日本で「キリスト教」が疎外されていたり、嫌われている理由 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

2015年9月23日にクリスチャンたちが携挙された直後に、大地震や隕石落下などで地球の三分の一が滅びるという預言は外れました。ここ一か月はその預言の事で検索して、このブログの記事を見られる方が、毎日数百人という数でした。

クリスチャンもそうですが、クリスチャンではない方たちも、マヤ文明預言やピラミッド預言などで2015年9月でこの世が終わるようなので、キリスト教も同じ預言をしているので、検索していました。

聖書には携挙や大患難(世の終わり)を定めていませんし、天の御使いも子も、誰も知りません。ただ天におられる父だけが知っておられるとイエス・キリストが断言されていますので、

携挙が9月23日だと教えた牧師、伝道師、クリスチャンたちは、イエス・キリストの教えに逆らい、サタンから来る惑わしに聞き従っているので、偽預言者と言われたり、信頼を大きく失いました。

サタンはあらゆる策略で、キリスト教や牧師、クリスチャンたちを失墜させようとしています。

私がキリスト教を初めて知ったのは「映画オーメン2」でした。テレビ放映されていて、学校のクラスで話題になっていたのです。クラスの皆も「キリスト教」を初めて知りました。

主人公の少年が、聖書の黙示録13章18節「獣の数字は人間をさしていて666である」を見てから、反キリストだと目覚めて、関わっている神父やクリスチャンが次々と虐殺されて、サタンが勝ち誇って終わりました。

自分自身も友達も「キリスト教って不気味で、クリスチャンは弱く、サタンは凄く強い」という印象を持ちました。

それからもキリスト教が関わるオカルト映画が続々とブレイクしています。
またノストラダムスの大予言では、聖書の教えでイエス・キリストが人類を裁き、地獄に落としに来臨することから、恐怖の大王の正体はイエス・キリストだと教えられました。

オウム真理教も聖書の教えからハルマゲドンなどを用いているし、マスコミを騒がした統一教会などでは聖書の「神の裁き」と「地獄」を強調している事が発覚しています。

東日本大震災の被災地でも、「神の裁き」「イエス・キリストを信じなければ、あなたたちもある日突然に、地獄へ行くんですよ!」という伝道が行われました。

キリストを信じれば天国、信じなければ地獄行き!という信仰は独善的で排他的だと、多くの人々が思っています。

自分自身もキリスト教は違和感があり、関わりたくありませんでした。

 



では聖書から世の終わりについての「神の裁き(キリストの来臨)」と「地獄行き」について整理して見ていくと、

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証され、それから終わりの日が来ます」マタイ24章14節

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選びました。エペソ1章4節」
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けて、ついて来ます」
「キリストは失われた人を探して救うために来たのです」ルカ19章10節

「神は確認の印を私たちに押し、保証として御霊を私たちの心に与えて下さいました」第二コリント1章22節

一人の御使いが言った「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」黙示録7章3節

「地に住む者でほふられた小羊の命の書に、世の始めからその名を書き記されていない者は皆、彼(反キリスト)を拝むようになる」黙13章7節

第三の御使いが大声で言った「もし誰でも獣(反キリスト)とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、火と硫黄(地獄)で永遠に苦しめられる。昼も夜も休みを得ない。

しかし神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちは、御霊から「労苦から解放されて、休みを得る」と言われて、忍耐出来ます。(黙示録14章9~13節)

このように聖書の教えを整理すると、クリスチャンとクリスチャンになる人々は神様から確認の印を押されて、御霊が与えられ、忍耐と休みを得ることができます。

小羊の命の書に、世の始めからその名を書き記されていない者が、反キリストとその像を拝み、神の裁きに会い、地獄へ行くのです。

ですから、黙示録のキリストの来臨による「神の裁き」と「地獄行き」というのは、小羊の命の書に、世の始めからその名を書き記されず、反キリストを拝む者たちだけに当てはまると思われます。

ですから人々に「神の裁き」と「地獄」を伝える「福音」は、キリスト教を独善的で排他的だと思わせるのでしょう。

 



聖書の教えは「神は愛」だということです。最も偉大なものは「愛」だと教えています。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」ヨハネ3章16,17節

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」ヨハネ15章9節

キリストの愛の中にとどまり、その愛を伝えることが「福音」であり、キリスト教の教えなのです。