僕は今、毎日楽しみに観ているドラマがあります。〈NHK〉連続テレビ小説「虎に翼」です。伊藤沙莉さん主演で、日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ、一人の女性の実話をベースにしたオリジナルストーリーですね。

 

志を同じくする者たちと共に社会を変えようと、困難な時代に立ち向かい、法曹の世界で、道なき道を切り開こうと戦ったヒロインたちの情熱あふれる姿に毎回、泣かされているのですが、「虎に翼」を観ながら、「裁判」をテーマに、東京周辺の小さな町で起こった、単なる刺殺と思われた事件の背後に隠された、一人の青年を愛し奪い合ってしまった姉妹の激しい葛藤と秘密を重厚で骨太に描いた傑作映画があったなぁと思い出しました。

 

1977年に新潮社より刊行され、戦後を代表するベストセラーとなり、1978年に日本推理作家協会賞を受賞した大岡昇平さんの原作を、野村芳太郎さんが監督した『事件』です。今、Amazon primes videoで配信されていて気軽に観れるので、久しぶりに観直しました。

 

初めて観た時も傑作だなぁと思いましたが、時を経て再鑑賞して、人が人を裁く難しさ、裁判官が下した判決が本当に真実と言えるのか?。正義で人は救えるのか?…色々と考えさせられたので、今日は映画『事件』のことについて呟きたいと思います。

 

小説『事件』は、最初『若草物語』というタイトルで1961年6月から1962年3月まで、朝日新聞の連載小説として執筆され、加筆修正ののち『事件』と改題し、1977年に新潮社より刊行されました。僕が読んだのは高校生の頃、父の本棚にあったものを読みました。

 

作者の大岡昇平さんのことは、当時は『野火』や『俘虜記』『レイテ戦記』を書かれた戦争文学の巨匠というイメージを持っていましたから、『事件』というタイトルを見つけて、ミステリーと呼ばれる犯罪ものを手掛けられていることに驚きましたし、新鮮な気持ちで手に取った事を覚えています。

 

僕は大岡昇平さんの作品では、戦争をテーマにした作品より、『武蔵野夫人』、『花影』のような女性がヒロインの作品に魅かれました。特に『花影』は大好きな作品です。

 

『事件』という小説は、大岡昇平さんの作品歴の中では異質に見えますが、大岡さんご本人はミステリーが大好きで、ミステリーというジャンルにある種の思い入れを持った方だったと聞いて納得しました。

 

大岡さんの書かれた作品を読むと、どの作品にも共通のテーマやモチーフがあることに気づきます。評論家の方も言われていますが「死(命がなくなること、役に立てないこと)」、「不条理(道理に合わない、筋道が通らないなどを意味する)」、「喪(人が逃亡する、ものを失う、ほろびるを表す)」ということが作品の重要な部分、核心になっていると感じます。

 

『事件』を読むと「殺人」という悲劇の実泰を暴くというミステリーの構造が、「死」、「不条理」、「喪」という大岡さんの作品の主題(創作の動機)としてきたものにビッタリだったんだと感じます。

 

単行本として出版されたのは、新聞連載から15年も経った1977年だったんです。連載中に「集中審理方式(事前に裁判関係者が相談しておくこと)」という裁判手続きが導入されたり、作者自身のテーマに対する意識の変化などから作品の方向性が変わったり、連載が終わっても裁判に関する記述に不正確な点があってはならないと加筆修正、推敲を重ねていたためなんです。

 

それだけ力と命を込めた作品が面白くないわけがありません。ペストセラーとなり「日本推理作家協会賞」を受賞されたのです。

 

その後も改訂は続けられ、文庫本化される時にさらに裁判に関する正確化が図られ、全集に収録される時に最終的な形になったそうです。

 

