人間は高みに行けば行くほどに孤独になる、ポピュリズムはそれを一切無視する。だから人々は尊敬される、ということを昔から変えて来ている、多くの人々が尊ぶものへ。
軽蔑と憧れが同時に成長するのは、平等を志向することと、尊敬されるべき人間を目指すことが同時に起きているからである。
人間的に高みに達していないと本当の自由には辿り着いていない。
死は苦痛が伴うから、自らそれを望む者はいない。
ストア主義とか仏教の煩悩からの解脱を目指すとかは、要らぬ苦労である。
私は子供を産む苦労を我慢できず、その欲求すら持たぬ者であった。
憐みは民主主義が浸透して行くと普通を志向することとなった。そして人間は科学技術を進歩させて、人間として生きて行くことの悦びの方の量を哀しみの量よりも多くさせて行った。
勤勉は逃避である。であるからして日本人は、全て自らの真の意志に反している。勤勉とは、実は自慢できることではない。
昔は死の説教を受けるべき人間が多くいた。それは高貴な人の目から見た光景であり、民主主義が経緯すると、人々は平均化し、死の説教自体が無くなってしまった。
世界はショウペンハウアーの言う苦悩に満ちたものであったが、人間は科学技術の発展により、悦びの方を哀しみよりも多くさせて来た。
日本人に創造者はいない。ほとんどが模倣者である。日本人がアズナンバーワンなど驕り昂ぶり以外の何ものでもない。
人間は進化ということは本来は高貴である、ということに関係していたのに、民主主義によって、進化が高貴である、ということでは無くなって、鈍化することを意味するのではないだろうか?
人間は究極的に自分自身の主体性の根源は、モノの最も細分化された、意識の中心にある、それは脳の視床下部の近辺にあると思われる、かつてDNAの最重要部位の原子であったモノの最小限のモノである、そしてそれである上は、モノであるときもあり、生物であるときもある、その宿命からは脱することが出来ない。だから人間は、モノである間は、意識は無くタイムスリップしているから、気付けば、生きている、という状況である。
ヘーゲルのやっていることは、世の中で存在しない矛盾から、合理性を見出す著述の展開ではないか?
哲学とは相変わらず古臭い主題がむし返されて語り直されているだけに過ぎない。
驕慢になり人を見下したり、人を憎むこと、というのは私にとっては皆無である。それだけ私は性質が良い方なのか?
私は子どもが欲しいと思ったことも、結婚したいと思ったことも無い。私はこの世の中を劇的に良くすることだけを願っていた。私は私以上の一者を創造しようなどと思ったことは無い。自分自身の夢を実現するだけで精一杯であった。
私は死にたい。それは私の力では、どうやっても、これ以上は素晴らしいものは創造出来ないからである。死に自由である、ということは死の苦しみからの解放であり、安楽死である。
私は人を羨ましいと思ったことがない。自分のことだけで精一杯であった。
私は我のために、と思ってやったことは無い。そのほとんどが世の中のためになることと思ってやったことである。
私達は、良いものと悪いものを嗣いでいる。私は小心が私が受け嗣いだ悪いもので、人のためになることを考えることが私が嗣いだ良いものだ。
人間は民主主義的になり、より平均化しているために、まだ踏まれたことのない幾千の小路、幾千の健康なありかたと幾千の生命の島は遠のき、人間の踏む道はより平均化している。
新約聖書を見て、そこから創造したのがニーチェのツァラトゥストラだ。私はツァラトゥストラから創造したいが、私にはその力が無い。
僧侶とは、現代から見れば、いかにも無駄なものであろう。
徳は人のためになることだが、私は、人のためになることを第一に考えて物事を行ってきた。そこには自分の欲求も満たすということも重複しているが。
賤民は民主主義時代の今はいないと思うかもしれないが、現代的には低所得労働者が賤民と言っていいだろう。
ニーチェは徹底的に平等・民主主義を批判するが、歴史は平等・民主主義が受け入れられ、高貴が忘れ去られて行った。でも高貴なことの目指す道徳とは、「人気」の中に見いだせ、高貴の種類が、より平等・民主主義的に変異して来た、ということがある。
