人は人と関わって生きている。その出会いの中で家族があり、職場があり、学校がある。
一番の問題はその「家族」「職場」「学校」などでは必ず人を育てる立場の人が立てられている。
その育てる人の人格や資質によって、育てられる立場の人間は「暗い日々」を過ごすか、「明るい日々」を過ごせるかが決まることです。
基本的に人間というものは「自分が決めたことに従うように教える」それに素直に従えば「良い」だが、
逆らえば「悪い」。つまり自分の思うように支配しようとする傾向が多いのではないか。
聖書ではまるで反対である。まずは「ありのままを愛している」ことが伝わる。
例えば、子供が手を洗わないで食事をしてしまった時に、親は叱る。きつく叱る母親が多いのではないか。
イエスキリストは、そんなことで叱らない。弟子の中で手を洗わずに食事をしている人を律法学者が見て
「あなたの弟子はなぜ律法で定められているように食事前に手を洗わないのか!」と戒めた。
するとイエスは「手を洗わなくて食べても人を汚さないが、言葉によって人は汚される!」と反論しました。
ここでイエスの教えは「人はつい何か思い煩いをしていたり、興奮したりして忘れてしまうことがある。それを許さない!といちいち叱る言葉が人を汚してしまう」ということです。
友達の家族と、大きな公園の前の側道に路駐した時です。何台もとまってあったので、公園の目の前にとめました。
帰りに3才のMちゃんが車を見たとたんにダッシュで走って車道に飛び出しました。
当然に父親はキツく叱りつけ、Mちゃんは号泣しました。
後で考えてみると、Mちゃんは家族みんなで行くドライブが大好きです。車を見るとダッシュで走って、一番先に車に乗り込もうとします。
だから車道を飛び出すと危ない!という注意はいつも教えられていますが、車を見たとたん、そういう注意事項はブッ飛んでしまったのでしょう。
だから、車を公園のすぐ目の前に置いた大人が悪かったと反省すべきです。(つまり私ですが)
また車道を飛び出すことは命にかかわるので、子供にはキツく諭すことが大切ですが、しかし自分自身は守っているかというと、守っていないことに気づきます。
自転車で通勤の時、遅刻しそうだとバンバン車道を飛び出し、信号も思い切って無視します。
同じく急いでいる自転車やバイク、車と出会い頭で衝突しそうになってゾクッとしますが、遅刻と自分の命がどっちが大事や?と言われそうですが、小学生から現在まで変わっていないのです。
ですからMちゃんをキツくは叱れないでしょう。だから飛び出してしまった行為は理解してあげる。
しかし、わざと飛び出したらキツく叱ります。
イエスキリストのスタイルがそのようです。有名な12人の弟子たちは全員が情けなくダメな人物でした。
何故?神様が選んだのに、こんな人たちを選んだのか?完全な人選ミスだと思ってしまいます。
漁師が多く、ヤコブとヨハネは「雷の子」とあだ名がつくぐらいの怒りん坊です。ある村が歓迎しないのに激怒して「焼き滅ぼしましょう!」と訴えたりしました。その時はイエスもキツく叱っています。
ペテロは「命をかけてイエス様を死守します!」と宣言したが「、こんな人は知らない!」と裏切りました。
結局は弟子たち全員が裏切りました。
イエスキリストが何度も復活することを教えていたにも関わらず、現実に復活したというニュースを聞いても、11人の弟子は信じませんでした(1人はイエスを引き渡しす取引きに応じたイスカリオテのユダで、自殺した)
弟子たちは断食はしないは、ひもじかった時、稲穂をつまみ食いするは、下品に道端で大声で歌うは(阪神ファンを思わせる)
いつも律法学者たちに怒られていますが、イエスはいつもかばっています。
このイエスの姿勢こそが「人を育てる道標」でしょう。
少々なことでは叱らない、注意しない。
「人の目のちりを取ろうとするな!自分の目にははりがあるじゃないか!」
しかし自分には厳しいのです。40日の断食をされたり、朝早く起きていとも熱心に祈られました。
弟子たちは祈れず、寝ていたら「1時間でも祈れないのか」とこぼされましたが、弟子たちは構わず、二度寝をしました。
しかしイエスが天国に昇天されてから、弟子たちは生まれ変わり、使徒行伝ではイエスの望まれる信仰を歩みます。
人を従わそうとすれば、人は反発したり、心の中で軽蔑しながら従ったりします。
子供を些細なことで注意し続け、繰り返すと怒っても、絶対に良くなりません。
自分自身をよく見たら、些細なことがよくあるでしょう。後片付けが苦手とか、集合時間に遅れるとか、変わっていないですね。
自分は良くて、相手はダメというのは理不尽です。
本当に良い人間関係を築くためにどうすればよいか?何を道標にするかで方向性が変わります。
願わくば良い道標を持ってほしいですね。
「私たち(指導者)は、あなた方を支配するのではなく、あなた方の喜びの為の協力者です」
「家族」「職場」「学校」「教会」などの指導者(リーダー・親)に対する教訓です。