井上荒野さんの小説『あちらにいる鬼』が、監督・廣木隆一さん、脚本・荒井晴彦さん、主演・寺島しのぶさん、豊川悦司さん、広末涼子さんで映画化され、今年の11月に公開されるという記事を読みました。
僕は『あちらにいる鬼』は文庫本になった時にとても興味深く読ませてもらったので、今日はその小説のお話をしようと思います。
原作者の井上荒野さんは、小説家・井上光晴さんの長女です。島清恋愛文学賞(2004年)、直木賞(2008年)、中央公論文芸賞(2011年)、2016年、柴田錬三郎賞(2016年)、織田作之助賞(2018年)などを受賞された実力も人気もある作家のお一人です。
僕はそれほど井上荒野さんの熱心な読者ではなかったですが、2011年、幻冬舎より刊行され、2016年に映画化された『だれかの木琴』という作品が印象に残っています。男女の心の微妙な綾を、大仰な描写はせず、的確に冷静に表現される作家だなぁと感じていました。
『あちらにいる鬼』は、井上荒野さんにとって最も身近な人々がモデルになっています。父である作家・井上光晴さん。その妻、つまり荒野さんの母親と、父・光晴さんと長年にわたり男女の仲だったと言われる作家・瀬戸内寂聴さん三人の長きに亘った他人には窺い知れない複雑な関係と心模様をそれぞれの視点で深く掘り下げた小説です。
井上荒野さんがこの小説を書くきっかけになったのは、お母様が亡くなって1年くらいたった頃に編集者から荒野さんのご両親と寂聴さんの関係を書いてみませんか、と提案があったかららしいです。
その時は、ご両親は亡くなられていましたが、寂聴さんは健在だったので、「無理無理」って断られたそうですけど、その後、寂聴さんにお会いしたら、ずっと荒野さんのお父様のことをお話になったそうで、荒野さんはそれを聞いて、寂聴さんに対して「ああ、父のことが本当に好きだったんだな、父との恋愛をなかったことにしたくないんだろうな」と思われてぐっときちゃったんだそうです。
それで、すごく書きたい気持ちになり、書いて寂聴さんに読んでもらいたいと思われて完成したのが『あちらにいる鬼』なんです。
文壇では、荒野さんのお父様の井上光晴さんと、瀬戸内寂聴さんの仲は知る人ぞ知る関係だったんでしょうけど、お母様も亡くなったことだし「どうでしょう?3人のことを書いてみませんか?」と娘の荒野さんに書けと進める編集者もなんと言いますか〜(笑)。
話題にもなるし、売れるだろうし〜。でも書きたいと言った荒野さんも凄いね〜(笑)。
荒野さんが「書きたい」と言ったら、「もちろん書いていいわよ、なんでも喋るから!」って寂聴さんは言ったそうです〜。これまた凄い〜(笑)。
瀬戸内寂聴さんと言えば、最初の結婚相手の教え子の文学青年と男女の関係になり、夫と3歳の長女を棄て家を出て小説家を目指された方です。
作家として名を成した後も、作家仲間の男性とも恋愛関係になり、その時、同居していた元夫の教子との三角関係を自身の作品として発表したりしたために、性に奔放な女性として印象づけられたところがある人ですよね。
そして妻子ある作家、井上光晴さんとも男女の関係に…。
だからでしょうか、生前もそうでしたけど、亡くなった後もネットでは「不倫ネタにしてるキモいババア」とか「子供捨ててめっちゃ不倫してんじゃん」とか「生臭坊主。欲に塗れまくってるただの俗物」とか言いたい放題いまだに言われ続けています。
こういう人たちって、瀬戸内さんの小説なんて読む気もないのでしょうが、瀬戸内さんの何を知っているんでしょう?そういうものを目にすると、あなたたちは何様なんですかと思います。人の悪口なんて何が楽しいんでしょうね〜。お嬢様とは後年、和解されています。
僕は生々しい人生経験を積んだ人の方が、人間的に厚みがあると思うし、人間味があるし、自分にとって全てが正しいとは思われなくても語られる言葉には説得力があると思うし、なんの苦労もしたことない勉強だけができる人の言葉なんて僕は面白くないし聞く耳もないけどなぁ。