現代は科学技術の発展により、苦しみよりも快いことの方が多くなって来ているから、人生の彼岸のことなどは生きている間は忘れて、充分に生を楽しめ。そして宗教的には宗教科学を受け入れて、人間は死後はモノとなって、意識が無い間はタイムスリップし、気付けば何らかの生物の主体として生まれ変わっている、ということを認めるべきである。
人間は平等の権利は得るべきだが、人類は超人を産む方向性に進化している。人口が増え、本来であるならば、死ぬべき運命の人間と、進化してより良くなった人間が混在している。
善悪、貧富、上下、その他もろもろの価値の名。それらが戦い合う必要性はある程度までしかない。人間は平等となった方が、より快適である。平等と民主主義を志向した上で、正義は「人気」に向けられるようになって行く。そして自己克己が平等と民主主義にとってより良いものであるべきである。生の高みは民主主義・平等を標榜するものであるべきである。
私は競争社会に辟易している、もっと協力し合って、賢く、競争を避け、共生出来ないものか?そのためには新しい社会システムが必要である。競争には無駄が多い、競争の熱量を、もっと人生を楽しむために使用できないものか?
名声の高い者は民衆に仕えるべきである。しかしそれがポピュリズムであってはならない。有徳者はポピュリズムと本当に民衆にとって善いことを分け隔てて踏まえなければならない。自由な精神とは民主主義と平等とを志向して発揮されるべきものである。人々と自分が共に幸せであれば、それに越したことは無い。ニーチェの言う民主主義・平等が悪であって、高貴が善である、という主張は、時代の経過の一部に過ぎなかった。誠実とは民主主義・平等上の幸せの上にあれ!人間生きて行く上で社会に従順なことは大人の証拠である。しかしそれに甘んじてはならない。社会には改善すべき幾つもの点が見いだせるからである、であるからして、人間は社会に従順になるべき部分と改善すべき面を分けて考えるべきである。社会に従順であるから自由な精神からかけ離れている、というのは子どもじみている。人間、人間として生きて行く以上は社会に従順に従わなければならない部分と、そこから自由である精神と両方必要である。人間は科学技術の発展によって、快適に生きて行くことが出来るようになって来た。そのような中で、苦しみはある程度克服された。苦しみの戦いからの克己の多くは歴史上の発展を見ればよ良い。それと同時に社会改革で必要なことを潔く行うべきである。出来る者は出来る者として、そうでない者の幸せにも貢献し、出来ない者は出来ない者として、出来る者に謙遜し、その施しを受けるべきでる、例へプライドが邪魔をしてもそれを乗り越えるべきである。そうやって人々は民主主義の世界で協力して生きて行くべきである。自分の限界を感じて己を知ったときに、更なる成長がある場合がある。
夜の歌
満ち足りた者はその愛をそうでない者に、ある時は対価を受け取り、ある時は無償で施し、そうでない者はその愛を素直に受け入れるべきである、プライドを棄てて。ツァラトゥストラの愛は、民主主義・平等を否定する面から、施される側からはそれを受け入れられなかった。人間は光の面と夜の面がある、それを自ら知っているということが、自分を知る、ということである。人間とは持っているものと欠如しているものがある、それらを補完し合う場所が社会である。しかし現代社会は完璧ではない。改革が必要である。どんな悪書も身のためになる、悪書は悪としてその逆の正しさを教えてくれる。だからツァラトゥストラが受けるものが無いということは無い。人間は表現する時には中庸が求められる。あることを極端に肯定し、あることを極端に否定し語っても、それは現実の姿からはかけ離れている場合がある。与えることと受けること、互いが理解し合うことは有り得る、与える者が言葉を尽くし、受ける者が良く聞けば。与える者が受ける者から奪いたい、という欲求に駆られる、ということは、高い徳ではない、本当の愛はそのような感情が浮かぶ余地が無い。徳は有り余って、倦むということはない、本当に有徳な人間は、倦むことなく与え続けられる。