初めて観た時から、なぜか心に残り続けている映画があります。

 

ストーリーそのものよりも、そこに流れていた空気や、言葉にならない感情だけが、長いあいだ胸の奥に沈み続けている…そんな作品です。私にとって『映画女優』は、まさにそういう一本でした。

 

《スタッフ》

◎監督:市川崑

◎製作:田中友幸、市川崑

◎企画:馬場和夫

◎プロデューサー:藤井浩明、新坂純一

◎原作:新藤兼人『小説 田中絹代』

◎脚本:新藤兼人、日高真也、市川崑

◎映画史監修:田中純一郎 『日本映画発達史』

◎挿入作品:『西鶴一代女』、『浪花女』、『伊豆の踊子』、『愛染かつら』

◎音楽:谷川賢作

◎撮影:五十畑幸勇

◎美術:村木忍

◎録音:大橋鉄矢

◎照明:斉藤薫

◎編集:長田千鶴子

◎助監督:吉田一夫、手塚昌明

◎衣装協力:三松

◎製作:東宝映画

《キャスト》

◎田中絹代:吉永小百合

◎母・ヤエ:森光子

◎姉・玉代:横山道代

◎伯父・源太郎:常田富士男

◎兄・晴次:戸井田稔

◎兄・祥三:田中隆三

◎城都四郎:石坂浩二(城戸四郎がモデル)

◎清光宏:渡辺徹(清水宏がモデル)

◎五生平之肋:中井貴一(五所平之助がモデル)

◎溝内健二:菅原文太(溝口健二がモデル)

◎仲摩仙青:平田満

◎釘貫屋の女将:岸田今日子

◎べんがら格子の中年女:三條美紀

◎守衛:浜村純

◎川島聖子:沢口靖子

◎上原謙:上原謙(特別出演)

◎高田浩吉:高田浩吉(特別出演)

◎守衛:浜村純

◎ナレーター:三國一朗

 

後年、改めてこの作品と向き合ったとき、まず感じたのは、この映画がどこか“整っていない”という、奇妙な手触りでした。物語は断ち切られ、流れは滑らかではなく、ひとつにまとまろうとしない。女優伝であり、映画史であり、創作論でもあるその構造は、明らかに過剰で、不格好にも見えます。

 

けれど…その“不格好さ”こそが、この映画の本質なのではないかと思うのです。

 

市川崑監督は、整った映画を作る監督ではありません。むしろ、整わなさをそのまま残すことでしか掬えないものを、執拗に見つめ続けた作家です。

 

『映画女優』における断絶や不統一は、決して失敗ではありません。それは、語りを整えすぎれば失われてしまうものを守るための、意図的な“ほつれ”です。

 

人生は滑らかに繋がらない。記憶もまた、断片のまま立ち現れる。この映画は、それを“整えること”を拒否している。だからこそ、観る者の中で引っかかり続けるのです。

 

市川崑は、この作品を伝記としてではなく、あくまでフィクションとして捉えていたと言われています。だからこそ本作は、事実の再現ではなく、田中絹代 という存在を通して、日本映画という時間そのものを描こうとしている。その前提を見誤れば、この映画は不完全に見えるでしょう。しかしそれは、作品の欠点ではありません。見方の問題なのだと思います。

 

田中絹代を語るとき、“美しさ”という言葉だけで語ることはできません。彼女は、美しさを守る女優ではなかった。むしろ、役のためなら、その美しさすら手放すことのできた稀有な表現者でした。

 

『楢山節考』で前歯を抜いたという逸話は、その象徴に過ぎません。それは極端な例ではあっても、彼女の本質を最も端的に示しています。それは、女優という存在が商品ではなく、削られていく器であることを示しています。田中絹代は、その残酷な原則から一度も目を逸らさなかった人でした。

 

老いを恐れたのではない。老いすら引き受ける覚悟を持っていた女優だったのです。この映画が描いているのは、成功の物語ではありません。“映画女優であり続ける”という選択を、最後までやめなかった一人の人間の姿です。

 

溝口健二との関係もまた、単純ではありません。そこには確かに、苛烈な演出と厳しい現場があります。しかしそれだけではない。追い詰められながらも応えようとする意志。壊されながらも演じ続ける覚悟。それは支配や服従ではなく、映画という場所でしか成立しえない、奇妙な信頼でもあったはずです。愛でもなく、理解でもない。しかし、確かに結ばれている何か…。

 

この映画は、その言葉にならない関係の輪郭を、静かに残しています。

 

吉永小百合は、田中絹代にはなれません。

 

けれど、その“なれなさ”こそが、この映画の核心なのではないでしょうか。完全に重なることのない二つの存在。その距離を消そうとせず、むしろそのまま映し出してしまう。そこには、演技という行為の本質がある。人は誰かになることはできない。ただ、なろうとすることしかできない。その届かなさが、この映画には刻まれています。

 

市川崑の映像は、もともとどこかクールです。感情を過剰に揺さぶるのではなく、一定の距離を保ったまま対象を見つめる。“感じさせる”よりも、“見せる”ことを優先する映像です。

 

本作でもそのスタイルは貫かれています。田中絹代の人生をドラマとして盛り上げるのではなく、あくまで“そこにあるもの”として提示していく。そのため本作は、ときに冷たく感じられるかもしれません。しかしそれは、感情の欠如ではなく、過剰な演出を拒んだ結果なのだと思います。

 

市川崑は、田中絹代という存在に対して、無遠慮に踏み込もうとはしていません。むしろ、一定の距離を保ったまま冷静に見つめることこそが、自分なりの敬意であると信じて演出しているように思えます。そのため本作は、ときに冷たく感じられる。しかしそれは、対象を安易に理解したふりをしないという、誠実さの裏返しでもあるのです。

 

本作は、田中絹代という一人の女優の半生を描いた作品であると同時に、市川崑が先輩映画人たちへ捧げたオマージュでもあります。

 

そしてそれは、単なる回顧では終わらない。映画というメディアが持ってきた熱や痛み、そのすべてを含めた“魂”を、後の時代へと手渡そうとする試みでもあるのだと思います。

 

『映画女優』は、決して整った映画ではありません。統一感があるとも言えないでしょう。しかしその不格好さは欠点ではない。女優という存在の矛盾、映画という産業の残酷さ、そして一人の人間の執念を、ひとつにまとめることを拒んだ結果なのです。

 

この映画は、田中絹代を描ききった作品ではありません。そして、おそらく誰にも描ききることはできない。だからこそ、この映画は成立している。

 

描ききれないものを、描ききれないまま残している…。

その不完全さこそが、この映画の価値なのだと思います。