起訴状、冒頭陳述要旨、判決文などの裁判文書を実際のものと同じ文体で細部にわたって小説の中に取り込み、東京の郊外のある町で起こった、一つの殺人事件の公判廷を舞台に、裁判官、弁護士、検事、そして被告自身と、それにまつわる証人たちの思惑を絡ませながら、”裁判の真実”を浮き彫りにしていく、ミステリーの枠を超えた日本文学史上屈指の「裁判小説」になっています。

 

『事件』1978年 松竹

《スタッフ》

◎監督、製作:野村芳太郎

◎脚本:新藤兼人

◎原作:大岡昇平

◎製作:織田明

◎撮影:川又昂

◎音楽:芥川也寸志

◎音楽:松田昌

◎美術:森田郷平

◎編集:太田和夫

◎照明:小林松太郎

◎助監督:大嶺俊順

《キャスト》

◎上田宏:永島敏行

◎坂井ハツ子:松坂慶子

◎坂井ヨシ子:大竹しのぶ

◎谷本裁判長:佐分利信

◎野口判事:中野誠也

◎矢野判事:磯部勉

◎岡部検事:芦田伸介

◎菊地弁護士:丹波哲郎

◎花井先生:山本圭

◎宮内辰造:渡瀬恒彦

◎大村吾一:西村晃

◎篠崎かね:北林谷栄

◎清川民蔵:森繁久彌

◎坂井すみ江:乙羽信子

◎上田喜平:佐野浅夫

◎桜井京子:夏純子

◎多田三郎:丹古母鬼馬二

 

『事件』はこんな物語です。

都市化の進む神奈川県厚木市に近い町の山林で、小さなスナックの経営者、坂井ハツ子(松坂慶子さん)の刺殺死体が発見されます。

 

殺人現場近くに居合わせた地主・大村吾一(西村晃さん)の証言などにより、19歳の工員・上田宏(永島敏行さん)が容疑者として逮捕されます。

 

宏は、被害者ハツ子の妹で妊娠中のヨシ子(大竹しのぶさん)と同棲中でした。宏は、殺人と死体遺棄の罪に問われて起訴され、殺しの事実は認めたのでした。裁判の争点は宏の殺意です。

 

検事(芦田伸介さん)、弁護士(丹波哲郎さん)は激しく対峙し、弁護士は被害者ハツ子のヒモだった宮内(渡瀬恒彦さん)らの証言の矛盾を巧みにつきながら、検事が主張する宏の殺意を覆していくのです…。

 

新藤兼人さんの脚色が見事なんです。原作を忠実に脚本化されてて、検事と弁護士による証人尋問を軸にして、各証言者の証言によって「事件」に至るまでの成り行きが明らかにされて行く小説の進行を変にいじることなく、カッチリと緻密に構成し、再現されています。

 

この『事件』はキャストがいいですね。

 

被告人・宏の弁護を担当する、普段は穏やかな性格ですが、裁判では証人たちに鋭い口調でまくし立てるように切り込む菊地弁護士を演じた丹波哲郎さん。

 

菊地の証人への尋問は、時に質問の関連性が不明だったり証人の名誉を傷つける内容のため何度も異議を申し立て、証人や証拠品などから宏が殺人を犯したことを立証しようとする検事を演じた芦田伸介さん。

 

菊池弁護士の知人で、菊地から、証人として出廷予定の宮内と多田への聞き込み、及び被害者と加害者の家庭環境の調査を依頼される宏の中学時代の教師を演じた山本圭さん。

 

ハツ子の死後、宮内の部屋で一緒に暮らしている、蓮っ葉でがさつな言動をする女・京子を演じた夏純子さん。

 

妻の死から1年も経たない内に芸者を妾にし、事件の原因は、ヨシ子とハツ子の育った環境が悪かったせいだと被害者家族を批判する宏の父を演じた佐野浅夫さん。

 

事件当日、宏とハツ子が自転車に二人乗りして店の前を通りかかるのを目撃し、証人とし証言する青果店を営むおばさんを演じた北林谷栄さん。

 