与え続けることに倦む、ということは人間だからである、人間の正直な告白である。与え続けていると、自分は偉大であると思い込み、羞恥を失いがちである、しかし自分は欠陥のある人間の一人である、という現実を忘れてはならない。与え続けていると機能不全を生じることがある、例えば思考の癖で、思考が凝り固まり、同じものを与え続けてしまうことなどである、それは修正できるならば修正すべきである。老人になると感性が少なくなって行く、しかしそれで論理的思考が弱まる、ということは無い。自分が太陽の光で、他者が闇であるならば、闇は、自分が自分自身で発光していることを教えてくれる、それは感謝すべき状況である。悪しきものはその存在自体が、善きものを教えてくれる。例えば他者の多くが悪であるならば、自らに善が多くあることを知ることが出来る。偉大な者は偉大な者からも学ぶべきことがある、学ぶべきことがないならばそれは同胞であって孤独では無い。太陽と素晴らしい人間と違う部分は、太陽には意志が無く、素晴らしい人間には意志があるということである。他者に認める部分があればそれを受け入れる意志があり、他者に悪い部分があれば、それを学びとする意志がある。素晴らしい者は悪しき者から、逆に善を学ぶことができる、そして素晴らしい者は素晴らしい者から、自分自身の悪しき部分を指摘してもらい、初めて自分の欠点に気付き、改めることが出来る。自分が完全な者であって、他の者から受け入れるものがない、と思うことは、自分の非に気付いていないことがある、それだけ脳が頑なだということである。孤独だと思うことは、自分が素晴らし過ぎて、民主主義・平等を否定することにある場合がある、と同時に民主主義・平等の恩恵も受けたい、という両方の気持ちがあるから、なお一層それは強くなる、ということもあるであろう。そして自分が民主主義と平等に向いた人間となり、多くの人々と共感し、お喋りしたいという気持ちも分かる。人間として仲間が欲しい、という気持ちも分かる、しかしそれは、自身の民主主義・平等を否定する考えを打ち砕く必要がある、ということもある。自分自身も一人の愛ある人間である、ということが分かれば、自分の心を開くのもそう遠いことではない。
舞踏の歌
民主主義・平等・自由な時代に生まれた我々は、物欲や野心など、好きなだけ満たせば良い。ただしそれらが無駄である、ということは、悟りを得た後には分かってしまうことであろうが。先ほどは煩悩からの解脱は無駄なことだと語ったが、現代社会では、好きなことをいつまでも続けて居られる訳ではなく、好きなことを諦めて、嫌々ながらの仕事をしなければならないので、その為に煩悩からの解脱、ということは必要である。現代社会では生は科学技術の発展によって、哀しみよりも愉しさや悦びの方が多いから、それらを楽しんで生を全うすべきである。生が変わりやすく激しく一人の徳の無い女だとしても、それらは科学技術の進歩によって、改善されているから、問題無い。しかし現代社会では、誰もが好きなことをして生きて行けるぐらいには進歩していないから、人類はそれが可能になるまで進歩すべきである。労働からの解放と引き換えに自由になる賃金が得られるようになるべきである。そして生の憎むべき部分は無くなればいい。その憎むから愛していることの証しではなく、現実的に憎むべきことを抹殺すべきである。生の知恵とは現代社会では、いかに無際限な欲望を抑え諦念を持つかである。それで嫌々ながらの仕事に打ち込むことが出来る。生とは死と神以外の真理である、だからその知恵は生に瓜二つとなる。良く生きる知恵とは金を稼ぐ技術を持つことであろう、しかしそれは私には出来ないから、一気に人類の労働からの解放を訴える。生きる知恵は美しいかどうかは分からない、しかし人を苦しみから解放するだけ魅力的なものである。人間は人間として生まれること自体が奇跡的で、それだけで魅力的なものである。その人生をないがしろにしてはいけない。そしてそんな人生だからこそ、より良く生きることに向けられなければならない。生の知恵とは現代社会では、科学技術と煩悩からの解放の知恵と金を稼ぐ技術と人類の労働からの解放である。それらさえ満足させれば、後は死の問題だけが残る。