同性愛者に対する「聖書」の教え | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

最近、カトリック教会のローマ法王が「同性愛者の人々に対して、これまでの待遇を謝罪し、赦しを請うべき。そうした状態〈同性愛〉の人が善良な人物で、神を求めているとしたら、その人をさばく資格が私たちにあるだろうか?」とコメントされました。

カトリック教会の保守派からは、すぐに批判非難の声が出ました。
また、プロテスタント教会の中でも、牧師やクリスチャンたちも「同性愛という神様が忌み嫌う「地獄行きの罪」を容認するのはご乱心である。」と批判非難しています。

◇ クリスチャンの世界でも、同性愛者に対する考えは二分しています。
最も多いのが、聖書のいくつもの教えから「男色は地獄行きの罪」だと教えているので、同性愛者に対して「罪を指摘する聖書の言葉を教えることが「愛」であるとする信仰です。

この5つで同性愛者を断罪します。
① レビ記20:13 女と寝るように男と寝る者は、二人とも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。
② 創世記19章 ソドムの町の人々は男色だったので、滅ぼされた。
③ 第一コリント6章9節 男娼となる者、男色する者は神の国を相続することは出来ません。つまり地獄行きです。
④ 第一テモテ1章9節 律法で男色をする者のためにある。
⑤ ローマ1章26~32節 男同士で情欲に燃え、男が男と恥ずべき行為をして、当然の報いを受けます。そのようなことをすれば「死罪」に当たるという神の定め。つまり地獄行き。

このような「罪」に対する聖書の教えによって、同性愛者の方々を断罪するのです。
この断罪する土台にあるのが、「人間は地獄行きの運命」という信仰です。なんでも「滅び・地獄」を御言葉に付け足します。

☆ その真逆の信仰があります。イエス様に聞き従う信仰者です。
イエス様の地上での3年半の教えと福音宣教スタイルから学びます。

イエス様の福音宣教は、周りの人々に「罪人」と断罪されている人たちに行われています。
サマリアでは、5度も離婚して同性している女を待っておられました。その女は忌み嫌われていて、誰もが井戸の水を汲みに来ない時間帯に、水を汲んでいました。そこにイエス様がおられたのです。男にだらしのないことを当てられましたが、さばきませんし、罪に定めませんでした。

それは姦淫の現場で捕らえられた女の時も同じです。
当時、姦淫は死罪にあたる重罪でしたが、イエス様は罪に定めず、「この中で罪のない人が、石を投げなさい」と言われました。

また、当時のイスラエルでは取税人は、死刑囚と同じくらい忌み嫌われていました。イスラエルを支配するローマの手先となって、通行する場所で荷物検査をして、通行料や税金を取っていたのです。しかも多くだまし取って着服していました。払えなければ高利で金を貸す悪徳高利貸しでした。

その取税人マタイを罪に定めず、そのまま「わたしについて来なさい」と弟子にしました。
すると取税人仲間や罪人がついて来たのです。イエス様は罪に定めないどころか、ありのままで受け入れて食事を一緒にしました。パリサイ人たちが怒って「あなたはなぜ罪人と食事をするのか!」と抗議しました。

取税人のかしらザアカイにも、罪に定めず、「今夜、あなたのところに泊まることにしたから」と寛容を示されました。周りは「あの人は罪人の客となられた」とつまずきました。

☆ パウロは「十字架にかけられたキリストしか語らない」と言いました。
「私たちが、まだ罪人であった時に、キリストが私たちの罪のために死んでくださったのです。ここに神の偉大なる愛が明らかにされています。」ローマ5章8節

まず「十字架にかけられたキリスト」を思って、他人を見るなら「神様の愛」が流されて来ます。
しかし、まず「他人の罪」を見るならば、罪に対する聖書の教えが流されて来て、他人をさばきます。

※ 実は聖書では善悪を決めて、さばくことは神様の御怒りを積んでいる〈ローマ2章5〉ことだと教えています。ローマ1章26~32節の続きには「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたは弁解の余地がありません。あなたは他人をさばく事によって、自分自身を「罪」に定めています。と教えているのです。

◇ また「同性愛者」を「罪人」に定めていますが、第一コリント6章9、10節には、男色する者と共に、そしる者、姦淫する者、酒に酔う者、不品行な者、偶像礼拝する者もあります。

多くの人は、そしったり、酒を飲んだり、姦淫や不品行を思ったり、イエス様以外のもの〈アイドル、車、趣味など)偶像に夢中になったりするのは理解します。

しかし男色〈同性愛)は理解できないし、表に現れているので、「罪人」に定めて、さばきやすいのです。
ちょうど聖書の取税人のようでしょう。

同性愛者だけが「男色する者」として断罪されますが、聖書には律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。あわれみを示さない者に対する「さばき」はあわれみのない「さばき」です。ヤコブ2章9~13とあります。

男色する者は罪人と定めて断罪することは、あわれみのない「さばき」をする罪にならないでしょうか?自分自身は男色はしていなくても、他の罪に対して罪を犯していないでしょうか?

◇ もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。第一ヨハネ1章8,9節

※ また同性愛者のクリスチャンの話を聞くと、聖書の「男色する者」とは違うこともあるのではないか?子供の頃から性同一性障害で悩み苦しんでいる人たちの話を聞くと、理解することがあります。

イエス様は「あわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われました。
その人のことは、御霊でないとわかりません。他人が罪に定めて断罪すると、御霊の働きを妨害します。

中には男だけど、心は「女」で、女の姿ですが、性欲もないし、物欲もない、食欲もあまりない。一生独身です。という人もいました。心は純粋です。

しかし男が女の姿をしているので、周りからは「キモい」と言われ、いじめられたり傷つけられたりします。
そして多くのクリスチャンたちから「地獄行きの罪人」と定められて、断罪されます。これはかなり深く傷つきます。

☆ イエス様に聞き従うようクリスチャンは、罪人に定めません。聖書の教えは「人を非難せず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度で接する者となりなさい。

私たちも以前は、愚かな者で、不従順で、迷った者であり、様々な情欲と快楽の奴隷となり、憎まれる者であり、互いに憎み合う者でした。しかし救い主なる私たちの神の慈しみと、人への愛が現れた時に、神は私たちが行なった義の業ではなく、ご自分のあわれみによって「聖霊」によって新しくされ、汚れを洗われて、私たちを救ってくださいました。」テトス3章2~6節

※ このように同性愛者の方々を擁護すると、多くのクリスチャンから憎まれ、擁護するクリスチャンは「罪を容認する異端者」だと断罪されています。

しかし異端者と断罪されても擁護します。第二弾の本制作に取り掛かっています。今日の記事も大きなテーマにしています。

タイトルは「最も偉大なるものは愛~十字架にかけられたキリスト~」です。

神様が準備された「あわれみの器」を通して、真の福音宣教が本制作などを通して、広く伝えられる時が来たような気がします。