3月21日にNHK総合で、人々の論議を巻き起こす問題作に迫るドキュメンタリー【完全なる問題作】が放送されました。

 

『善と悪の深遠なる世界』と題して第1回目に取り上げられたのは、J.D.サリンジャー著「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でした。

 

1951年に出版されて以来、世界30ヵ国語に翻訳され発行部数8,000万部以上を誇る青春小説の金字塔と呼ばれ、日本では『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルで親しまれています。

 

日本で最初に出版されたのは、1952年、橋本福夫さん訳でタイトルは『危険な年齢』。著者表記は、J.D.サリンガーでした。1964年、新版が白水社から野崎孝さんの訳で〈新しい世界の文学 第20〉『ライ麦畑でつかまえて』として出版されます。僕が高校生の頃読んだのも、野崎孝さん訳の白水社版でした。2003年には、村上春樹さん訳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として新訳が出版されましたね。

 

既存の政治体制や社会に不満を抱いた若者に絶大な支持を得ながら、アメリカの教育現場では青少年に悪影響を与えるとして、学校の図書室から追放され、長い間、禁書扱いされていました。禁書理由として、「道徳的に問題がある。過度の下品な言い回し(ファック、ガッデムなど)が目立つ。オカルト関連の記述(キリスト教への冒涜)や、過度の暴力・性行為のシーンを含む」などと言われています。

 

1980年12月8日に、元ビートルズのジョン・レノンが、自宅のアパート前で、至近距離から4発の銃蝉を撃ちこまれて殺害されました。犯人は当時25歳の男・マーク・デイヴィッド・チャップマン。この男は殺害後、警察が来るまで歩道にすわりこんで、ポケッ卜から「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の本を取り出すと、静かにまるで何事もなかったように読みだしたのです。後年、インタヴューを受けたチャップマンは、ジョン・レノンを殺したのはサリンジャーの小説の影響だと主張しました。

 

ジョン・レノンの殺害から4ヶ月もたたない1981年3月30日、ロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂事件が起きます。ジョン・ヒンクリー・ジュニアという男が、女優のジュディ・フォスターの関心を惹こうとして(映画、タクシー・ドライバーの影響もあり)、大統領、大統領報道官、ガードマンを撃ったのです。

 

警察がヒンクリーが泊まっていたワシントンのホテルの部屋を捜索したところ、彼が所持していた10冊の本を発見し、そのなかに「キャッチャー・イン・ザ・ライ」があったんです。

 

1989年7月18日、女優のレベッカ・シェイファーを3年間もストーキングをした挙句、殺害したロバート・バルドも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を持ち歩いていました。

 

1989年代に立て続けにこんな社会を震撼させる事件が起こり、全ての犯人がJ.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に影響を受けていたとなれば、問題作としてのレッテルを貼られ、逆に世間の注目も浴びるし、話題にもなり、またこの本に感化された人間がどんな犯行を起こすやもしれないと発禁処分にされたのもわからなくもないですね。だからNHKが人々の論議を巻き起こした問題作として取り上げたんでしょうね。

 

僕が『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは、16歳の頃、丁度、主人公のホールデンと同じ年齢でした。その時は、こういった事件があったことも知っていましたし、タイトルは中学生の頃から知ってはいたんです。1985年5月号〜1994年4月号の『別冊少女コミック』に連載されていた吉田秋生さんの漫画『BANANA FISH』が好きで読んでいて、『BANANA FISH』が『ライ麦畑でつかまえて』に影響を受けているということを知ってから、『ライ麦』を読みたいと思っていたのですが、主人公と同じ16歳になるまで読んじゃダメと言われていたんです。父に。

 

16歳になって読めるとなった時は、「やった!」と思いました(笑)

 

議論を呼んだ問題作なんだとちょっと構えて読み始めたのもあったのかもしれませんが、期待が大きかった分、こんなもんか…という気持ちの方が大きかったですね〜当時は。その時は作者のJ.D.サリンジャーのことなんてどんな人間か知りもしなかったし、興味もなかったですから。

 

僕が映画を観たり、小説を読むことが好きな理由は、自分が知らない世界を教えてくれるからとか、気づかなかった事に目を開かせてくれるとか、眠っていた感情を激しく揺さぶってくれるとか…まぁ色んな理由があるんですけど、『ライ麦畑でつかまえて』はどれにもあてはまらなかった気がします。

 

面白いとか感動するとか共感するとかもなく、何故この本が人を犯罪に走らせ、問題作として発禁処分になっていたのかという疑問だけでした。時代が違う、育った環境が違うにせよ、あまりにも同じ16歳として理解できないことの方に興味を持ちましたね。変ですけど。

