ずっと昔、自分は連続している世界の中で
生きているものだと思っていた。
連続という言葉を厳密には知らなかったけど、
なんとなく、ぽっかり穴の空いたところは無くて
すべてが繋がっていて、流れているように感じて
いました。

高校の数学で連続性について学んだとき、
或いは、大学でさらに連続性や極限について
深く学んだときにふと考えていたことがあります。

自分の目は何枚かの写真を見て、それを処理
しているんじゃないか。
そして、その写真は有限なのではないか。

人間が無限にある写真を頭で処理できるとは
到底思えないです。

だとすると、連続的に流れていそうな時間の
中で自分が認識できているのは、非常に不連続
で穴だらけの世界なんじゃないかなぁと。

有限の世界しか認識できていないなら。無限に
繋がって流れている世界のほとんどを人間は
認識できていない。
世界をある領域で表現するなら、人間は、その中の
測度0の部分しか見えていないことになります。

そうなれば、世界の次元は、人間の認識できる次元
を遥かに超えていても不思議ではないですし、世界を
明らかにするのにこれだけ苦労するのも納得ができます。

自分が世界だと思っているものは、真実の世界の射影である。
だから、真実の世界の特徴を知ることができるはずで、
それが法則や原理などといったものだと考えられます。

時間は、人間が自ら作りだした道具なのか・・・
それならば、なぜ時間の全てを認識できないのか・・・

逆に、時間とは、世界にもともと備わっている一つの
次元なのだろうか・・・
そもそも、時間などないのかもしれない・・・

空間次元にしても時間次元にしても、人間は真実の世界の
中の点の部分を見て、そこに生きているように感じます。

例え、点の部分しか見えていなくても、点が多く集まれば
全体像が何となく見えてくるはずで、それが何よりドキドキ
する。
「私、死んでもいいわ」 か 「月が綺麗ですね」 のどちらか
といえば、「月が綺麗ですね」派ですかね。。。
なんとなく高校の体育で持久走
やってた時を思い出しました。

持久走は結構好きだったんですけど、
別に学内で早いわけでもなくw
かといって遅すぎるわけでもない。
なんとも中途半端な感じ。
でも、好きでした。

自分の世界に浸れる時間。
走ってるとき、色んなこと考えてました。

先生の目の届かないところで歩いてる人たち
もいたし、それは理に適ってるような気さえします。

でも、なんで自分はこんなに一生懸命走ってるんだろう?
身体的にも苦痛で、まだまだゴールが遠ければ
精神的にも苦痛なのに。
どうして足が止まらないのだろう?
走りきって、中途半端な順位でゴールして、
それで何が得られるのか?

最後まで走り通したという自信とか、努力・・・
そういうのは別に持久走でつけなくてもいいしなぁ・・・

走り続けることの意味。
自分と向き合う時間の産出だったのかなぁ。
もう記憶が曖昧w

色々弱い自分が見えて、そんな自分が嫌だったから
足を止めたくても止められなかったのかね。。。

自分がこの苦痛にどこまで戦えるのか、限界って本当に
あるのか調べてたのかね。。。

ずーーーーっと走り続けてたら、自分はいつ足を止めるん
だろう。
終わりのない持久走だったら、最初から歩いてたかな。
終わりがあるから、走れたのかな。

ゴールして終わったからこそ、そこに何か、走っていたとき
には気付かなかった新しい意味を見出せるのかもしれない。


特に数学やってると、なんでやってるの?とか、意味あんの?
とか、何の役に立つの?なんて言われることばっかり。

もちろん数学のどんな分野でも、モチベーションはあるし、
どんな概念にも意味があって誕生した。


人類の未来を明るく照らす可能性を秘めたものもある。
縁の下の力持ち的な学問の発展であっても、そこには
すごく人間的な、自然な発想や考え方がある。
自然の中に真理があり、そのなかに人間が存在し、
人間の中に真理があるように思わせてくれる。

自分が数学をするのは、そこに生きる意味や自然との繋がりを
感じ、神秘的な気持ちになったりするからだと思う。。。
世界の真理の全てがそこにあると確信できるだけの結果や奇跡を
目の当たりにして、だったらそれを追い求めたくなる。
理由の一部はこんなものだけど、これは、みんなの疑問に完全に
答えられていないんだと思う。

なんでやってるの?
意味は?役に立つの?
数学が社会にどう組み込まれているのか、数学をやるとどんな良い事
があるのか、、、
自分が数学をやってる理由は、これらに対してあまりしっかり答えられて
いないです。

もちろん、数学は社会に多く組み込まれているし、やっていればいっぱい
良い事もあるでしょう。でも、それを聞いて納得させられても、数学をやる気に
はなれないでしょう。

社会に貢献したければ数学じゃなくてもいくらでもあるし、数学以外にも
良い事なんか腐るほど体験できるでしょうから。

自分の述べた「数学をする理由」は、自分が今、数学という学問で
走り続ける理由であるだけです。
真理が無限にあって、終わりはないかもしれない。

でも、自分にとっての終わりは「死」の瞬間なので、それまで数学を続けたい。
「死」の瞬間(直前)に、何か新しい意味を見つけることができるんじゃない
かと思うんです。



終わりがあるからこそ、
 時間は流れ、
 その中で未来に自己を投げ出す。





p.s.
ハイデガーの披投性と投企に通ずるものを感じました。