ、その結果、私たちが罪を犯すようになったとする「原罪」の理解を拒否した。
そして、アダムが罪を犯すのも、私たちが罪を犯すのも同じ原因によるものとし、人は永遠となる「魂」を持ちながら有限となる「体」を持っているので、そのことの矛盾から「不安」が生じて、罪を犯すという解釈をしました。
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このキールケゴール氏の解釈は理解ができます。
創世記1章27~31節です「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ。それは極めて良かった。」
つまり、人間(アダムとイヴ)は、神にかたどられて創造されて極めて良かったのです。
しかし、アダムもイヴも二人ともが、神に不従順の罪を犯してしまったのです。
どちらか一人ではなく、二人ともです。
つまり、人間は神にかたどって造られ、神の御目に極めて良かっても罪を犯してしまうことになります。
別の言い方をすれば、神は最初から人間を罪を犯す性質に造られていますが、神の御目には極めて良かったのです。
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ローマ5章12節には続きがあります。
「ちょうど一つの違反によって、すべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によって、すべての人が義と認められて、命を与えられるのです。ローマ5章18節」
この箇所を読めば、一つの義の行為(イエス・キリストの十字架の贖い)によって、すべての人が義と認められて、命が与えられると教えられています。
なので、もはや、アダムの違反行為(不従順)の罪に着目する必要はないでしょう。
その後にはこう教えられているからです。
「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠の命を得させるためなのです。ローマ5章21節」
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しかし、福音派ではこう教えます。「神は罪を憎まれる。罪をもったまま天の御国に入ることはできないのです。」
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けれど、聖書にはこう教えられています。
「私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。
神の御言葉は、私たちのうちにありません。第一ヨハネ1章7~10節」
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この御言葉によって、クリスチャンになっても罪を犯すことがわかります。
そして、神の御目には罪を犯していることが明白でも、自分自身は罪を犯していないと思っていることが多くあるものです。
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最も多いのが、前回記事でも紹介したイエス様が弟子たちに対して教えた地獄行きの聖書箇所です。
「兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければならないなりません。兄弟に向かって「能無し」というような者は、最高会議に引き渡されます。
また「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
体の一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きい石臼を首にかけられて、溺れ死んだ方がましである。
もしあなたの手か足があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。両手両足そろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、あなたにとってよいからです。
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イエス様は、弟子たちに地獄行きに対する罪に対して、教えています。
ところが、福音派の教会では、弟子たちではなく、ノンクリスチャン(未信者)に対する教えだとすり替えているのです。
すると、どうなるか。
ノンクリスチャン(未信者)に対して、このままでは滅びる、地獄へ行くと言って、つまずきを与えても罪と思わない。
兄弟に対して腹を立てても、同性愛者クリスチャンを深く傷つけて、つまずかせたり、カトリックやセカンドチャンス論、万人救済希望派の信仰をバカにしたり、偽クリスチャンと定めて、つまずかせても罪と思いません。
正しいことと思います。
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最初の人間アダムとイヴは、神にかたどって造られて、神の御目には極めて良かったのです。
ですが、罪を犯す性質を持っていたのです。
神が罪を憎まれているとも聖書に書かれています。
それなら、どうして人間を罪を犯す性質に創造されているのに、極めて良かったと言われているのでしょう。
そして、どうして、ノンクリスチャン(未信者)に対してではなく、弟子たちやイエスにつき従って来た群衆に対して地獄へ行く教えがあるのでしょう。
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福音派が教えたい「罪」とは、
「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、ヨハネ福音書16章9」です。
他にもたくさんの罪がありますが、イエス・キリストを信じると、すべての罪が赦されて、永遠の命が与えられるからです。
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それならば、どうして、弟子たちしかいない家の中で、弟子たちだけに、小さき者をつまずかせる者は、地獄に投げ込まれます。
もし、あなたの片手か片足があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。両手両足そろったまま地獄へ投げ込まれるよりは、あなたにとってよいからです。マタイ18章6~9,マルコ9章42~50と明確に教えているのでしょう。
これでは、主イエス・キリストを信じても救われることになりません。
そして、福音派が教える原罪も罪も取り除かれていないことになります。
他にも、このような御言葉もあります。
「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
そこでイエスは、その信じた者たちに言われた。
「あなた方は、あなた方の父である悪魔から出た者であって、あなた方の父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
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他にもいろいろありますが、以上のことだけでも、
個人的には福音派の教会が教える「聖書信仰」からくる教えは、福音派の教会の中だけでは通用しますが、福音派の教会から出て行ってから、聖書を調べて見ると、頭が混乱してしまいます。
聖公会や日本基督教団、カトリック、正教会の教えは、聖書信仰だけではないので、理解しやすかったです。
次は福音派の教会が教える携挙やイエスの復活、死人の生き返りなどについても、同じようなことが言えるので、思ったことを伝えたいと思います。
個人的には、日本では、十字架上のイエスの死と復活と死人の生き返りが重要な福音宣教になると思っています。
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罪や原罪、神のさばき、神の怒り、滅び、地獄行き、これらを教える御言葉がありますが、
次の御言葉が心に響きます。
「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
どんな戒めがあっても、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉の中に要約されているからです。
愛は隣人に対して害を与えません。
それゆえ、愛は律法を全うします。」