死の問題は、宗教科学で、人間の生の元である、原子が、宇宙の滅亡によって、それ自体が無くなるときに、輪廻から解脱されるということである。人間は死後、低次元生物から高次元生物に生まれ変わるが、その輪廻からは、宇宙が無くなって、原子そのものが無くなることによって解放される、人間の主体性の本質は原子であって、生物に生まれ変わらないときには、意識がタイムスリップしているから、輪廻からの解脱は割と早く訪れるかもしれない。人間鬱病になって死にたい、と思うこともある、しかし人間は人間として生まれて生きる事は奇跡的に素晴らしい事なので、それをむやみやたらと放棄することは出来る限り避けなければならない。そのためには生きる愉しさや悦びを見つけるべきである。私の場合は、食欲を満たすことと、読書とそれに関する随想を著述することである。それでも我慢できないときは安楽死が与えられてもいいと私は思う。日本人が勤勉なのは、仏教によって、煩悩からの解脱という諦念によって、本当の人生の悦びや愉しみを諦めているからということはあるかもしれない。
墓の歌
若い頃の夢や理想は私の場合は友情が主なものであったが、それは齢を食う毎にどうでもよくなってしまった。しかし相変わらずにある夢や理想は、世の中を良くすることで、私は「人類の労働からの解放」を謳っている。そして最近は、煩悩からの解脱を目指す仏教にも関心が湧いて来た。その中でも禅宗に強く惹かれる。特に臨済宗に惹かれる。そして碧巌録を読みたい。しかしそれとは裏腹に、なお生を肯定する思想にも興味がある。民主主義・平等を否定する、高貴ということには興味が無い、しかし有徳ということには興味がある、有徳とは、現代社会では、民主主義・平等を満たし人のためになることである。そして本当の自由を齎す煩悩からの解脱ということにも興味がある。勇気とは死ぬときに必要である。闘志は金を稼ぐ技術を持ち、尚人々と競争するときに必要であろう。忍耐は好きでもない仕事を嫌々ながらするときに必要であろう。ツアラトゥストラの理想とは民主主義・平等に反しているから、優れていても孤独であり、当時から人々に受け入れられずに、現代社会ではもっと現実の理想からかけ離れている。若い頃の理想は感性が高いから、柔毛(にこげ)に似ている、しかし理論的整合性は齢を取ってもある程度までは衰えることはない。高貴を嫌うのは民主主義・平等の方向性からすれば、普通の事である。であるからして有徳とは民主主義・平等を満たしてあるべきである。若い頃の理想、遊び友達などはどうでもいい。神的なものが重要である、という精神は私が若い頃には無かった。私は若い頃から無神論者である。神というものは生きている以上はいるかいないか分からない、としか言えない。神は妖怪のような者が生きている現実を考慮すれば、その境遇を鑑みるに、いない、と言う方が可能性は高いのではないか?東アジアの人間が無神論者が多いのは、儒教と仏教の精神が遺伝的に発達したのか?その人々が多いのが不思議である。夜眠れないのは鬱病ではないろうか?神が存在したとした時には眠れて、神がいないと無神論者になった時に鬱病となって眠れなくなることは考えられる。占いとは、無神論的であり、現実世界とはかけ離れたものである、しかし易経のような東洋の占いには確固とした法則がある。一切の嫌悪の念を棄てる、それは悪が多い現実社会では無理である。まずは殺人者に対しては嫌悪の念を棄てられないであろう、しかし殺人者も、好きでやってることではなくDNAによって自分の好き嫌いに関わらずに運命によって決まっていてどうしようもないとすれば、殺人者への嫌悪は捨て去れるであろう。そして民主主義・平等を志向する者達のせいで最も近しい者達に裏切られたとするならば、その元が民主主義・平等に反対して、高貴を標榜したことが原因があるならば、納得できることである、その場合は、その者に向けられる嫌悪を民主主義・平等を素晴らしいものと変えることによって持たなくとも済むようになる。意志は若い頃の理想が無くなることを超えて生き続ける。
