王家を敬う気持ちは無駄なものである。だから民主主義が成立したが、今の民主主義は、完全な民主主義ではなく不十分である。まずは、人々は名目的には平等だが、実質的には平等ではない。最低の人権は平等に与えられているが、貧富の格差等で不平等である。
中国の古典は、民主主義で一人一人が政治を目指したときに有用である、
しかし現代社会では一人一人が政治を目指せないという現状がある。その元凶としては、選挙の供託金の問題などがある。与党の長が総理大臣になるということだが、一人々々の当選者が先にあって、党は後からできる、ということもあるかと思う。
自分に全ての責任を課す意義は、自分なら、自分のことは、いくらでも改善させることができる可能性があるからだ。
私がこの世の中で一向に面白くないのは、商売第一主義で、金を儲けることばかりが尊ばれて、道徳が廃れていることである。もっと道徳的なことが尊ばれて、それで金が儲かるようにならぬものか?
世の中の見方は有神論者と無神論者では変わってくる。新約聖書のマタイ18章9節では、「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と言っているが、一方の目がつまずかせる、ということは現実的には有り得ないし、ゲヘナというものも、ないかもしれない。
国が出来て税金が発生する、ということは世界共通のことのようだが、税金は元は王家の繁栄という無駄事に使われていた。今ではましになったが、それでも税金取り過ぎではないか?
昔の国では世襲ということが無駄であったが、実力至上主義では、劣った者がまだ損をするから、完全な民主主義と平等とは言えない。
仁政というが民主主義にはまだまだ遠かったと思う。現代民主主義は、高貴な人間を低く評価し、つまらない俗物を高く評価するのならば、どうかと思う。しかし私は俗物で駄目な部類に入るため、もっと民主主義・平等が進んで、私のような者も生きて行くのに困らない世の中になって欲しい。
世の中で要らないものとしてあるのが、敬語だが、これは無くならなくても許せる。
慎み深くする意味とは一体何なのか?古くからの慣習でこれも無駄なのではないか?
中庸とは、「ある程度~である程度~である」ということと「ケースバイケース」ということならば意義がある。
星座占いなど無駄だ。テレビの星座占いコーナーなんて無くなってしまえばいいのに。
私は男女関係では遊びが好きな軽い男であった。結婚なんてまず考えたことが無かった。イエスは新約聖書マタイ第19章6節で、「それで,もはやふたりではなく,ひとりなのです。こういうわけで,人は神が結び合わせたものを引き離したはなりません。」」、と、離婚はしてはならない、と言っているが私にとってはそれ以前の問題である。しかし冷静に考えると、人間誰しも間違いがあるから、結婚も間違っている場合があり、その場合は離婚しても良いのではないか?と思う。
ニーチェは、「苦は快楽よりも優勢」ないしはその逆(快楽主義)、これら両説はそれ自身すでにニヒリズムへの道標である・・・、としているが、現実的にはそれはニヒリズムではない可能性がある。「ある程度Aでありある程度非Aである」という存在が考えられる。それをもっと詳しく言えば、「現実世界は複雑に事象が絡み合ったもの」、と表現することが可能である。
世の中は発明で良くなって来た、と言える。幸せと不幸とでは、昔よりも幸せの方が多くなっていると思う。労働内容もよりましになって来ていると思うが、まだ労働時間は長い。現代は物事の発展の中途段階である。世の中がより良くなるために人々はもっと色々となすべきことがある、と言える。その大部分は何も生み出さずに民主主義的合意で為せるが、そのためにはそれを裏付けるための根拠となる言説が必要である。
フジテレビのCM差し止め問題は、そこまでやらなくてもいいんじゃないか?と思う。
世の中、商売第一主義の行き過ぎで、下らないもので溢れている。テレビで放映されていることは、皆下らなく、私にとってはどうでもいいことばかりである。私は文字を使って思想上でもっと素晴らしい事を追及したいのだが、私のその満足を満たしてくれるものは、テレビ上には存在しない。
実行主義だけがいいわけではない。民意を動かす言説を作り出すことが有用なこともある。
武士とは主君のために命を賭ける、という一主君のファンクション(機能)であり、現代の民主主義からは、どうでもいい存在である。
