「眠狂四郎」「古畑任三郎」などの人気ドラマシリーズで知られる俳優・田村正和さんが4月3日に都内の病院で、心不全のため亡くなっていたことが18日、分かりました。77歳でした。

 

僕が俳優としての田村さんを、TV画面で拝見したのは、テレビ朝日開局55周年記念第一弾 松本清張没後20年 ドラマスペシャル 『十万分の一の偶然』が最後だったと思います。放送が2012年12月ですからもう10年近く前のことなんですね。

 

そんな月日が経っていたとは思えないですね。田村さんが主演されたドラマは、再放送をされる機会も多いですから、そんなに前の作品とは感じなくなるのでしょうね。

 

2018年2月に放送された、『眠狂四郎 The Final』が遺作となられたそうです。

 

松本清張没後20年 ドラマスペシャル 『十万分の一の偶然』を観た時、田村さんの発声が以前よりハッキリしないと言いますか、声量が少ない、セリフが聞き取りにくいなという印象があり、若い頃からスリムで素敵な方でしたが、お身体にも張りがないような気がして気になっていました。

 

心臓があまり丈夫ではなく、大きな手術をされていたとお聞きしたので、ご無理をされていたのかなとも思いました。

 

田村さんの死因とされる心不全は、一般的に「心臓が悪いために、息切れやむくみが起こり、だんだん悪くなり、生命を縮める病気」と定義されています。

 

心臓の主機能になんらかの障害が生じた結果出現するので、心外膜や心筋、心内膜疾患、弁膜症、冠動脈疾患、大動脈疾患、不整脈、内分泌異常など、さまざまな要因により引き起こされるんです。

 

僕の父は、大動脈瘤の手術を2回していて、胃癌の手術もし、大腸にも腫瘍があり、慢性腎不全で人工透析もしていて、透析中に心不全を起こして亡くなったんです。

 

父はよく、椅子に座っていても、体を前に半分倒して、心臓が痛かったのでしょうね。胸をしばらく抑えるような動作をしていましたから、田村さんもお苦しかったのではないかとお察しします。

 

田村正和さんは、1943年、日本映画史に名を刻む名優・阪東妻三郎さん(1901年〜1953年)の三男として誕生されました。長兄の故・田村高廣さん、弟の田村亮さんとともに「田村三兄弟」と呼ばれていましたね。

 

お父様の阪東妻三郎さんは、端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれていました。24歳の時に主演した「雄呂血」(1925年)で、歌舞伎的だった殺陣の型を打ち破り、剣劇ブームを巻き起し、サイレント時代から51歳で急死するまで、文字通りのトップスターであり続けた方です。

 

阪東妻三郎さんと言えば、1943年(昭和18年)公開の『無法松の一生』が有名ですよね。岩下俊作さんの小説『富島松五郎伝』の最初の映画化作品で、三船敏郎さん、勝新太郎さんでも映画化されていますが、阪東妻三郎さんが松五郎を演じた最初の方です。

 

昨年でしたか、阪東妻三郎さんの生誕120周年を記念して、第77回ベネチア国際映画祭、第33回東京国際映画祭クラシックス部門で無法松の一生(1943)」の4Kデジタル修復版が上映され、今年、初ブルーレイ化されました。

 

田村正和さん、ご覧になられたかなぁ。

 

僕が阪東妻三郎さんで印象深いのは、1949年に公開された木下惠介監督の『破れ太鼓』です。名匠・木下惠介監督が、時代劇史上最大のスター阪東妻三郎さんを現代劇の主演に迎え、家族の対立と絆を描いた戦後喜劇の傑作なんです。

 

そう言えば、北條秀司さんが1947年に発表した戯曲『王将』の初の映画化で、将棋棋士坂田三吉を演じたのも阪東妻三郎さんでした。昭和23年度(第3回)芸術祭賞映画部門受賞作です。映画史に残る作品を数多く残されている名優ですね。