 

物語は、成績不良を理由に高校から退学処分にされ、寮を飛び出し、ニューヨークの街を放浪する中流家庭の子息であるホールデンの、欲求不満の感情を描いた作品です。

 

この物語は、波乱万丈な冒険も、驚くような大事件も、めくるめくラブストーリーも描かれていません。ホールデンは、街中で出会う人々に対して「インチキ(phony)」 という言葉をぶつぶつ口癖のように言い続けています。その繰り返される言葉からはいわゆる「大人になりきれない若者」の社会に対する不満といったような紋切り型の感情だけが目立ってしまって、ただ単に最初から最後まで、ただのわがままな苦労知らずの悪ガキの話のように感じてしまったのです。

 

当時は深く小説をまだまだ読み込む脳力も育っていない時期でしたから、そんな単純な表面的な部分しかわからなかったということです。

 

僕は社会に出るまで、本当に世間知らずで、今から思うと子供だったんです。社会に憤るとか、親の心に背くとか、学校に対して反旗を翻するとか、そんなことこれっぽっちも考えたことがなかったんです。ポヤポヤした子供でしたし、逆に不良と呼ばれる子たちを見て、幼稚だなぁ、格好が悪いと思っていました。

 

僕は勉強もスポーツも取り立てて良くできる方ではなかったですし、積極的に人の輪に入ることもできない口数の少ない子供でしたが、自分がやらなければならないことには一生懸命取り組みましたし、何かできないことがあっても怒りの感情を人や何かにぶつけたり、あたったりするのはダサいと思っていました。年齢を重ねた今でもその気持ちは変わりませんけどね。他人のバイクを盗んだり、教室の窓ガラスを破って回るなんて止めなよ〜恥ずかしくない?と思います。

 

今思うと『ライ麦畑でつかまえて』に心が揺さぶられなかったのはそんな僕の性格も関係していたのかなと思っています。でもずっと気になる作品ではあったのです。

 

学校を卒業して社会に出て、最初にお世話になったデザイン事務所の営業の偉い人に言われた言葉で忘れられない言葉があります。「君は、世の中の綺麗なものにしか目が向いていないね。もっと汚いものにも目を向けた方がいい」と。

 

言われた時は今ひとつ意味がわからなかったのですが、年齢を重ねるごとに、色んな事柄には、人間もそうですけど裏と表があり、光が当たる部分には必ず影があるということを知りましたし、大人や社会は“インチキ”だらけだと思っても、グッと堪えて飲み込んで前に進むしかない時もあると、酸も甘いも噛み分けられる大人になりましたとさ。私も(笑)。

 

J.D.サリンジャーが、生誕100周年を迎えた2019年に、『ライ麦畑でつかまえて』が世界中でベストセラーとなるも、隠遁生活を経て、表舞台から姿を消したサリンジャーとはどのような人物だったのかを描いた映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』が公開されました。

 

ケネス・スラウェンスキーが2012年に発表した評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』を原作としていて、ダニー・ストロングの映画監督デビュー作です。J.D.サリンジャーがどんな人物だったのか…。僕は長年、興味を持っていたので観ていたんです。感想を書いておきます。

 

J.D.サリンジャーを演じたのは、6歳で俳優デビューし、ヒュー・グラントと共演した映画『アバウト・ア・ボーイ』で一躍有名になったニコラス・ホルトです。マーカス役のあの子供が大きくなりましたね〜。

 

J.D.サリンジャー(ニコラス・ホルト)は、1919年1月1日、ニューヨークのマンハッタンで誕生。父が食肉やチーズを販売する貿易会社を営んでいたこともあり、8歳上の姉と4人家族の裕福な家庭環境で育ちます。

 

サリンジャーは、ユダヤ人の父と結婚をきっかけにユダヤ教へ改宗したドイツ系アメリカ人の母のもとで育ちました。当時、アメリカの一部の大学では、ユダヤの人々の入学者数を制限するなど、反ユダヤ主義運動が行われていました。また、上流社会で受け入れられるためには、金や人脈、学歴と同時に非ユダヤ人であることが求められていました。つまり、サリンジャーが上流社会で成功するのは容易なことではなかったのです。上流社会の中心で活躍することは叶わず、また父親だけが純粋なユダヤ人であったために結束の固いユダヤ社会にも入れないサリンジャーは、次第に孤独を感じるようになるのでした。

 

明確な帰属意識を持てないサリンジャーは自分の人生を見つめ直した結果、「家業は継がず、作家になる」という夢を抱くのでした。やがてサリンジャーは母の勧めもあり、コロンビア大学で文学を学びながら、執筆活動を始めます。そこで出会ったホイット・バーネット教授(ケヴィン・スペイシー)の元で小説の創作技法を学びます。