荒野さんは寂聴さんのもとへ何度か足を運び、「この時はどうだったのか」とか「なぜ出家したのか」など質問をたくさんされたそうです。
本当になんでも話してくださったそうですが、きっと話したくないこともあっただろうし、話してくれたことが全て本当とは限らない…。
人は誰しも過去を美しく語りたがるものですからね。
なので荒野さんは基本的に創作しようという立ち位置で書かれたそうです。
だから『あちらにいる鬼』に書かれていることが全て真実とは限らないわけです。ご両親は亡くなられているし、お二人のお気持ちを本人に確かめることはできないわけですから。
でも、それでもご両親、寂聴さんの心の内が本当に上手く、三者三様きめ細かく描写されていて読み応えがありました。
僕が一番、興味深かったのは、お母さまのお気持ちですね。
夫の井上光晴さんは、寂聴さん以外にもたくさんの女性と浮気を繰り返していた人のようで、どこかそれを悪びれもせず、俺はそういう男だと開き直っていた感があり、娘の荒野さんから見たら、そんなことが全くないようにお母様は振る舞っておられたそうだし、愚痴を言われることもなかったそうです。
だんらと言って、ただ従順に夫に付き従っていた女性ではなく、自分というものをしっかり持った方ではなかったのでしょうか。
そういう女性の心の深い部分に僕はとても興味があるので、この小説の中で一番僕が心惹かれたところです。
他人からすれば、「なんであんな男と別れないの?」「変わってるわね〜」なんてデリカシーのない人は本人にいったりするのでしょうが、僕が感じたのは、お母様は本当に心から夫を尊敬し、愛しておられたのでしょう。好きだから許せるんですよ。どんなことがあったって。
それが愛じゃないのかなぁ〜。
僕のことで恐縮ですが、このblogにたまに登場する、亡くなった僕の元彼は、ヘアメイクアーティストという職業柄、よくモテてました。細身で僕が言うのもなんですが美形でしたし。
それに女性に興味がないし、恋愛関係にはならないということで、女優さんや女性タレントさんに人気がありました。
性格も明るくて。現場がバッと明るくなる人でしたからね。
ヘアメイクを目指してる若い男の子たちにいつも囲まれている姿を遠目で見ていた僕の心中は穏やかではなかったですし、僕が部屋で待っていても連絡もなく、朝方帰ってくることも度々で、どこかで遊んできたんだなと感じてはいましたが、必ず僕のところへ帰ってきてくれましたし、喧嘩して僕が絶対彼の顔を見ようともしなかった時も、後からギュッと抱きしめてくれて、それだけで全て許せたし、それは彼のことがただ好きだったからなんです。
浮気したから別れるなんて簡単なことなんですよ。でも壊れたもの、壊したものを元に戻すのは大変なんじゃないかなぁ。
僕は『あちらにいる鬼』で荒野さんが描きたかったのは、お父様と寂聴さんのことよりも、お母様の心の深淵を知りたかったのと、世間の誤解を解きたかったんじゃないかなぁという気がしました。
自分の全人生を捧げられる人と出会えた人は幸せだと思うなぁ〜。荒野さんのお母様はそういう人と出会われたんだと思いますね。
今回の映画化でお母様を演じるのは、広末涼子さん。難しい役だと思いますよ〜。どう演じてくれるのか楽しみですよね。
井上荒野さんの文章はとても清潔感があります。テーマがテーマなだけに、ドロドロした刺々しい荒々しい描写があるのかと思ってもいましたが一切ありませんでした。それでも深い。見事です。
ご両親と寂聴さんに対して、誠実に向き合われた文章と表現に胸を打たれました。ご両親も寂聴さんも、荒野さんが書き上げられたこの作品を喜んでくれているのではないでしょうか。
3人の生き方を否定するのではなく、糾弾するでもなく、正当化するでもない…自分の意思で、自分のためにそのような生き方を選び取った人たちの愛の軌跡の物語です。
それを他人が非難できるのでしょうか?