日本の教育は、いつも対極している。国民を代表する国会議員たちを見れば明らかです。
常に「与党議員」と「野党議員」が日本の法律を決めることについて「対極」することが目立ちます。
日本人の特徴の一つに、クリスマスはキリスト教を受け入れて、翌週の元旦には神社や寺院の神道を受け入れるので、外国人から「信じられない民族だ!」と言われていることがあります。
まるで「対極」することを自ら好んでいるようにも思えるのです。
ですから教えが対極しているのも仕方がないとも言えるでしょう。
「脱原発」と「原発推進」 「体罰廃止」と「体罰容認」などなど、「こちらが正しい!」「いやこちらこそ正しい!」と極端に争います。
面白い意見があります。21才の大学生の西邑友里さんが「反○○から脱皮し代案を」というタイトルで産経新聞に投稿しています。抜粋して紹介します。
「ある本で「私は反戦運動には参加しません。平和のための活動になら参加します」というマザーテレサの言葉を知った。
なぜ「反戦運動」ではよくなくて「平和のための活動」ならいいのか?
その2つにどういう違いがあるのか考えてみた。私は「反戦」では反戦運動者と、戦わざるを得ない人たちとの「戦い」になってしまうからではないか、と思う。
この「反戦」はあらゆる「反○○」に置き換えることができるのではないだろうか。
例えば「原発を許さない」では、原発が必要な人々との戦いになる。
原発に反対するなら代案を主張すべきだ。
「反○○」からは争いが生まれるばかり。
デモに参加する人たちのエネルギーが、もっと建設的なものであれば、日本は現在の沈滞ムードから早く脱却できると思う」
この意見の思考はマザーテレサの信仰する「聖書の教え」と一致しています。
聖書の教えにも対極していると思わされることがたくさんあります。
「神は平和の神です」という教えと「あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか?
そうではない。むしろ分裂だ」という教え
「剣を持つ者は剣によって滅ぶ」という教えと「剣のない者は、服を売って剣を買いなさい」という教えがあります。
また「同じことをくどくどと祈るな」という教えと「しつように頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう」という教えがあります。
その為にキリスト教の世界でも「聖書の御言葉により対極して対立して争いが起きています」
これは対極した御言葉を認めないことから争いが起きます。
例えばある牧師は「くどくどと祈るな」という信仰から、一度祈ったことは、もう神様が聞き入れて下さっていると確信しているから、同じ事は2度と祈ってはいけません!と教えていました。
それを聞いたクリスチャンや牧師たちは不安そうな表情になりました。
聖書の御言葉はすべて認めることが信仰の秘訣です。それぞれの解釈があります。
そのケースケースによって必要になるのです。
「むしろ分裂だ、平和ではない」という教えは、先祖代々から仏教を崇拝する家族の中で、一人だけがクリスチャンとなった場合、その仏教で一致して平和だった家族は分裂してしまいます。
そのような環境になった時に必要な御言葉です。
「剣を買いなさい」も2001年に起きた池田小事件。大男が大きな包丁を持って、小学校に乱入して1年生と2年生の子供たちが襲われました。
先生たちは絶対に起きることがない突然の出来事に驚き、素手で包丁に立ち向かう勇気も持てず、一生の後悔と大きく深い傷を負いました。
その反省から教室には対抗すべき「武器」を用意して、子供たちを守る為の武器を使っての訓練もするようになりました。
こういう場合は「剣を買いなさい」の御言葉があてはまるでしょう。
勿論、小学校に侵入される事がないように強化していますから、その剣は使うことはないでしょうが、
子供たちを守る為に必要なケースもあるのです。
また剣を持つ者は剣で滅ぶとおりに、原発を持つ地域は原発で滅ぶケースがあります。
核兵器を持つ国は核兵器で滅ぶケースもあるのです。
北朝鮮は調子に乗ってミサイルをまた発射させて、威厳を保つみたいですが、その打ち上げたミサイルが平壌に落下するケースもあるのです。
次は「教育とは」「愛のムチ」についての教えとを見ていきます。