こんばんは。

先月でしたか、CSのある映画チャンネルで1977年に公開された、『ミスター・グッドバーを探して』(Looking for Mr. Goodbar)という作品を放送していました。

僕は随分前に1度観たことがあり、その時は観終わった後、相当衝撃を受け、DVD化されたらコレクションするべし! と思っていたのですが、今だにされていないんです。パラマウントの製作、配給作品なのですが、本国アメリカでもDVD化されてないらしいです。理由はよくわかりません。作品的になにか問題があるとも思えないし…。ビデオ化はされているんですよ。今でもレンタルで観れるかも知れません。

そんな作品をひょこっと放送してくれるので、CSチャンネルあなどるなかれですね(笑)。長い間、もう一度観たいなと思っていた作品の一つだったので、今回の放送はうれしかったですね。

1973年、ニューヨーク在住の23歳の聾唖児童園の女性教師があるバーで、1人の男と知り合い、通りを隔てた自分のアパートに連れ込んだのち、男に無残に殺害されるという事件が起きたそうなんです。その事件に興味をもった、ジャーナリストのジュディス・ロスナーという女性が、この事件をモチーフに小説化し、その原作を元に映画化されたのが『ミスター・グッドバーを探して』です。

子供たちに慕われる若く美しい女性教師が、毎晩バーに出かけては、知り合った男と夜を共にするという、全く別の顔を持っていて、自分のアパートで連れ込んだ男に殺されるという事件は当時のアメリカでも衝撃を持って受け取られたようです。「今ではこんなこと、どこででも起こってる普通の事件じゃん」「今となっては別に斬新なテーマではない。 そんな人間なんて、都会には普通にいる」と言われる人もいるでしょうけど、普通と言い切ってしまうこの現代社会の歪みが僕なんかは恐ろしいです~。現代の視点から見てもだめなんですよ。事件が起こったのは40年前ですからね

タイトルの『ミスター・グッドバーを探して』の意味を説明しておきましょうか。Goodbarというのはスラングで「理想的な男性自身」という意味です。Barは酒場のことではなて、チョコバー、キャンディバーなどの「棒状のもの」のこと。つまり「男性自身」のことです! ちょっと恥ずかしくなってきました(笑)。「理想の男性」を探し求めるというよりは「男を漁る」とでもいうんでしょうか。原作者のジュディス・ロスナーさんがこのタイトルを付けたのだとしたら、見事なタイトルだと思いますね。

『ミスター・グッドバーを探して』
監督・脚本:リチャード・ブルックス
製作:フレディ・フィールズ
原作:ジュディス・ロスナー
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
編集:ジョージ・グレンヴィル
音楽:アーティ・ケーン

〈出演〉
ダイアン・キートン
アラン・フェインスタイン
リチャード・カイリー
チューズデイ・ウェルド
トム・ベレンジャー
ウィリアム・アザートン
リチャード・ギア