 

お兄さまの田村高廣さんも、正和さんとはタイプの違う、日本の映画史に名を刻む名優でした。僕の好きな俳優さんのお一人です。

 

木下惠介監督の『女の園』でデビューされ、木下監督の下、壺井栄さん原作の『二十四の瞳』を初め、深沢七郎さん原作の『笛吹川』など代表作をたくさんお持ちです。

 

木下惠介監督は『破れ太鼓』で阪東妻三郎さんの新しい魅力を引き出された方なので、阪東妻三郎さんが亡くなった後に残されたお子様達の将来を案じられたのかもしれません。

 

正和さんの俳優デビューも木下監督の『永遠の人』ですからね。

 

田村高廣さんの出演作で僕の好きな作品を挙げておきます。

張込み(1958年)、背徳のメス(1961年)、兵隊やくざ(1965年〜 1968年)、清作の妻 (1965年)、白い巨塔(1966年)、紀ノ川(1966年)、青幻記 遠い日の母は美しく (1973年)、本陣殺人事件(1975年)、愛の亡霊(1978年)、天平の甍(1980年)、泥の河(1981年)などなど。名作ばかりです。

 

弟の田村亮さんも二枚目俳優でいらして、僕の年代だと松平健さん主演のドラマ『暴れん坊将軍』での2代目・大岡忠相役や、山村美紗さん原作の2時間ミステリーでの警部役が思い出されます。お若い頃は、実相寺昭雄監督のアート系の映画作品に出演されていましたよね。幅広いお仕事をされている印象です。

 

高廣さんの下には次男・俊磨さん(実業家)がいらして、正和さんは三男なんですよね。

 

そして、父・阪東妻三郎さんのスター性、華やかさをもっともダイレクトに受け継いだのが正和さんだと言われています。お顔は長男・高廣さんが一番似てらっしゃいますね。

 

田村正和さんの俳優デビューは、木下惠介監督の『永遠の人』という作品です。1962年、第34回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた名作です。

 

昭和7年、小作人の娘・さだ子(高峰秀子さん)と川南隆(佐田啓二さん)は愛し合っていましたが、さだ子は隆の出征中に、地主の息子・小清水平兵衛(仲代達矢さん)に力づくで犯され、彼との結婚を余儀なくされてしまうのです。その後30年に及ぶ、阿蘇山の麓の村を舞台にした愛と憎しみのクロニクルです。

 

田村正和さんは、両親の愛憎の悲劇に巻き込まれる長男・栄一役で、当時17歳!初々しさの中にも独特の存在感が魅力です。

 

続いて木下監督は『今年の恋』(1962年)でも田村正和さんを起用します。

 

吉田輝雄さんと岡田茉莉子さんが織り成す、本当に楽しくて明るいラブ・コメなんです。テンポも良くて、今見ても全然古くない、木下監督のコメディセンスの良さを感じる傑作です。

 

田村正和さんは、吉田輝雄さんの弟・光役で、生意気で口が悪く、ちょっと不良ぶったお坊ちゃんを楽しそうに演じています。

 

田村正和さんは、松竹の若手スターとして映画出演を続けていかれますが、その大半は制作期間が短く、予算も少ないプログラムピクチュアで、中にはシナリオもできてないのに会社命令で出演を決めなければいけないものもあったりで、誠実に仕事に向き合いたい、仕事は完璧にやり遂げたいと思っていた田村さんは当時、かなりのストレスを抱えていたそうです。

 

1966年からはフリーとなられますが、テレビの台頭で映画産業は徐々に斜陽の一途を辿り、製作本数も減ってゆきますが、田村さんは名匠と呼ばれる監督達の作品に助演として重用されます。

 