ハツ子を失った悲しみに堪え、被告人である宏に対しては刑が軽くなることを祈り、ヨシ子と二人で幸せになることを願っている、ヨシ子とハツ子の母を演じた乙羽信子さん。

 

宏のことは子供の頃から知っており、事件当日、宏に偶然会った遺体発見現場の土地の所有者で、ハツ子の死体第一発見者・大村吾一を演じた西村晃さん。

 

やくざらしき男で、ホステス時代のハツ子の恋人、別れた後ハツ子と再会し『カトレア』に入り浸り、事件当日ハツ子と会っていたことを証言するハツ子のヒモ・宮内辰造を演じた渡瀬恒彦さん。

 

証人たちが思い込みや嘘の証言をするため進行に手を焼きつつ、宏が成人になる時期が近づいているため、迅速かつ公平に裁判を見極めたいと考える、菊地とは同じ大学出身の谷本裁判長を演じた佐分利信さん。

 

事件当日、宏が店の商品である凶器となった登山ナイフを購入した時のことを証言する金物屋の主人・清川民蔵を演じた森繁久彌さん。

 

ため息が出るような名優揃いで、見応えがありますよ〜。映画の6割以上が法廷シーンなのですが、単調で退屈になりそうな法廷のシーンが、この名優たちの力で目が離せない名場面になっています。名脚本家、名監督、名優が揃えばこんなに面白くなるという証明のような映画です。

 

乙羽信子さんや西村晃さんは、照明が当たらない、薄暗い傍聴席に座っているだけのシーンでも、表情だけでキッチリその人物の置かれた状況を表現されているし、上手い役者って本当に目が離せないお芝居をされます。

 

19歳で、ハツ子を殺したとされる、殺人及び死体遺棄の容疑者、上田宏を演じた永島敏行さん。『事件』の前に出演した、東陽一監督の『サード』で注目されたんですよね。この頃はまだ新人でまだまだ俳優とは言えない感じですけど、木訥で垢抜けない、まじめだけが取り柄で、取り返しのつかないことをしてしまったと苦悩する青年を真摯に演じてられましたね。

 

宏はハツ子の妹、ヨシ子と恋仲で、ハツ子はすでに妊娠3ヵ月。宏とヨシ子は家を出て横浜方面で暮らし、子供を産んで、二十歳になってから結婚しようと計画していたのですが、これを知ったハツ子は、子供を中絶するようにと二人に迫っていたんです。実は宏はハツ子とも体の関係があり、ハツ子も宏と一緒になり、今の状況を変えたいと願っていたんです。宏の優柔不断さ、自分勝手さが起こした事件とも言えます。全く違うタイプの姉妹の間で揺れ動く気持ちは男として同性愛者の僕でも分からなくはないですね〜。

 

殺されたハツ子の妹、ヨシ子を演じた大竹しのぶさん。宏を一途に愛し、純朴で大人しそうに見えますが、自分がこうと思ったら、テコでも動かない太々しさと厚かましさとを持ち合わせ、自分が手に入れたいと思ったものは、どのような手を使っても自分のものにして、絶対手離さない…そんな激しさを持つ女性を新人ながら物凄い存在感で演じてられます。完成されています。証言台で「セックスです‼︎」と叫ぶシーンは公開当時話題になったでしょうね。

 

この作品の白眉は殺された坂井ハツ子を演じた松坂慶子さんでしょう。中学2年の時に「劇団ひまわり」に入団されて子役として活躍されていました。『ウルトラセブン』第31話「悪魔の住む花」の松坂さんは有名ですよね。高校2年のとき、大映にスカウトされますが、1971年に大映は倒産。1972年に松竹へ移籍されますが、当初は若くて綺麗なだけの添え物的な役柄ばかり。『藍より青く(1973年)』や『宮本武蔵(1973年)』、『恋人岬(1977年)』という作品もありましたが、なかなか結果が出せなかったんです。

