先日、私が昔働いていたハノーファー州立歌劇場でショッキングな事件が起きてしまいました。

 

内容は、歌劇場附属バレエ団団長のマルコ・ゲッケ氏が、バレエ団の『Glaube Liebe Hoffnung(信仰、愛、希望)』の公演の初日の休憩時間に、フランクフルト総合新聞の女性舞踊評論家のほっぺたに自分の飼い犬のフンを塗りつけてしまったというものでした。

 

その日は朝から元バレエ団員のグループチャットにこの記事が上がってきて、私はビックリして言葉がなく、とにかくバレエ団の団員が心配でたまりませんでした。

 

ゲッケ氏がその様な行動をとってしまった理由として「その女性評論家が20年もの間ずっと彼の作品に対する酷評を書き続けてきたから」ということが発表されましたが、(真相はもっと深いところにあるのかもしれませんが、これがメディアに公表された理由です。)

 

彼のとった行動によって、その評論家もかなりショックだったと思いますし、劇場やバレエ団にも迷惑をかけてしまったのですから、彼を肯定することは到底できません。

 

彼はバレエ団長としての権利を失い、これからも多くのバッシングを受けていくのだと思います。

 

でも、

 

なぜか、どうしても私はゲッケ氏の気持ちを考えてしまうんです。

 

誰でも多かれ少なかれ評価を受けますし、批判されたら誰でも気分が良くはないし、みんなそういう世界に揉まれながら生きていることはわかっています。

 

誰でも叩かれてもイジられても歯を食いしばって頑張っているということも知っています。

 

それでもゲッケ氏の痛みを想像してしまうんです。

 

自分の芸術作品を酷評されるというのは、自分に対する人格否定、または家族、子供、ペットなど愛するものが誰かに否定されたり、踏み躙られた時の様な、とてもパーソナルな深いところで痛みが発生します。

 

私自身も昔眠りの森の美女を踊った時に(それこそ今回と同じフランクフルト総合新聞で)テクニックが未熟だと評価され落ち込みましたが、今回私が読んだゲッケ氏に対する評論文は、見出しから「魚に与える様なもの」「観客は退屈さに殺された」など「私がこんな批評を受け取ったら、多分ゲ○吐いてしまうだろう」と思わせる意地悪な書き方に感じました。

 

それが20年間もの間続いたなんて聞けば、ノイローゼになってもおかしくないだろうなと思ってしまうのです。。。。

 

以前ザルツブルグ音楽祭でお会いしたある世界的に有名な指揮者の奥様は、ご主人が公演や舞台の批評は一切読まないとおっしゃっていました。

 

アーティストはそれくらい繊細なのです。

 

四六時中身体と心の感性を研ぎ澄まして作品を作っているのだから、批評読む時だけ感じるのやめてと言われても無理な話だと思うんです。

 

『批評家は、若手のうちは持ち上げ、目立つ様になると叩く』と聞いたことがありますが、

 

ゲッケ氏はコレオグラファー・オブ・ザ・イヤーなどの賞をいくつも受賞しているスター振り付け家ですから、出る釘は打たれるという事でしょうか。

 

実際には、批評されるポジションに行くまでも長い道のりがあります。

 

先日夫の実家に帰った時にこの話を義父にしたところ、オーストリアの劇詩人の『フランツ・グリルパルツァー』の話をしてくれました。

 

グリルパルツァーも常に他の作家と比べられ、評論家から酷評を受けて悩んでいた1人だそうです。

 

ウィキペディアにも『1838に執筆した『嘘つきに災あれ』のブルク劇場での初演が不評であったことをきっかけに、作品を公的に発表することをやめ、以後に執筆した戯曲はいっさい出版、上演を認めなかった。』と書いてあります。

 

 

こちらは、義父が紹介してくれたグリルパルツァーの言葉です。↓

 

『文学界においても、ブルジョワ社会と同じ様に礼儀が必要です。そして、紳士達が間違っている場合、召使い達は彼らの意見を述べる権利を持っていますが、帽子を手に取るべきなのです。』

 

「帽子を手に持つ=頭から外して」のところに「マナーを守りましょう」というメッセージが入っているのだそうですが、「召使い」という言葉にもちょっと嫌味が入ってるかなと思います。。。

 

お互いにマナーに気をつけながら、舞台芸術も、書く芸術も守っていけたら良いなと思っています。