『かあちゃんと11人の子ども』(1966年・五所平之助監督)『痴人の愛』(1967年・増村保造監督)『無理心中日本の夏』(1967年・大島渚監督)『女の一生』(1967年・野村芳太郎監督)『女と味噌汁』(1968年・五所平之助監督)『黒薔薇の館』(1969年・深作欣二監督)『秘録おんな藏』(1968年)・森一生監督)『怪談残酷物語』(1968年・長谷和夫監督) 『風林火山』(1969年・稲垣浩監督)『超高層のあけぼの』(1969年・関川秀雄監督)『眠狂四郎卍斬り』(1969年・池広一夫監督)『華麗なる闘い』(1969年・浅野正雄監督)『現代やくざ 与太者仁義』(1969年・降旗康男監督)『おんな極悪帖』(1970年・池広一夫監督)『やくざ絶唱』(1970年・増村保造監督)『女囚さそり 701号怨み節』(1973年・長谷部安春)『日本の黒幕(フィクサー)』(1979年・降旗康男監督)などなど。僕が印象に残っている作品です。

 

これらの作品は、田村さんが出演されているからというよりは、作品に興味があったから観たというのが正直なところです。

 

でもどの作品も、他の俳優さんにはない、どんな汚れ役でもどこかノーブル(気品がある)で耽美なエロティシズムが溢れている、他にはいない俳優さんだなぁと思っていました。

 

その中でも特に僕の好きな作品を挙げてみます。

 

◎華麗なる闘い(1969年)

この作品は、有吉佐和子さんの小説『仮縫』が原作で、僕は原作を読んでいて、映画化されていることを知らなくて、大好きな岸惠子さんが主演だと知って観た作品でした。

 

ファッション業界を舞台に、一人の若き女性(内藤洋子さん)がしたたかにのしあがっていく姿を描いた、フランスの著名なファッションデザイナーであるアンドレ・クレージュによる最新の衣装を使った本格的なファッション映画です。

 

田村さんは、岸惠子さん演じるファッションデザイナー、松平ユキの弟役でした。役としてはそんなに見所があるわけではないのですが、田村さんだから作品にリッチさが出ていると感じます。キザで裕福で軽い男に見えて、実は憂愁に包まている男は田村さんしか演じられません(笑)。

 

◎『おんな極悪帖』(1970年)

浅丘ルリ子さん主演、蜷川幸雄さん演出の舞台で有名な、谷崎潤一郎原作『恐怖時代』を映画化した作品です。歌舞伎でもたまに上演されていますね。登場人物が全員悪人で、まともな人間は出てきません(笑)。血みどろの地獄絵図です〜。

 

女郎から身を起こし、太守(岸田森さん)の側室にまで上り詰めた、お銀の方を演じるのは安田道代(大楠道代)さん。田村さんはお銀の方のお付き女中・梅野(小山明子さん)の若き愛人で剣の達人、磯貝伊織を演じています。これがまた美青年剣士なんですよ〜。年上の梅野がよろめくのは分かります。邪魔者を斬りまくり、返り血を浴びた田村さんの美しいこと!実は裏ではお銀の方と伊織は通じてるんですけどね。この作品は田村さんなしでは成立しないと思います。

 

◎『女囚さそり/701号怨み節』(1973年)

梶芽衣子さん主演の女囚さそりシリーズの第4作目です。前3作の伊藤俊也監督と梶さんが作品の方向性の違いで決裂し、もう終わりにしたいと梶さんは言ったのですが、どうしても続けて欲しい東映が同じ日活出身で、気心の知れた長谷部安春監督が撮ってくれるならと言う梶さんの条件を受けて出来た作品です。

 

殺人を犯して逃亡中の松島ナミ(梶芽衣子さん)は鬼警部・児玉(細川俊之さん)の執拗な捜査により逮捕されます。しかし、護送中に事故が起きてナミは脱走。負傷したナミを手当したのは、ヌードスタジオの照明係であり、元学生運動過激派のメンバー・工藤(田村正和さん)でした…。

 

