どうして日本にキリスト教が広がらないのか? ② 「聖書に書かれているクリスチャンのしるし」 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

今から約二年前、アフガンで、約65万人の命を救ったクリスチャンの中村哲先生が殉教した報道により、世界中の人々が中村哲先生の尊い働きを知りました。

 

中村哲先生がクリスチャンということで、キリスト教について知りたいと思った人も少なくありません。

クリスチャンになれば、どういう「しるし」があるのか?どうなるのか?その答えはイエス・キリストが明確に教えておられます。

 

イエス・キリストが地上で福音宣教を始められた時、弟子たちと70人の使徒たちにこう命じられています。

 

「イエスは、12弟子を遣わし、その時、彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って「天の御国は近づいた」と宣べ伝えなさい。

 

病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい』」マタイ10章1~8

 

次に、主イエスは、別に70人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へお遣わしになった。

70人が喜んで帰って来てこう言った「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

イエスは言われた「わたしが見ていると、サタンが稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしはあなた方に、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。」ルカ10章1~19

 

そして、イエス・キリストがすべての人の罪を背負われ、十字架上で死なれ、三日後によみがえられた後、いよいよ昇天して神の右の座に着かれる時、地上での最後に言われたことは次の通りです。

 

「それから、イエスは彼らにこう言われた、『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

信じる人々(クリスチャン)には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けば病人は癒されます。』

 

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。」マルコ16章15~19

 

 

聖書を読めば、主イエスは、こう教えられています。神の御子イエス・キリストを信じる者(クリスチャン)になれば、イエスの御名によって悪霊を追い出し、蛇をつかみ、毒を飲んでも決して害を受けず、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられています。また、病人に手を置けば病人は癒されます。

 

その事を証明している聖書箇所が、イエス・キリストが天に上げられ、神の右の座に着かれた後で、聖霊に満たされた経験をした使徒たちです。

 

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

 

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。

また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らず癒してもらった。

 

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて、公の牢に入れた。

ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開けて、彼らを外に連れ出した」使徒5章12~19

 

 

この聖書に書かれていることが、現在の日本に起きていれば、こういう事になります。

 

イエス・キリストを信じるクリスチャンたちが、小児がん拠点病院や癌センターなどに行き、イエスの御名によって手を置き、一人残らず癒します。

もう入院や手術も必要ありませんし、死への恐怖も過ぎ去ります。

 

愛する我が子、父母、夫、妻、恋人、親友、恩人たちが亡くなって、絶望のどん底の深い悲しみの中にいる御遺族のところに行き、死人を生き返らせます。

 

クリスチャンになれば、新型コロナウイルスにも害を受けないので、マスクもワクチンも不要です。

 

警視庁も一目置く、キリストの特命係のようなものが結成され、拳銃も武器も持たず、あらゆる力に打ち勝つ権威によって、犯罪に立ち向かいます。

 

無差別殺人が起きる現場に、クリスチャンがいれば、イエスの御名によって未然に防ぐことも可能になります。

 

聖書に書かれているイエス・キリストが弟子たちに命じられたことに基づけば、このような神の驚くべき御業が起きるはずです。

 

 

しかし、いつの頃からか、使徒たちが行なっていた神の驚くべき御業がほとんどなくなってしまうのです。

 

日本と同じような環境だと言われているアテネでは、町の至るところに偶像がありました。

パウロは、「アテネの皆さん、あらゆる点において、あなた方が信仰のあつい方であることを、私は認めます。」と友好的に語ります。

 

そして「神はこの方(イエス・キリスト)を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」と教えたところ、

ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったので、パウロはその場を立ち去った。

 

もし、アテネでも神の驚くべき御業が起こされたなら、多くの男女が主を信じることになったでしょう。

 

しかし、神の驚くべき御業は起こされませんでした。

 

 

パウロはそこで、このような福音宣教になりました。

 

「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。

 

律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

 

また、私はキリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対して、すべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。

 

それは、私が福音と共にあずかる者となるためです。第一コリント9章19~23」

 

 

聖書を読めば、神の驚くべき御業による福音宣教と、すべての人に対して合わせる福音宣教とがあります。

 

ですから、ある箇所だけを見て「聖書に書いてある」と決めつけることは出来ないのです。

 

そして、神の驚くべき御業の代わりに、大切なのが愛です。

 

最も偉大なものが愛だからです。