 

サリンジャーの才能を見出したホイット・バーネットは、サリンジャーに短編小説の執筆を指導します。1940年に、処女作「若者達(The Young Folks)」が、ホイット・バーネット教授が主催する文芸雑誌「ストーリー」に掲載されます。わずかではあったものの原稿料を手にしたサリンジャーは、やがて執筆業だけで生計を立てることを目指します。

 

この頃、サリンジャーはニューヨークに住む著名なアーティストたちが夜な夜な集うナイトクラブ「ストーク・クラブ」に出入りするうち、常連の中でも人気者だったノーベル文学賞を受賞したアメリカ合衆国の劇作家ユージン・オニールの娘、ウーナ・オニールと恋人関係になるのでした。

 

サリンジャーの他にも俳優のオーソン・ウェルズといった数多くの男性とデートを続けていたウーナでしたが、孤独を感じていたサリンジャーにとって、初めての恋は彼に心の安らぎを与えていました。しかし後にウーナはハリウッドの演劇学校で演劇を学んだ際、なんとあのチャーリー・チャップリンと結婚。突如としてウーナとの関係が終わったサリンジャーは、ショックを受けるのでした。

 

1942年、アメリカはまさに太平洋戦争の最中でした。恋人を失ったことで半ば自暴自棄にも陥っていたサリンジャーは、アメリカ軍へ入隊。かつてヨーロッパに滞在した際に会得した語学力が認められた彼は、1944年3月に陸軍所属の兵士としてイギリスへ派遣されることが決定します。

 

その3ヶ月後の6月、サリンジャーは「ノルマンディー上陸作戦」に参加します。作戦は成功し、見事フランスのほぼ全土を解放しますが、戦場は過酷で惨憺たるものだったといわれています。

 

また、サリンジャーはさまざまな語学に通じていたため、諜報部員として時には現地の人々を尋問することも少なくありませんでした。常に死と隣り合わせの状況で、現地の人々にも危害を加えるうち、サリンジャーは精神的に追い込まれていき、無感覚となっていくのでした。

 

戦中であっても、サリンジャーの創作へのモチベーションが失われることはありませんでした。常に携帯用タイプライターを持ち歩き、たとえ前線近くで攻撃があったとしても、執筆を諦めませんでした。

 

その後も度重なる激戦をくぐりぬけ、終戦を迎えたサリンジャーは、ドイツの病院で神経衰弱と診断されます。療養中にそこで知り合った看護師のシルヴィアと結婚してアメリカに戻るも、結婚生活は長く続きませんでした。サリンジャーは、そこから空白を埋めるかのように執筆生活に専念します。

 

戦争が終わり、自分の時間の大半を小説の執筆にあてることができるようになったサリンジャー。精神状態が不安定なため、一時スランプに陥るも、禅などの東洋思想の教えに救いを求め、少しずつ従軍前と同じく短編小説が雑誌に掲載され始めます。1951年には同時に執筆を進めていた長編『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)が発表されます。

 

作品が発表された1950年代のアメリカでは、目標を持てず、喪失感を抱いていた若者が多く、そんな若者を中心に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がだんだんと注目を集め始めます。「自分たちの気持ちを代弁してくれている」という理由から若者のバイブルとなっていきますが、人気の裏側でファンに路上で待ち伏せされるなど、サリンジャーはニューヨークで穏やかな生活を送れなくなったことを嘆くのでした。

 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公・ホールデンは、「だれもぼくを知らず、ぼくのほうでもだれも知らないところで、口もきけない、耳も聞こえないふりをして、だれとも無益な馬鹿らしい会話をしないですみ、稼いだ金で森のすぐ近くに小屋を立ててそこで死ぬまで暮らす」ことを理想としますが、サリンジャーはニューハンプシャー州のコーニッシュに土地を買い、そんなホールデンの理想を地でいく生活を送ろうとします。

 

しかしサリンジャーは、人との交流を断固拒否していたわけではありません。周囲のパーティーにも出席したほか、近くにあったウィンザー高校の生徒たちとは親しくしていました。校内でバスケットボールやフットボールの試合があるときは毎回観戦し、食堂で生徒たちと仲良く歓談することも珍しくありませんでした。しかし、ある日生徒のひとりが「学生新聞のインタビューに出演してほしい」と依頼し、承諾したサリンジャーのインタビューが、地元新聞のスクープとして取り上げられてしまいます。裏切られた気持ちになったサリンジャーは激怒し、家の周りには高い塀をめぐらして人付き合いを断ちます。