 

そこで松竹が松坂さんを一流の本格的な女優として育てたいと白羽の矢を立てたのが野村芳太郎監督です。『五辯の椿』で岩下志麻さんを女優開眼させた実績を買われたんでしょう。それで『事件』に松坂さんを抜擢されて大成功だったわけです。

 

監督の期待に応えようする、松坂さんの熱演に僕は心を揺さぶられます。この役柄に賭けているという松坂さんの心情が伝わるからです。ハツ子は、父親に早くに死なれ、女手一つで育てられ、生活苦から親戚に勧められ、好きでもない男と結婚した母の苦労を幼い頃から見ていて、働きもせず母に辛く当たる義理父に力づくで犯されそうになり、母の反対を押切り、東京へ出てゆきます。

 

貧しさから教育もちゃんと受けることもできず、何の後ろ盾もない女性たちが働けるところといえば昔は水商売しかなかったんでしょう。ハツ子も新宿でホステスをしていて、見た目が綺麗なばっかりに悪い男につけ込まれ、金づるにされ、そんな生活に疲れ果て、心身ともに傷つき、なけなしのお金をかき集めて、実家に戻り、やっと自分のお店を持てたのに、昔の男に付き纏われ続ける…。

 

一見、身なりは派手で、感情的になると、乱暴な口調が時たまでてしまうけど、内面は優しい男と幸せになりたいと願っている女性を本当にリアルに哀しく演じられていて素敵だなぁと思います。

 

だから、妹の恋人と知りながらも、宏の純朴さに魅かれてしまったんでしょうね。自分の境遇と妹を比べて、「私はこんなに一生懸命生きているのにどうして幸せになれないの!」という心の叫びが聞こえてきそうです。

 

妹のヨシ子は幼い頃からそんな姉を側で見ていてよくわかっているんですよ。派手に見えても人が良く、優しい心の持ち主だったことを。子供の頃から綺麗で、男の子達に人気のあった姉にずっと嫉妬していたんです。

 

ハツ子のヒモ役の渡瀬恒彦さんがまたいい芝居をするんですよ〜。本当にチンピラにしか見えないんです。渡瀬さんもこの作品で高い評価を受けたんですよね。

 

どこにでもあるような、痴情のもつれからの殺人と思われた事件が裁判よって思わぬ展開を見せることになります。この深い人間ドラマと、裁判で真実を暴こうとする司法に携わる人々の冷静な姿勢とがとてもいいバランスで映画に織り込まれています。

 

裁判でこれが真実ですと判決が降りても、真実は本当のところ誰の目にも見えるものではないでしょ?裁判って、いろんな人の証言を集めて、検討し、これですねと選ばれた答えを真実と定義しているだけで、みんながみんな本当のことを言っているとは思えないじゃないですか?弁護士は容疑者が嘘をついている、罪を犯しているとわかっていても、無罪にするために存在しているわけだし…。

 

裁判で判決が出て、それでひとつの決着がついても、どんな小さな世間によくある事件でも、調べれば調べるほど単純ではない複雑な人間の闇が隠されていることをこの映画は教えてくれます。

 

ラストシーンで、お腹に赤ちゃんを抱えたヨシ子と宮内がすれ違うのですが、宮内がヨシ子に「お前も大したタマだな」というんです。二人は一瞬、意味深に見つめ合うのですが、二人はまだ裁判でも喋っていない真実を隠しているのではないかと感じさせる名シーンです。

 

二人にとってハツ子は邪魔者だったわけですし、宏は刺した瞬間を覚えていないと言ってるんですよ〜。ヨシ子と宮内の間には何か秘密があるんじゃない?という終わり方なんですよね〜。深いんですよ。

 

裁判をテーマにした映画やTVドラマはたくさん作られていると思いますが、『事件』は名作中の名作です。おすすめです。