〈ストーリー〉
主人公のテレサ(ダイアン・キートン)は、ポリオで湾曲した背骨を1年超もの安静状態の闘病生活で矯正した過去を持つ聾唖学校の教師。いつ再発するかもしれないという不安が、彼女の心を暗くしています。彼女は遺伝性のものだと思っているのです。短大の若い教授マーティン(アラン・フェインスタイン) は既婚者でしたが女子学生のあこがれのまとで、テレサも彼にひかれていました。ある日、彼女は彼の仕事の手伝いをし、自分から彼にアタックして結ばれます。彼女が初めて女になった男でしたが、マーティンにとってテレサはしょせん遊びでしかありません。ある日彼女は、健康で恵まれた容姿で、自由奔放な生き方をしている姉(チューズデイ・ウェルド)の荒んだ私生活を目の当たりにします。マリファナ、ポルノフィルム…、夜明けに帰宅する男出入りの激しさ…。悩む父(リチャード・カイリー)は、一晩家をあけたテレサにあたり散らし、それがきっかけでテレサは家を出ます。やがて、テレサは夜の街を出歩くようになり、なじみの酒場が出来ます。そこは行きずりの男女が快感を求める所…。テレサは、酒場でトニー(リチャード・ギア)という若者に誘われ、ドラッグを使った激しいSEXを味わい、生まれて初めてのエクスタシーを経験します。そしてドラッグの虜になるのです。学校で特に目をかけていた黒人の少女を黒人街におくったテレサは、そこでジェームズ(ウィリアム・アザートン)というまじめな青年と出会います。そんな彼女はある日、自分と同じような病気を持った子供を産む恐怖から不妊手術をうけるのです。お金をせびるようになったトニーとテレサは別れます。そして再び、酒場通いをする彼女。クリスマスにテレサはジェームズをつれてひさしぶりに実家に帰ります。両親はまじめな彼を歓迎しますが、保守的で仮面を付けたような家庭の雰囲気にテレサの心は冷めてゆくのです。奔放なテレサの性を知りつつも、一途に求愛してくるジェームズを疎ましく思いながらもその晩、テレサはアパートで彼に体を許そうとしますが、彼が避妊具をつけようとしたことにテレサの気持は一層冷えていくのです。それでもしつこく付きまとうジェームズをあきらめさせるために、テレサは酒場の一角でふて腐れていた若者ゲイリー(トム・ベレンジャー)を誘うのですが、ゲーリーは、ホモの中年男に囲われている男だったのです…。

ストーリーはここまでにしておきましょう。まだ観た事がない人のために。ラストはショッキングですよとだけ言っておきましょうか(笑)。

テレサがかかっていたポリオという病気について少し説明しますね。
〈日本大百科全書(小学館)より。〉
ポリオウイルスによる急性伝染病で、脊髄(せきずい)神経の灰白質が侵され、夏かぜのような症状が現れたのち、急に足や腕が麻痺(まひ)して動かなくなる疾患をいいます。急性灰白髄炎、脊髄性小児麻痺、ハイネ‐メジン病Heine-Medinともよばれていましたが、ワクチンの普及以来、単にポリオと略称されることが多くなります。かつて、伝染病予防法では急性灰白髄炎として届出(とどけいで)伝染病に含まれていましたが、1959年(昭和34)6月15日厚生省告示第182号により予防方法を施行すべき伝染病として指定され、76年指定のラッサ熱とともに指定伝染病となりました。現在は、1999年施行の感染症予防・医療法(感染症法)により2類感染症に分類されています。

ポリオは紀元前から存在し、全世界に普遍的にみられた疾患で、患者の糞便(ふんべん)が感染源となっておもに経口感染します。

日本でも1960年に北海道と九州を中心に大流行し、届出患者数が5606人に達して社会問題化したそうです。

テレサは子供時代にこんな病気にかかって、大手術をし、1年もの間、闘病生活を送り、原因は後天的なものではなく遺伝的なものだと思っている女性ですから、いつまた病気が再発して歩くこともできなくなるのではという不安に付きまとわれて生きているのです。この映画のテーマになった事件が起こった頃は「女性であるために受ける差別と、それを支えている社会の意識の変革を目指す女性解放運動」ウーマン・リブ( Women's Liberation)が世界的に広がった時代です。都会で仕事をし、独りでアパートに暮らし、自立し、何者にも束縛されず自由を謳歌している最先端の女性の生き方を私はしているんだという勘違いを抱いていたのかもしれませんね。

テレサが生きていた時代は、生きることの不安や淋しさをを行きずりの男性とのセックスで解消するという行為が当たり前のようになった時代なのでしょうね。まだHIVが広まる前ですから。そういう時だけ、ポリオという病気のことも忘れることができたのかも知れません。

不妊手術までして、性の喜びを享受しようとするテレサの目には、トニー(リチャード・ギア)のような得体の知れないジゴロのような男には気が許せても(セックスアピールむんむんですから(笑))、セックスの時にコンドームをつけるようなジェームズ(ウィリアム・アザートン)の倫理観は、テレサの父親や母親の倫理観と同じ古いくさいのものでしかなく、コンドームをつけたジェームズの姿は、テレサには古い価値観を押し付け嫌悪している父親とダブって見えたんだと思います。