 

その後、サリンジャーはあるパーティーで知り合った女性、クレアと結婚。ふたりの子宝に恵まれた頃は隠遁生活を送り、完全に世間とは距離を置こうとしていました。そして1965年に発表した短編『ハプワース16、1924』を最後に完全に作家業から引退。穏やかな晩年を過ごした後、2010年1月27日にサリンジャーは老衰のためこの世を去るのでした…。

 

映画を観れば、J.D.サリンジャーの人生の断片的なことは一通りわかるようにはなってますが、それだけですね〜。イギリスのロックバンド・クイーンのフレディ・マーキュリーに焦点を当てて大ヒットした伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』とかハリウッドは作っていますが、なんかその人物の人生の上澄しか描けてない作品が多い気がしますね。

 

なんかそつなくまとまってはいるように見えるんですけど、さらさらさら〜と主人公の生きた時間が流れてゆくだけで、こんなことかありました、あんなことがあったんですのエピソードが続くだけで、なんの想いも感じない、物足りない作品でした。

 

ホイット・バーネット教授を演じたケヴィン・スペイシーはやはり名優だなぁと思いましたが、サリンジャーを演じたニコラス・ホルトの演技に少しも深みがないので、彼の創作の苦しみとか情熱とかが伝わってこないんですよね。表情が乏しいんですよ。戦争に行く前と帰ってきた後、少しも見た目が変わっていないし…。心に大きな傷を負ったはずなのに少しも伝わらないのは観ていてきついです。それに106分足らずではサリンジャーの人生は語れないと思います。

 

僕が知りたかった『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の誕生の理由が何一つ分からなかった〜残念でした。ケネス・スラウェンスキーが書いた評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』を読んだ方がいいのかもしれませんね。

 

作家としてのサリンジャーを見出したのはバーネット教授ですけれど、米軍諜報部員としてノルマンディー上陸作戦に参加し、独軍との最も過酷な戦いを強いられた部隊にいて、すさまじい数の死者を見たサリンジャー。そして一緒に戦い、無残に殺された戦友たち、そのためにPTSDに苦しむサリンジャーに、心の平安を教えた禅やインド思想の導師たちの影響が彼をどう変えたかについてもっと丁寧に描いてくれればなぁと思いました。

 

『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』はAmazonプライムビデオで配信していますから、興味のある方はご覧になってください。

 

NHKで放送されたドキュメンタリー【完全なる問題作】を観ても、1950年代のその時の若者の心象を作者は書いただけなのに、今に至るまで若者の心を代弁している作品として君臨し続けることができた作品は後にも先にもないとは思いますが、それが何故なのかは分からなかったかなぁ〜。

 

サリンジャー自身、そういう作品を意図して描いたつもりはまったくなかったと思うのですが、自身の心の声を物語にした結果、偶然そうなっちゃったんでしょうけど、ファンから「どうして僕のことがわかるの?」と言われたら動揺してしまいますよね。

 

別に君のためを考えて描いたわけじゃない…、あなたの人生なんて僕には関係ないのに…、あくまでも自分自身への手紙として書いたものに過ぎないのに、若者の心を射止めてしまい、ファンから神格化されてしまうその怖さ…。

 

サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』という大ベストセラーを書くことによって、自身の傷つき壊れた精神を取り戻したかったんだと思います。けれどその作品によってもっと追い詰められることになり、人を信じられなくなり、社会から完全に自分を隔離しなければ心の平安を保てなくなったのだとドキュメンタリー【完全なる問題作】を観て思うようになりました。

 

自分のことで大騒ぎされるのは御免だし、近づいてくるやつは誰だろうが汚れた疾しい奴らだと思うようになっても仕方ないよと思います。学校新聞用のインタビューだと近づいて記事を地元新聞社に売ってしまう高校生なんかに出会ってしまうと尚更ですよね。

 

僕は広告のデザインをしていましたが、物を作る仕事って完成までに修正の繰り返しなんですよね。作る側がこれが完璧だと言ってもクライアントがOKを出すまで修正の繰り返しなんです。作家、漫画家さんなども同じだと思うのですがサリンジャーは出版社から文章の修正を言われても断固拒否するのです。職業作家というよりは芸術家肌ですね。お金のために妥協して読者に迎合した物を書くよりは、自己の表現の場として作家という道を選んだ人のように感じます。自意識過剰だったのかもしれませんけど。

 

でも小説に対して真っ直ぐで、純粋な人だったんだなと思います。またいつか『ライ麦畑でつかまえて』読んでみようかな。