どうして日本にキリスト教が広がらないのか? ⑨ 「排他的なキリスト教と寛容な仏教」 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

NHK社会教養部チーフディレクターを経て、明治学院大学教授で神主を兼業されている阿満利麿氏がこのような見解を以下のように述べています。

「どの調査報告でも、約70%の日本人は『無宗教』だと答えていますが、『宗教心は大切』という人も約75%です。

つまり正確には、日本人の多くは無宗教ではなく『自然宗教の信者』である。

『自然宗教』とは、ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守に対する敬虔な心がそうなのである。」

 

 

阿満氏の見解は的を得ていると思いました。日本人は無宗教だと思っていても実は、神仏習合に関わる自然宗教なのかも知れません。

私が住む町の駅周辺には、神社があり、楠の木と緑の牛が祀られています。

町の多くの人々は自然に楠の木と緑の牛に向かって祈ります。

 

夏になると、その神社に地域の子供たちが集まって、一斉にお神輿わっしょいをします。皆、楽しみにして参加しています。

私も防犯で、子供たちが御輿を担いで歩いている時に、交通事故にあわないように守る役目をしました。

家族でお揃いの法被を着て参加したり、沿道で見守る人々の暖かい視線や声援は気持ちが良いものです。

 

 

大晦日にはNHK紅白歌合戦を家族団らんで見て、その後に始まる「ゆく年くる年」で除夜の鐘が鳴ります。

すると、普段は近くの神社に行かない人たちが、ぞろぞろと神社に行ってお参りをします。

元旦になれば、親戚のところへ行き、親戚一同で総持寺へ参拝することが、すごく心地よかったです。

 

初詣参拝者は、約6500万人~約8000万人という警視庁の調査データーがあります。つまり日本人の二人に一人は、毎年一度は寺や神社に参拝して祈ります。

家族や親戚一同、友人や恋人が共に願いを一つにするのが、神仏習合の素晴らしさです。

 

テレビや映画を見ていても、地方が舞台なら、その地方の寺や神社の祭りがあります。祭りは心暖まります。子供たちも大好きで、楽しみに参加します。

 

日本各地のお祭りは面白いです。

また映画では「男はつらいよ」の舞台が柴又帝釈天の町です。

御前様と寅さんのやり取りはほのぼのとしています。

子供心に「日本は仏教だ」としみじみ思ったものです。

 

祖父との思い出が、祖父に連れられ、山の上にある神社か寺に拝みに行き、祖父は5千円を賽銭箱に放り込んだので、「もったいない」と思ったことです。

しかし祈る祖父の姿を見て、胸があったかくなりました。

その祖父は仏教式の葬儀なので、人間が死ねば仏教なんだと思いました。

 

 

阿満氏は岐阜県の東白川村を訪ねた時、村人たちは「神道は宗教ではない」と言うので驚かれたそうです。

しかし、考えてみれば「皇室の神道式儀礼は国事行為としてニュースで放送されるし、神道の祭りが何のためらいもなく放映されている。

もし特定の宗教教団の行事や儀礼をニュースとして放送したら、放送局がその教団と特別な関係にあるとみなされたり、公共的な電波を私物化したと言われても抗弁できないであろう」

 

 

つまり、阿満氏は、神道は宗教ではなく「自然宗教」として、多くの日本人にとって空気のようになっている。自然宗教を宗教と認識することが難しいという状況だと言われています。

 

 

阿満氏は、無宗教だという人の中には、宗教が恐ろしいから宗教に近づかないようにしている人も少なくないと言われています。

なぜ宗教は恐ろしいのであろうか。たとえばマスコミを賑わしてきた事件を思い起こすまでもなく、人の弱みにつけこんで、しばしばあり金や財産のすべてを巻き上げるからという事もあろう。

あるいは教団という特別な世界に連れて行かれて普通の生活ができなくなるという心配もあるだろう。

特定の宗教にからめとられると、自由を失ってしまうのではないか、と過剰なまでに自己防衛するのである。

 

 

例えば、東京銀座で銀ブラを楽しんでいる最中に突如、強力なスピーカーで「あなたがた罪人は悔い改めよ」と説教されることがある。

だが通行人の大方は自分たちが「罪人」だとは思わない。

むしろスピーカのぬしに常識のない言いぐさだと侮辱の視線を投げかけるのがおちであろう。

もちろん、キリスト教のすべてがこのような強圧的な説教をしているわけではないが、「キリスト教」は人間はすべて罪人だという考え方を持っていることは確かである。

それは、日常の生活にどっぷりと浸かっている人にはとても認めがたい教えと映るであろう。」

 

 

阿満氏はキリスト教に対して、人間はすべて罪人だという考え方を持っていて、そういう考え方はとても認めがたい教えと映ると考察されていますが、まさにその通りだと思いました。

 

日常の生活に浸かっていれば、「罪人」というのは犯罪者だと思います。それがキリスト教の場合、すべての人が罪人だと教え、しかも罪人のまま死ねば地獄へ行くという。

とうてい認めがたい教えです。

 

 

しかし、これは「福音派」の教えであって、福音派以外のキリスト教では、教えが違います。

日本では福音派の教えが色濃く伝わっているのです。

 

 

民主党政権の時代、当時の小沢一郎幹事長が「キリスト教は非常に排他的で独善的な宗教だと私は思っている」と記者団に語りました。

この痛烈なキリスト教批判に対して、福音派の教会の牧師たちが連名で抗議しました。

本来なら、権力の中枢にいる政治家の発言は「信教の自由を侵害しかねない発言で、社会的問題と発展しても不思議ではありませんでした。

 

しかし、世の中ではエピソードの一つとしか受け取られませんでした。

それは「排他的宗教のキリスト教」対「寛容的宗教の仏教」という図式が、多くの日本人にとっても共通の見方であり、今更驚くべきものとは受け取られなかったからという見解でした。

 

 

だけど、小沢発言は、後で海外の仏教側が抗議している事はあまり知られていません。

仏教の教えは実は排他的なのですが、日本では寛容的になり替わっているのです。

 

「日本だけが誰でも仏様になると教えているが、日本以外では仏は特別な存在だから、誰でも死んだら仏様になるなどという事はあり得ない!」と異議を申していました。

 

 

「キリスト教」でも同じことが言えます。排他的宗教は福音派キリスト教です。他のキリスト教は排他的ではありません。

当時の小沢幹事長が「独善的で排他的というキリスト教」は「福音派」のことです。

どうして福音派は排他的になるのでしょう?それは「聖書のみ」「信仰のみ」だからです。

 

他のキリスト教は、聖書のみではありません。

次は具体的にその事について書きたいと思います。

すごく面白いです。

福音派の教えと他のキリスト教の教えを比べると、同じキリスト教ではなく、別の世界があるのです。

 

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