田村さん演じる工藤は、ニヒルな性格で、ヌードスタジオの照明係として働いていて、質素に生活していますが、過去には元学生運動過激派グループの一人で野心的な性格だったんです。

 

活動家時代に刑事(細川俊之さん)から受けた激しい拷問のせいで警察を恨んでいると同時に恐れていました。その時のリンチにより不自由になった右脚を引きずって歩くようになり(股間に沸騰した薬缶のお湯をかけられて、性器が焼けただれたと言う設定です)、上半身には痛々しい大きな傷跡が残っています。活動家時代のアジトに今でも時々出入りしていて、ライフル銃の扱いに慣れているという役柄です。

 

東映らしい銃撃戦やカーアクションなど派手な見せ場がある作品ですが、田村さんが出て来るとなんだか空気がしっとりする感じで、残虐なシーンもどことなく華やぐようで不思議な魅力のある方だと思います。ニヒルという言葉が似合う人はそういないでしょ?

 

◎『日本の黒幕(フィクサー)』(1979年)

1976年から世間を騒がせていたロッキード事件にヒントを得て、田中角栄と児玉誉士夫をモデルとして日本の右翼組織と政財界の癒着を描いた作品です。当初、監督は大島渚さんで進められていたそうですが、脚本の最終段階で大島さんが「こんな脚本で撮れるか!」と降板した映画としても知られています。怒りっぽい人ですね(笑)。

 

そんなゴタゴタがあった作品だからか、従来の東映ヤクザ映画とは違う、独特というか異様なムードがある作品なんです。東映としては「ヤクザ映画として作ってはいない」というかもしれませんが。

 

出演されている方々も、田村さんをはじめ、佐分利信さんが主演で、佐々木孝丸さん、内藤武敏さん、有島一郎さん、高橋悦史さん、松尾嘉代さん、江波杏子さんらヤクザ映画にあまり出演されない方がキャスティングされているからかもしれません。

 

田村さんは当時36歳くらい。佐分利信さんの息子役を演じていて多分、バイセクシャルの設定だと思います。同性愛的ムードに溢れた作品なんですよね〜。責任感があり、知的で、優しくて、皆に慕われ、可愛がられている男なんです。自分の使命に忠実に生きている。そして美しい…。

 

田村さんは、異母姉弟である松尾嘉代さんと体の関係もあり、近親相姦という禁断の世界も描かれています。

 

政界・財界・暴力社会を掌握するフィクサーの存在と実態を鋭く抉るというのがテーマだったのでしょうが、なんとなくテーマを消化し切れていない、歪な作品になっている感じがしますが、異常な世界観の中でも、清廉な空気を最後まで纏っているように見える田村さんはやはり稀有な俳優さんだと思います。

 

田村正和さんが持つ、独特のオーラは深作欣二監督、丸山明宏(美輪明宏)さん主演の『黒薔薇の館』などでも溢れていました。

 

そんな誰にも真似できない個性は、1970年代に入って映画ではなくTVで開花し、一世を風靡します。代表作「眠狂四郎」(1972年~1973年)との出会いです。

 

映画界は、田村さんの魅力を生かしきれなかったのではないのかな?と思います。一つのイメージを押し付けすぎたのでは?と感じます。映画は田村さんの妖艶さを強調した役のオファーばかり…。もっと色んな役に挑戦してみたいのに…。田村さんは映画界に限界を感じていたのかもしれません。

 

そんな田村さんの悩みを察したように手を差し伸べたのはまた木下惠介監督でした。

 

60年代後半よりいち早くテレビに活路を見出そうとしていた木下惠介さんが企画・監修した『TBS“木下惠介・人間の歌シリーズ”』第1作「冬の旅」(1970年)で主人公(あおい輝彦さん)の義兄役に田村さんを抜擢したのです。

 

僕は、立原正秋さんが書かれた「冬の旅」という小説が大好きで、このドラマ全編みてみたいと長年願っているのですが、VTRが残ってないのでしょうか?どこのCSチャンネルでも放送してくれません。