共産党とは誤った思想である、平等は民主主義の上に成立していなければならない、共産主義を押し進めるために、一党独裁であるべきという思想は間違っている、それは現にソビエト社会主義共和国連邦・中国・朝鮮民主主義人民共和国・ベトナムで証明されている。新しい共産主義的思想とは、私が唱える、「人類の労働からの解放」案である。それは次の通りである。
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人類の労働からの解放党主要政策
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人々が現代において行うべきことは、「人類の労働からの解放」と、「自民党公約を一歩押し進める」ことである。これが革新と保守の両立である。
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人類の労働からの解放のためには、その契機となる、革命的合意が必要である。そのためには民主主義が成立していなければならない。人類の労働からの解放は、第一にブルジョアの撤廃が必要である。第二に産業用作業ロボットとAIの普及と、その稼働による稼ぎを全て平等に人々に分配することが必要である。それによって新しい共産主義的平等は実現する。それが人類の労働からの解放である。そのためには人間の労働は全て、産業用作業ロボットによって取って代わられなければならない。そこまでに産業用作業ロボットとAIの技術力が進歩しなければならない。そのためにはそれらの急速な発展が必要である。それにより人々は嫌々ながらの仕事から解放され、無駄な仕事も一切なくなる。革命的合意は人類の更なる進歩発展のためのグレートリセットである。
完全な平等を目指すと、それによって、新しい開発を担う人材がいなくなり、社会の発展が阻害される可能性がある。そうであるならば、それらを担う人々には、平均的に支払われる賃金より多い額が支払われるべきである。新しい開発は新しい共産主義的平等達成の後、全ての人々が自分が好きな仕事が可能となりそれらを行った結果成し遂げられるであろう。であるから人々は、平等に人々に分配された賃金を基本給として持ち、余った時間で好きなことをやって、それが成功したら貰える報酬の二種類の収入を持つことになる。
共産主義的平等と言ったが、共産主義は歴史上一度失敗している。それは、その過程においては一党独裁となるべきという考えから、失敗したところで、一党独裁勢力が共産主義の意に反して、富と権力を独占したからである。共産主義的平等は、議会制民主主義の元の多数の承認によって、実現されるべきであって、革命的合意の後も議会制民主主義は存続されるべきである。それは性善説によって一党独裁によって、善政がなされるということが幻想であったからである。政治の担い手は、民主主義による衆人監視により、常にチェックされなければならない。
既存の共産党とは古い失敗した勢力である。新しい共産主義とは“人類の労働からの解放”を内包していなければならない。
ブルジョアの撤廃とは、全企業の企業家から企業の経営権と、企業の売り上げから必要経費を差し引いた額を、政府がただで獲得することである。その後にその財産が人々に均等に分配されることになる。しかしそうなると、ブルジョアの撤廃は、憲法29条により私有財産制度が保障されており個人の財産は守られている、ということに抵触するであろう。そうであるから、企業家及びその犠牲となる者達には、それに見合った、勲章のようなものを与えることが考えられる。
産業用作業ロボットとAIが高度に発展し、人間の首がどんどん切られて行き、それが人々の我慢の限界を超えたときに、私が言う「人類の労働からの解放」案は有益となるであろう。
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現代社会では芸術はすでに題材が枯渇仕切っている。それは感性に訴えるものだが、美術も音楽もやれることは残されていない。ベートーベンは音楽の進化の途中にあるものであって、最先端ではない。最先端ではないのに、尊ばれるのは、それが音楽として根源的な魅力を持っているからであろう。戦争と芸術に関することでは、甚だ結び付きようもない。