人の「価値観・民意」と言うのは、誰かの言葉により始まっている。これは聖書に「神様の言葉ですべてが始まった」ことが基となっているからです。
人の価値観というのは、一瞬にして変えられます。例えば、登校拒否ですが、友達の子が2人、中学校から学校に行かなくなったことを聞くと、何か、他の普通の子とは違うような、引きこもりやうつを心配するような感情を持ってしまいます。
それは日本での学校教育法のもと「登校」が常識になっている価値観から来るものです。
しかし、ホームスクーリングの聖書的根拠を教えているホームページ「AHSIC」では
「ただ学校へ行かない」だけのことを、異常視する日本、不登校の子供について精神病理にまで関連づけている文章もあり、異常なのは日本の教育行政の方!と断言されて、聖書からその根拠を解き明かされています。
それを読むと、今までの学校に対する価値観はまるで変わりました。前々回のブログ記事で紹介しましたが「スクールカースト」という問題です。点数主義における序列づけ。
ホームスクーリングの吉井氏は、『子供を一定の枠組みや型に押し込めようとする学校。ただ一人の教師の言動と行動によって、多くの子供たちが影響を受ける。(1年間も特定の同世代だけで一つのクラスに閉じ込めていることも、不自然で、ゆがんだ人間関係をうみ、イジメが発生しやすい。)
学校の最も重要なのは「試験」で、その試験は「、教師によって提供される情報の処理と再生」と「提示された公式(定式)の暗記」とその応用力だけで判定されるという試験システム」(社会人になって働いた時に、何の役にも立たない場合がほとんどである。(職業が教師などは生かされるが))
「子供は自分が褒められることに敏感、試験の結果によって副産物として生み出される優越感や劣等感がもたらす精神的副作用をもっと警戒するべき!」
「互いに競争の中で、「敵対心」が養われる。子供の心を偏差な競争主義に追いやることになる」』と学校の教育法に対して危機感をもたれています。
結局、日本では学校に行くのが常識となり、行かないと差別や偏見がありますが、そもそも学校のあり方は正常なのでしょうか?学校に行くことにより、精神を病んでしまった子供も少なくないそうです。
「学校へ行くのが常識」というよりも、大切なのは子供たちに「何を教えるか」です。
橋下市長が支持されたのも「いい大学へ入り、弁護士になり、家族を持ったエリート」の発言だったからと思います。
親が望むのは「子供の未来図=いい大学に入って素晴らしい職業に就いて、家族を持つこと」だからです。
そのエリートは競争社会に打ち勝ってきた、弱肉強食の世界での勝利者です。ですから、敵対心や人を見下す、人を罵倒する。平然と人を傷つけることも常識なような価値観も植えつけられています。その価値観を大阪の知事や市長、政党の代表になって実行している「橋下市長」に総理大臣になって欲しいくらいの支持が集まったのでしょう。
しかし一方では人を愛することや、弱い者を思いやる心も求めています。ですから、突然に橋下市長の支持が急落したと思われます。
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聖書の教えは「愛」です。この愛を人は求めています。歌でもそうですし、ドラマでもそうです。愛をテーマにするものが、いつまでも変わらないたくさんの支持を集めています。
ドラマ「ナオミ」では学校の教育長が先生たちに確認をします「規律を守り、勉学を教えるのが学校です!」と
しかし藤原紀香さん扮する主人公の藤堂ナオミ先生が「違うわ!愛を育むところが学校よ!」と反論して言い放ちます!
これからは「子供たちに愛を教える、愛を育むことを教える」人たちが活躍する時代にならなくてはなりません!人を生かすことが私たちの仕事です!この言葉によって始まります!