古き良きアメリカというものが脆く崩れ去った時代なんですよね。1970年代って。回りから見ると、テレサの生き方は、荒んだ、ふしだらで、だらしのない女だと言われると思います。でも、聾唖学校での職務を体当たりで全うしていた姿を見ると精神的に壊れた女性には見えないし(ドラッグのせいで授業に遅刻したりしていましたけど)、1970年代という新しい倫理観を持つ普通の女性だとテレサ本人は思っていたのではないでしょうか。時代の波に乗り上手く生きているように見えても、出会う男たちがみんなダメダメで(笑)。それが彼女の不幸だったのかなと思います。そんな男ばかり引き寄せる人っていますからね。まああんな酒場にはあんな男たちしか集まってはこないでしょうけど。

そんなテレサを演じたダイアン・キートンは見事でした~。『ゴッドファーザーPart 1・Part2』で注目され、『ミスター・グッドバーを探して』と同じ年に公開されたウッディ・アレン監督の『アニー・ホール』でアカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得したんですよ。この年のアカデミー賞は第50回の記念の年で、「スターウォーズ」や「未知との遭遇」が公開されてハリウッドの新しい歴史が開かれた年です。女性映画の年とも言われて、主演女優賞の候補も「愛と喝采の日々」のアン・バンクロフトとシャーリー・マクレーン、「ジュリア」のジェーン・フォンダ、「グッバイ・ガール」のマーシャ・メイスンがいて大激戦だったんですよね。

そんな乗りに乗っている頃のダイアン・キートンですから見応えあります。体当たりなんですけど、熱演ともちがうんです。ナチュラルなんですよ。快楽的生活に溺れれ、幸せには背を向けて生きているようで、実は厳格なカトリックの家庭に育ち、男性に対して夢を抱いている普通の女性が辿る、容赦のない現実を見事に映像化した作品ですね。

ダイアン・キートンの作品では1979年の「インテリア」も好きですね~。1987年の「赤ちゃんはトップレディがお好き」も大好きです。

監督のリチャード・ブルックスのことを少し書いておきます。1950年に映画監督として実質的なデビューを飾り、自身の監督作品のほとんどで脚本も書いていて、1955年の「暴力教室」1958年の「熱いトタン屋根の猫」1960年の「エルマー・ガントリー/魅せられた男」1966年の「プロフェッショナル」1967年の「冷血」でアカデミー賞脚色賞にノミネートされ、「エルマー・ガントリー/魅せられた男」で見事受賞されています。大げさに盛り上げるような演出はせず、抑制された映像表現で、感情の高ぶりなども内に秘めたような、品のある作りで、娯楽作品だとしても、真摯にテーマに取り組む姿勢が余韻を生む、素晴らしい監督だと思います。

監督のフィルモグラフィーを見ていると、複雑に交錯する、男女の愛憎が葛藤を生む心理ドラマが多くて、僕好みの監督なんです。好きな作品はたくさんありますよ。「雨の朝巴里に死す(1954年)」や「熱いトタン屋根の猫(1958年)」、「エルマー・ガントリー/魅せられた男 (1960年)」、「渇いた太陽 (1962年) 」、「冷血 (1967年) 」、そして「ミスター・グッドバーを探して (1977年)」などなど…。

「都会に生きる孤独な若い女性が陥る悲惨な末路、自業自得。」とか「同情なんか出来ない、愚かな女」というこの作品を観た人の感想を聞いたことがあります。こういう感想を言う人は以外に女性が多いんです。女性って同性に厳しいんですね(笑)。でもそう簡単に切り捨てないでください(笑)。特別な存在ではない、どこにでもいるような一人の女性の、痛い程の孤独と不安、人間というものの曖昧さを描いた、隠れた名作だと思います。アカデミー撮影賞にノミネートされた、ウィリアム・A・フレイカーの見事な撮影も美しいです。ぜひブルーレイ化を希望します!