明雄が自分の生き方に問題があると感じ始めたのは、大学進学を意識し始めた頃だった。「神田あきら」のラジオ放送の中の一言から強烈な印象を受けた。
「大学って、文系の場合だよ。本にして最短で60冊。60冊の本を完全に読破して、その内容に関して、〇☓について書け式の問に、千字で200問きちんと書けたら卒業だよ。持ち込み可・持ち込み不可の場合あるけれど。僕が話したいのはそこから先で、自分が知りたい事に関する本を100冊、200冊と読んで行く事の意義だね。1000冊読んだら、多分君はその事に関して、誰よりも物知りになる。」

明雄の読書に関しては、現代国語の長山聡教諭からこんな事を言われていた。
「若いんだからさ、一人の思想家に没頭する事なく幅広い思想家の本を読んだら、いいんじゃないか?ちょっと偏執狂ぽいぞ。」

長山教諭の言葉と神田あきらの一言が、重なった。吉本隆明の基本3部作は確かに素晴らしいと思うのだが、たった3冊にすべてのエネルギーを振り向けるのは、守りに入っているのでは、あるまいか?17歳の直観は尊重したいとは思うが、これしかないと決めつけるのは、早すぎやしまいか?可能性を広げるのではなく狭める事になるのでは?若さの特権が使えてない等々、多読と精読については、数をこなして行けば知る事もあるだろうと思った。




現代国語は、文章を声に出して読む事で、情緒を安定させるとか、しっかり身に付くとか、いい効果は沢山あるだろうけれど、受験生には余裕がない。今手元に現代国語の論説文がある。実際に受験に使われた文章である。読んで行くと、「事象」「意識」「認識」「概念」「現象」「特性」「分析」「規定」といった普段の高校生の日常生活では使わない言葉のオンパレードである。こういった言語世界の住民にならない限りは、論説文の問題は解けない。話し言葉の中に、このような抽象的漢語(明治以来の近代化の中で、欧米の論理語を翻訳して日本語としたもの)を入れて話す。例えば、その文章に関して教師に質問するとか、文章が言おうとしている事を高校生同士で話し合ってみるとか、そのような事に意味はあるか?難しい事を話し合えるというのは、非常にいい事だと言える。学者と議論をした、あるいは、地位ある人と打ち解けて話し合ったた等々。教育の一つの目的は、話し言葉だけの世界に住んで居る人に、高度な言葉の運用を身に付けてもらい、学者・地位ある人と話あう力を付けさせる事である。言葉は頭で理解しているだけでは、使えない。実際には体験に裏打ちされているとか、当事者である事とか、求められる事も多い。だが、教育課程において身に付けて置く事は、実際に必要となった時の、スムーズな活用を促進する。

明雄は、抽象語で話合えるのは翔ぐらいかなと思うが、翔は抽象的な文章をドンドン書く割りには、寡黙だし、ここは独白で締めよう。

「いつも何かを意識している。感覚器がとらえた内容は悲しい色でもないし、苦しい音でもない。連続する意識と言ったが、忘却、誤解、減衰する起伏、今意識は静かな不満足の満足にある。」

栄華の頂点において源氏は、准太上天皇となる。またその実子はそれぞれ、天皇、中宮、太政大臣となる。様々な交際については、22帖「玉鬘」において、「決して浮気めいた気持など起こすまいと思っていたが、そうもいかなくて、自然、多くの人と付き合ってしまった。」と述べている。栄華は財力を伴うものであるので、付き合った女性と縁者の為に六条院にて住居その他を提供する。

39帖御法(みのり)にて、源氏最愛の「紫の上」が亡くなり、41帖雲隠にて源氏が亡くなり、匂宮三帖(匂宮・紅梅・河竹)と宇治十帖(橋姫〜夢の浮橋)になる。これは、源氏の孫=夕霧の子匂宮と源氏の子薫(実は柏木の子)の物語である。

明雄は残念ながら、大学で国文学を本格的に学ぼうとは思わなかったが、源氏物語のアウトラインを彼なりに理解した事で、非常に前向きな自分を発見した。法律・制度・権力といった堅い現実も、その背後には今風の「源氏物語絵巻」が展開されているのだろうという、漠然とした確信である。

漢文においては、自分自身の「徳」の絶対的不足を感じたが、「古文」においては「美意識」に関する同様の不足を感じる。「傾向を持った美意識」などない。ただ、「快・不快」があるだけだ。