人間は民主主義上の徳を尊ぶべきである─それは徳が主張された孔子の時代のそれとは大分違うが…。論語や孟子、荀子以外の中国の他の老子・荘子、墨子、韓非子などは異教である。しかし孝弟とは、それに相当しない親もあり、また便宜的に、世の中を安定させる策の一つなので、あまり価値がない。それをもっと深く言えば、功利主義は間違っていることが多々あり、道徳をもっと尊重すべきである、ということである。
さきほどは、論語や孟子、荀子以外の中国の他の思想は異教である、と言ったが、孟子では、君主を尊ぶべきである、と言っているが、その必要は無い。楊朱の個人主義はある程度当たっている。墨てきの博愛主義もある程度当たっている。要はそれぞれの良い所を取り上げて、それらをミックスさせた思想が求められえる。
功利主義だけでは間違っている、功利主義が行き過ぎて、現代では不必要な商売が多くあり、人々の多くが嫌々ながらの仕事に従事せざるを得ない。キリスト教だけでは間違っている、まず神が存在するかどうか分からない。イスラム教も多くが間違っている、アッラーの言動を見るにそれが全く正しいとは言い難い。儒教だけでは間違っている、孝悌や君子を尊ぶ思想は現代では大きく必要ない。楊朱の徹底した個人主義も間違っている部分がある、ある程度他人も重視しないと、自分以外の多くの人間が必要ではない、ということになる。墨子の徹底した博愛主義も間違っている部分がある、エゴが存在しそれを肯定しなければ、自分自身が死んでしまう。昔の有力な説は、どれも不十分である。それらをミックスさせた新しい思想が必要である。
四書五経が、王家の維持と世の中の安定化のために存在するならば、それは間違っている。
中国のような王朝が衰退し、個人主義が横行するようになったのは、人間の性であり民主主義が台頭するのも人間の性である。王朝は人間の発展の途上であるに過ぎない。
論語・孟子その他の儒教は、人間の性を理解していなかった。だからそれらの価値はその分しかない。だから、論語・孟子その他の儒教の説を取り入れ政を行ったとしても、必ずしも天下太平をもたらすものではない。
かつての王に恩はあるが、それはいつまでも続けるべきものではない。人々の思想が功利主義や個人主義に移って行くのは人間の性がなしたことである。
先祖供養のお祭りごとなど現代となってはどうでもいい。そんなことに金をかけるならば、民主主義・平等をさらに押し進めることに使った方がましである。
仁義よりも個人の利益の方が大切である。それが人間の性である。人類は人間の性によって確実に将来に向かって発展もしくは衰退している。人間の性を研究することで、人類の将来をも予言することが可能となる。人間は、多くの古の思想をミックスさせて人間の性に従って、将来の世と将来の言説を作り出す。現在は、功利主義が行き過ぎで、幾分か道徳が復活すべきである。
孔子は自分を徳がある人間である、と自分自身を言っている。そこには確実に、仁義だけでなくエゴが存在する。
現代世界は資本主義だが、貧富の差が激しい。それを修正し、ある程度平等にすべきである。
儒教が衰退したのは人間の性のせいである。
儒教はおべっか、楊朱は傲慢、墨子は理想主義と言える。今現在、世界中の思想のミクスチュアが必要である。
仁義とは功利主義が行き過ぎた現代では、ある程度復活されるべきであるが、功利主義が行き過ぎたのは人間の性によるものである。私が言っているのは、時代の妥協的改革案である。
昔の世の中では王が世襲で王位について政治を行っていたが、現代の民主主義で選挙で政治家が選ばれた方がよっぽどましである。
人間の本性とは変わらない。よって、教育などで人間の本性を変えようと思っても変わらいない。教育では人間に知識を与えるだけである。
孟子は、「人間が時に不善をなしうるのも、決して本性ではなくて、これと同じく〔利害とか財物などの〕外からの勢力に激発されるから、そのなのである。」としているが、人間の本性とは変わらない。生まれつきで教育などでは変われない。
人間は性善説・性悪説と言われるが、人々はそれぞれに違った形である程度善がありある程度悪がある。
特徴とは、モノとか生物とか、植物とか動物とか、人間とか牛・豚・鶏とか、それぞれの区分でそれぞれに違いがある。その中で、それらのそれぞれの個々の違いで、特徴が違う。モノの場合はそれぞれにほとんど違いはないが、人間の場合は、それぞれに大きな違いがある。もしかしたら、本性もそれは先天的にどうにもならない種類から、後天的にどうにかなる種類まであるかもしれない。