神様とつながっていれば豊かな実を結ぶ | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

わたしはぶどうの木。あなた方はその枝である。もしわたしとつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる(ヨハネ15章5節)

人を励まし慰めることによって、神様から遠ざかってしまうことがあります。それは悩み苦しみを「人」に相談することは、「神」により頼むことが出来ず、「人」により頼むようになっているからです。

実は「見えないイエスキリスト」に祈ることは難しいことかもしれません。イエス様の声が聞こえるわけでもないので、祈るにも主を褒め称えて、自分の思いを正直にすべて打ち明けて祈って、慕い求めて、賛美して、主の祈りや御言葉の祈りをしたり、異言の祈り、様々な事や人々についての「とりなしの祈り」をしてという感じでしょうか。

それで明確なイエス様の御声が聞こえて導かれるわけでもありません。
しかも「祈り」について、やもめが裁判官へ毎日うるさく訴えたように、また真夜中に「パンをください」と友達に言ってもくれないが、うるさく求め続ければくれるというような教えです。

すぐに慰めや答えが欲しいのに、苦しい環境が変わらずに、時が経つほど虚しい気持ちにもなります。

フェイスブックの300人位いるクリスチャングループのメンバーだった時、自分の悩み苦しみを投稿する人たちが何人もいました。するとメンバーの方たちが次々と愛情いっぱいのコメントで慰め励ましたりしていました。

その時、自分の経験を思い出しました。
世の中で苦しんでいる人たちへ福音を伝える働きのプロデュースをさせて頂いているので、いくつもの教会の牧師先生やクリスチャンの方たちが協力してくださいます。

それで、いくつもの教会へ行くのですが、そこでは必ず悩み苦しんでいるクリスチャンがいて話を聞くことになりました。

すると「うちの教会の皆は冷たい、話をあまり聞いてくれない」とぼやくので、それで話を聞いてあげて、一生懸命に慰め励ましました。するとものすごく感謝され、メールや電話がよくかかって来て「会いたい」と言われて、会いに行ったりしました。そういう人たちが何人もいました。

しかし、その時は「あなたのお陰で良くなりました!主に感謝します!」と言うのですが、何日かすれば落ち込んでいます。

そして、ある人はもっとよく慰めてくれる人と出会ったので音信不通になりました。
ある男性は車の中で二人で信仰的な話をしている時に突然「実は男が好きなんだ!相談していた教会の男性に断られた、でもあなたなら優しいし大丈夫と思うから、一回でいいからやらせて欲しい♡」と嘆願されたのです。

その時、一生懸命この男性を励まし、御言葉を伝えた多くの時間などの犠牲がこのザマか(;゚Д゚)!虚しく悔しかったです。

別の教会では、青年リーダーが「うちの学生・青年担当の伝道師は冷たすぎる!聖書には互いに愛し合いなさい、励まし合いなさい、すべての人にいつも善を行なうように教えているのに、悩み苦しみをただイエス様にと言っているだけや!だから俺が代わりに慰めて励ましている」と自慢していました。

しかし励まし慰めているうちに情が移ったと3人の姉妹と付き合い、女子中学生2人もそのリーダーにぞっこんLOVEを公言するようになりました。

そのような経験から悟りました。「悩み苦しみを「人」ではなく、「イエス様」に打ち明けて「イエス様」につながってとどまるならば「癒し・慰め」の実が結ばれます。」

「人」では「実」を結ぶどころか「枝」が切り落とされると確信したのです。

しかし「人」は速攻で慰め励ましてくれて、優しい言葉と御言葉をすぐに与えてくれますから「人」を求めてしまいます。

教会の牧師先生やクリスチャンは始めは親身になって慰め励まされたでしょう。しかし「人の愛情」を求めて、「人の愛情」によって自分の虚しさ、淋しさを埋めようとしているので、イエス様に委ねていたのです。決して冷たくはないのです。

「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子シスターが就任先で孤立無援になり、悩み苦しんでいた時、信仰の友「恩師」二人は、ただイエス様につながりなさいというアドバイスだけでした。

渡辺シスターはもっと優しい慰めと励ましの言葉を期待していたのにガッカリしました。
しかし「人」ではなく、「イエス様」からの励まし慰めを受けたので、置かれた場所で豊かな実を咲かせることが出来ました。

その豊かな実を結ばせたことによって「世界の光」となり、世界中の人々を励まし慰められています。

神様から「励まし・癒し・慰め」を受けた信仰者たちを、神様は大きく用いて祝福し、多くの人々を励まし慰め、癒すことが出来るのは「イエスキリスト」です!と証をしています。

ヨハネ15章12節「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと」だけを切り取って教えるクリスチャンは多いですが、その前にあるヨハネ15章1~17節をもって教えないと勘違いしてしまいます。

「わたしはぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしにとどまりなさい。あなた方もわたしにとどまっていなければ実を結ぶことが出来ません!」という教えが前提にあって、イエス様につながってとどまっているならば、イエス様が愛されたように互いに愛し合うことが出来るようになります。

そういう経験をしました。今ではイエス様に祈り続けることが日毎の糧となって、平安と喜びが与えられ、神様が特別に自分の為に用意されている御言葉を受け取るようになりました。

クリスチャンがおのおのイエス様につながってとどまるように励ますことが「御心」だと思って、その信仰を伝えています。