 

神奈川県横浜市中区にある、横浜情報文化センター内の放送ライブラリーで、第一回目のVTRが観れるらしいのですが、第一回目だけじゃなぁ。

 

『人間の歌シリーズ』第2作「冬の雲」(1971年)も観たいんですよね〜。亡くなった母がよく話していたんです。毎週、楽しみにしていたドラマだったと。母は田村さんと共演されていた近藤正臣さんが好きだったそうなんですけど(笑)。

 

これが好評を博し、以後、徐々に田村さんはテレビドラマを中心に活動されるようになるのです。1970年代以降の田村正和さんは「眠狂四郎」や「鳴門秘帖」(1977年)「赤穂浪士」(1979年)「乾いて候」シリーズ(1983年~1993年)などのテレビ時代劇で注目と脚光を浴び、その美しきニヒリズムが多くの女性たちを虜にしたんだそうですね。

 

お父様の争えない血筋か影響か、田村さんは時代劇がお好きだったようですね。作り込まれた洋式美の世界がお似合いですからね。お父様、阪東妻三郎さんのダイナミズムとは違う、田村さん独特の魅力が開花したのではないでしょうか。

 

1980年代になると、「うちの子にかぎって」(1983年)「パパはニュースキャスター(1987年)など、コミカル路線へも果敢に挑戦されて、一気にファン層が広がりました。

 

僕が心に残っているドラマを書いておきます。

◎砂の器(1977年)

◎『序の舞』新春ドラマスペシャル(1984年)

◎くれない族の反乱(1984年)

◎協奏曲(1996年)

◎美しい人(1999年)

◎テレビ朝日開局50周年記念番組 『鹿鳴館』(2008年)

 

古いものはCSなどで追っかけて観ました。この中でもう一度観たいのは『序の舞』ですね。また放送してくれないかな。

 

田村正和さんが亡くなって、先日、追悼として田村さんの代表作『古畑任三郎』を放送していました。久しぶりに観ましたが、本当に細かいお芝居をされていましたね〜。視線の動かし方、口元の微妙な形や指の先まで、計算されていて、そのキャラクターにしか見えなくなる魔法をかけられたようで、ちょっと驚いてしまいました。

 

『婦人公論』のインタビューで田村さんはこうおっしゃっています。

 

阪東妻三郎がもう少し長く生きていてくれたら、僕ももうちょっと、しっかりした俳優になったんじゃないかな。母親っ子だったから、甘いところがあるんです。親の七光りで主演映画を4本も作ってもらったんですけど、本当にダメ。基礎も勉強していなくて、周囲の期待に応えられませんでした。下手なんてもんじゃない、『お前、やめたら?』というぐらい。あの頃の映画がかかったら、僕は自殺します。ぜっっったいに見られたくない!(笑)」

 

「うん? 田村正和像? 僕が二枚目? そう言われても、あっそう、それ、俺のこと? という感じですよ。昔は暗〜い青年ばっかりやっていて、今はスーッとした二の線も、コメディもやるし、これが田村正和だ、というのはあまりないような気がします」

 

「僕はね、田村正和という俳優をそんなに買ってないんですよ。よくここまで来たな、この程度だよ、って思う。これまでいろんな作品に出演しましたが、本当にいいなあと思えるものは数えるほどしかないですね。

 

「よくここまで来たな、この程度だよ」

 

これだけのキャリアの方が言える言葉じゃないですね。サラリと軽くおっしゃってますが、逆にとても重い言葉に聞こえます。

 

本当に謙虚に自分を客観的に俯瞰して見てらして、奢ることなく、たくさんのファンを楽しませ、酔わせて、感動させてくれた偉大なる俳優のお一人だったなと思います。

 

最後までファンが抱くイメージを守り続け、自分のスタイルを決して崩さず、静かに旅立たれた、美しき二枚目、田村正和さんのご冥福をお祈りいたします。